第3話
数日が経った。その夜もまた温かい梅雨の天気だった。この雨の所為で客の足取りは悪く、凛一は出窓に肘をついて空を見上げていた。
雨は嫌いじゃない。室内で音を聞いていると母親の胎内を思い出すし、外で降られるとしっとりと肌を濡らす感触が気持ち良い。乾いた土に降り、むっとむせ返るような雨の匂いも好きだ。
ことり、と音が響き、襖の外に人の気配がした。凛一は起き上がり、すらりと襖を開ける。そこに立っていたのは水桶と、髪結いの道具を持ったひびきだった。
「凛一兄、髪の毛を結うのを手伝いに来ました。」
「おお。今日は、ひびきの番だったか。」
おいで、と入室を促すとひびきは嬉しそうに傍らまでやってきた。凛一の元で膝をつくと髪結いの道具を広げる。
「ひびき。まずは、髪の毛を梳いてもらおうかな。」
「はあい!」
ひびきは櫛を手に取って、凛一の背後に回った。そしてたどたどしく凛一の髪の毛に櫛を通し始めた。凛一の髪の毛は細く長いので、時折、絡まって櫛に突っかかる。痛いことは痛いが、髪を梳くひびき本人は甚く真剣で一生懸命なので我慢することにした。
「凛一兄の髪の毛って、綺麗だね。」
「そうかい?ありがとう。」
「光沢があるのに柔らかいし、なんだかいい香りがする。」
「椿油だよ。髪の毛を洗った後に、乾かす前にほんの少しつけるんだ。今度、ひびきにも分けてあげようね。」
「本当!?」
ひびきは凛一の首元に腕を回して、後ろから抱きつく。
「本当だとも。かなでと一緒に取りにおいで。」
「かなでも一緒?嬉しい!」
自分一人だけでなく弟の分も、と考えるひびきの頭を撫でた。
「優しいね。ひびき。」
凛一の言葉に、ひびきはえへへと恥ずかしそうに微笑むのであった。
髪の毛を結い、かんざしを選び身に着ける。ひびきの持つ鏡を覗き込んで左右に首を振ってみる。おくれ毛がないことを確認して、凛一は頷いた。
着物を着付けて、目元と唇に朱を指せば、男娼の最上位である花盛の出来上がりだ。
「花盛。花遊びのお客さまがいらっしゃいました。」
かなでの落ち着いた声が部屋の外の廊下から響く。
「ひびき、ここはもういいからお客をお通しして。」
「はい。」
そそと化粧道具や鏡、水桶を持ってひびきは部屋から退散した。そしてかなでと合流して、客を凛一の部屋へと誘うのだった。
三つ指をついて頭を下げ、客を出迎える。
「足元が悪い中、よくお越しくださいました―…、」
良く通る凛一の声を遮ったのは、聞き覚えのあるあの低い声。
「長谷さん。顔を上げてくれないか。」
笑みを含んだ声に、はっとして顔を上げるとそこに立っていたのはランスロットだった。
「こんばんは。」
「…、こんばんは。」
ちらりと双子を見ると、今夜のお客です、とばかりに頷かれる。
…本当に、来てくれた。
凛一はそこはかとなく感じる嬉しさに、緩みそうになる気を引き締めて笑みを浮かべる。
「いらっしゃいませ。お食事は?何か、お飲みになりますか?」
「うん、そうだね。白湯をもらおうかな。」
「白湯?」
凛一と、後ろに控えていた双子も小首を傾げる。
「日本酒はどうにも、酔いやすくてね。」
照れくさそうに笑うランスロットを見て、微笑ましい思いでふっと凛一にも笑みが零れた。
「承知しました。ひびき、かなで。白湯を。」
双子が頭を下げて、部屋を出ていく。ランスロットは凛一の隣に座った。
「可愛らしい、種子たちだね。あの子たちは、双子なのかな。」
「あい。兄のひびきと、弟のかなでです。ご贔屓にしてやってくださいね。」
ランスロットの脱いだ上着を畳みながら、凛一は和やかに返事をした。ランスロットはその手付きを子供のように見つめている。
「何か?」
「うん?いや…綺麗に畳むなあと思って。しわ一つない。」
「慣れれば、誰でもできますよ。」
クスクスと笑うと、ランスロットは外国人らしく両手を肩の高さで掲げて、ついでに肩をすくめて見せた。
「何年経っても、俺がやるとよれよれだよ?」
「不器用なんですね。」
「やり方を教えてくれないか。」
ランスロットの指がわずかに凛一の指に触れる。その体温はやはり高い。
「やり方って…、畳み方ですか。」
「そう。」
言いながら、凛一が畳んだ上着を「もう一回」と言って広げてしまう。そして再び、瞳を輝かせて凛一に畳むように急かした。
「仕方がないですねえ。」
ククク、と鳩のように笑いながら、凛一はもう一度上着の布地を手にした。
「ここに…、折り目があるでしょう。折り目に添って…、そう。」
「こう?」
時折触れ合う、手と手。ざわつく心を殺して、凛一は指導に徹底した。
「長谷さんは丁寧なんだね。自分がいかに大雑把か、よくわかったよ。」
まるで売り物のように畳まれた上着を見て、ランスロットはパチパチと拍手をした。凛一は服を畳むという作法が、何か特別な何かをやり遂げたかのような満足感として味わった。
「ランスロット様。白湯のご準備が出来ました。」
「どうぞ。」
「ありがとう。」
双子が用意した白湯の入った器を両手で包んで、ランスロットは美味しそうに飲んだ。
「この白湯、少し柑橘の香りがするね。」
「あの、ただの白湯よりも飲みやすいかと、思いまして。」
「風味付けに蜜柑をちょいとしぼってみたんです。…すみません。」
指摘されて、双子がおどおどとしながら告げる。
「二人で考えたの?」
ひびきとかなでは頷く。
「謝ることはないよ。花盛の教育の賜物なのかな。心使い、とても嬉しい。」
ランスロットはそう言いながら、双子の頭を撫でた。双子は嬉しそうに、誇らしげに笑む。
「長谷さんも飲むかい?」
「頂いてもよろしいんですか。」
「お酒の方がよかったかな。」
「いいえ。毎夜の酒で胃が疲れていましたので、白湯が嬉しいです。」
正直な胸の内を告白すると、ランスロットはふわりと笑った。
「なら、よかった。」
蜜柑のしぼられた白湯を回し飲んで、夜の席だとは思えないほどまったりと過ごした。ランスロットの希望で、種子の双子も含めて双六やコマ回しなどの遊戯に興じることになったのは驚いた。
「おや。サイコロに嫌われたようだ。俺が、一番最後だね。」
双六では何度競っても、ランスロットが万年ビリ。
「見ていてご覧。コマの糸渡しだ。」
ランスロットは遊びに関してはとても器用らしく、様々なコマ回しを披露した。最初こそ恐縮していた双子たちだが、次第にランスロットの芸に瞳を輝かせて見入っていた。
「ランスロット様。もう一度、コマのだるま落としを見せてください。」
ねだるひびきの声に嬉しそうに、返事をする。
「おお。いいぞ、いいぞ。かなでは?何が見たい?」
「…糸渡し、を。」
かなでがもじもじと言いにくそうに、それでも好奇心が抑えきれないのだろう。小さな声でリクエストした。中々、わがままの言えないかなでにも話題を振るあたり、ランスロットはよく人を見ている。
凛一は双子たちを慈しみ、可愛がってくれる様子を新鮮な面持ちで見つめていた。
まるで家族ごと、大事にされているような感覚だった。和やかで、穏やかで、温かくかけがえのない時間の過ごし方だと思った。
「長谷さん、どちらがより長くコマを回していられるか勝負しませんか。」
「僕、少しは腕に覚えがあるんですが。手加減しませんよ?」
そう言いながら、凛一は着物の裾をたくし上げる。ランスロットは「それはいい」と笑った。
何度目かの勝負を挑んでいる最中のことだった。部屋の外の廊下で、大きな足音が近づいてくると共に、その足音の主を止めようとする番頭の声が響いた。
「? 何でしょう。」
かなでが首を傾げ、襖にそっと手を掛けた瞬間だった。バンッと勢いよく襖が開かれ、そのはずみにかなでが突き飛ばされそうになる。しりもちをつく前にランスロットが長い腕を伸ばして、かなでを支えた。
「かなでっ!」
ひびきが叫び、かなでの元に駆け寄る。
「だ、だいじょうぶ…、」
ランスロットの腕の中で、かなでは呆然と驚いているようだった。凛一がそんな三人を庇うように、前に立った。
「一体、何事ですか!」
キッと睨みつけた先にいたのは、顔を紅くして酒臭い息を吐く体格のいい男だった。
「凛一ぃ、いつになったら相手をしてくれるんだ。いい加減、焦らし過ぎなんじゃねえか。」
この男は以前にも泥酔して、男娼に手を上げたということで見世を出入り禁止になったはずだ。凛一に固執しており、これまでに何度も見世の前で番頭といざこざを起こしていたが、とうとう見世に侵入してきたらしい。
「今夜なんて、得体の知らねえ異人なんて客にしてやがる。馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
「凛一兄!!」
ひびきが悲鳴を上げる。男は土足のまま畳に上がり、凛一の頬に手を張ろうとした。凛一が衝撃に耐えようと目をぎゅうと瞑ると、肩を抱かれて、肌が弾ける音が別に聞こえた。
「…え…?」
驚きに目を開くとランスロットが身体を張り、凛一を庇って頬を紅く腫らしていた。
「ラ、ランスロットさん…っ。」
凛一が悲鳴を飲み込む。ランスロットは場にそぐわず、にこりと笑った。
「旦那、ダメだよ。お酒は楽しく飲むものだ。」
「うるせえ!何をへらへら笑って、」
次の瞬間、ギリリ、と男の服の襟を締め上げるランスロットがいた。笑みは変わらず浮かべてはいるものの、凄味が増していた。
「彼らを傷付けるのは、自分の傲慢な自尊心を満たすためなのかな?小さな男だね。」
身長差で、男はつま先立ちになってもがいている。ランスロットの手が緩まる気配はない。
「お巡りさん!こっちです!!」
番頭の金切り声が上がる。それと同時に、バタバタと複数人の足音が響いた。そうして現れた警察によって、男は喚き散らしながら連行されて行った。
しんと静かになった部屋に残された番頭が、ランスロットにしきりに頭を下げる。いつも通りのふわふわした笑みに戻ったランスロットが、「大丈夫」と手を振り、未だに怯えて固まっているひびきとかなでを抱き寄せた。
「ひびき。かなで。怖かったね。」
よしよしと頭を撫でられて、やっと幼い二人は涙を零した。
「ランスロットさん、頬、冷やさないと。」
慌てて席を立とうとする凛一を、ランスロットが制する。
「?」
「長谷さんも、怖かったね。よく我慢したね。」
頭にランスロットの大きな掌がふわりと置かれた。
「が、我慢したのはランスロットさんじゃないですか。」
凛一は顔を上げて、ランスロットの頬に恐る恐る触れる。紅く腫れて、僅かに熱を孕んでいた。自分を庇った故に受けた傷だ。それは不謹慎にも少し嬉しくて、愛しかった。
「痛い、でしょう?」
涙声が滲んでしまった。ランスロットは凛一の手を取って、ぶたれた頬に押し当てた。
「ああ、長谷さんは体温が低いなあ。」
「!」
「気持ちがいいね?」
猫のように凛一の掌に擦り寄る。ランスロットは目を細めていた。
「…バカ…。」
今になって、涙が零れそうになるのを抑えきれない。手をそっと外して、踵を返すかのように背中を向けた。その背を追うようにランスロットが腕を伸ばして、背後から抱きすくめてしまう。
「…っ、」
「そうやって誰にも見られないように、いつも泣いていたのか。」
鼓膜に直接囁かれ、粟立つような感覚を背筋に味わった。とても静かな声で、それは双子と番頭には聞こえない声量だった。きっと皆に伝わらないように、配慮してくれたのだろう。
「いいよ。今は、俺にしか見えてないから。」
「本当に…、気障な人だ。」
目をこすって涙を拭おうとすると、手を取られてしまう。
「目が腫れるから止しなさい。」
「え。」
西洋風のダンスのようにくるりと身体を反転させられ、慣れない浮遊感に足がもつれそうになるとすぐさま真正面から抱きしめられた。仄かに花のような清々しい香りが鼻腔をくすぐる。驚いて目を見開くと、はずみに零れた涙がランスロットの服に滲みを作った。
「ごめんなさ、い。」
「気にしなくていい。このまま拭ってしまいなさい。」
「…ハンカチ、持ってないんですか?」
余りの無頓着さに、少し笑ってしまう。凛一の笑みを嬉しそうに受け止めながら、ランスロットはおどけて見せた。
「そんな気の利いたものは持っていないよ。」
雨の中、紅の傘をさして帰っていく後ろ姿を凛一は見送った。通りを曲がる刹那、僅かに振り返ってランスロットが手を振った。凛一も微笑んで、胸の位置で手を振って見せた。もう片方の手には返された紺碧の傘が握られている。
姿が見えなくなって凛一が見世に戻ると、双子がバタバタと駆けてきた。珍しくかなでも慌てている。
「花盛、ランスロット様は?」
「もう、帰られてしまった?」
その様子に、凛一は小首を傾げながら答える。
「ああ。今し方、お帰りになったよ。」
ええー、と残念そうな声を上げるひびきとかなで。どうしたのかと思っていると、ひびきが手に青みを帯びた布を握りしめていた。
「ひびき、その手にあるのは?」
「これ、ランスロット様が貸してくださったんです。」
そっと握っていた掌を開いて、中身を見せてくれる。それは握られて皺は寄ってはいるが、ハンカチだということがわかった。
「…ハンカチは持っていないと言っていたのに。」
そういうことか。すでにハンカチは、ひびきたちに貸してしまっていたのだ。
「また来てくださいますよね…?」
かなでがしょげて、気を落とす。
「期待しないで、待っていようね。」
凛一はそう言って、双子の肩を抱くのだった。
期待なんて、しない。白く募る思いがその金色の希望の光に焼かれて、黒く焦げていくのが手に取るようにわかってしまうから。
そんなの、全然美しくない。
凛一は借金を返すために、売られてきたのではない。人攫いによって赤子の頃より、色町の間で売買された。父親の背中と母親の愛を知らずに育った、幼少の頃。凛一の表情は欠如していた。固く心を閉ざしていた分だけ、愛を渇望していた。
花守の川口に買われて、一つ教わったことがある。
―…凛一。花盛に、なりなさい。
美しくあればあるほど、花盛の名声を手にすればするほど、お前を愛してくれる人がお前を見つけやすくなるのだから。
愛してほしい。
愛がほしい。
只々、愛されたくて、そして愛したかった。
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