第2話
色町は堀でぐるりと囲まれて、大門以外の出入りはできない。外界から遮断され、色町以外の外出を許されない遊女や男娼はまさに鳥籠の金糸雀だった。狭い生活範囲で彼らは人生を歩む。
「凛一、いいかい。」
共用を身に着けるべく書を認めていた凛一に、見世の店主。花守である川口が声を掛けた。凛一は筆を置き、川口を見る。
「花守。何の御用です?」
「ちょっとすまないが、おつかいを頼まれてくれるかな。」
川口は困ったように笑いながら、用事を頼むとき必ず「ちょっとすまないが」と付け足す。気弱そうに見えるが人を従わせることが下手なだけで、この高級男娼館である見世を切り盛りするいわば大黒柱だ。凛一を種子の頃から気にかけていて、その才を見出した人物でもある。父であり、母のような存在でもある川口を凛一は心から慕っていた。
「今日、君が育てている種子たちの着物が出来る。町の外れの呉服屋に、引き取りに行ってほしいんだ。」
最上位の花盛にもなると、後継者の育成も任されることになる。凛一も双子の男の子を抱えていた。
「承知しました。一時間ほどで、戻ります。」
「うん。頼んだよ。」
凛一が出掛ける仕度を整えて階下に降りていくと、着物の主になる双子が琴の稽古をしている最中だった。凛一の姿を見つけると、その稽古を中断して嬉しそうに駆け寄ってきた。
「凛一兄!どこかお出かけですか?」
天真爛漫な兄、ひびき。
「花盛とお呼びよ、ひびき。」
冷静沈着なのは弟のかなでだ。凛一はひびきとかなでの頭を撫でながら、応える。
「これから、お前たちの着物を取りに行くんだよ。楽しみに待っておいで。」
新しい着物と知って、双子は喜んで飛び跳ねた。凛一は微笑ましくその様子を見守る。
「戻ってくるまで、しっかりお稽古ごとに励みなさい。」
「はい」という声が輪唱したのを確認して凛一は見世を出た。
色町以外の外出ができないとは言え、町というほどもあり、銭湯や呉服屋。髪結いなどの生活に必要な店はそろっている。夜は妖艶な雰囲気を纏うが、昼間は普通の町と変わらない。
カラン、コロン、と下駄の軽やかな音が通りに響く。傘屋の前を通りかかったときに紺碧の傘を見て、凛一は歩きながら、先日出会った異人のランスロットの事を思い出していた。
自らの名前を名乗ったときの低く、少し擦れた声。見世の欄干から洩れた薄明かりに照らされて浮かび上がったのは、金糸の髪の毛だった。僅かに波打って妖しく、美しいと思った。彫りの深い顔立ちは日本人のそれではない。ふわりと漂った雨の匂いと交り、異国の香りがした。異人を不吉なものと恐れる人間もいたが、凛一は只々驚きと感嘆を以て見つめた。昔、寺子屋の先生を客に取ったことがあるが、その先生が妖精の存在を教えてくれたことがある。その時は凛一自身を妖精と言われたが、聞いた話だとランスロットの方が妖精のように思えた。
妖精は美しく可憐で、清く儚い生き物。その背にはどこまでも飛んでいける強かな羽があるという。
それは、自分には真逆のものだと思うのだ。凛一は自分自身を清いだなんて感じていないし、どこへも行けないことを悟っていた。
そんなことをぼんやりと考えていたからだろう。近道を通っているうちに、いつもは立ち入らない野良犬たちの縄張りに足を踏み入れてしまった。犬たちは唸り声をあげ、凛一を威嚇する。奥には鳴く子犬の姿が見える。親犬は特に警戒心が強い。
「何もしない!ごめんって。」
慌てて謝りつつ凛一は後退するが、犬は警戒心を解かなかった。次第に唸り声は大きな声に変わる。吠えられ、噛まれそうになりながら、凛一は裾を払うように手で追い払おうとした。
「あっちに行けったら…っ、」
「わんちゃん、長谷さんを困らせたらいけないよ。」
「!」
小路の反対側から聞こえた、穏やかな優しい声。それは雨の夜に聞いた声と重なった。
「ランスロット…さん?」
「おや。名まえを覚えていてくれたんだね。嬉しいなあ。」
そこにいたのはランスロットだった。ふわふわと微笑んでいるが、犬の喧騒は更に険しくなる。どうするのかとハラハラと凛一が見ていると、洋装の上着の懐から何かを取り出すと犬に匂いをかがせて、勢いよく遠くへ放った。
「そーれ。とってこーい!」
刹那、犬は凛一とランスロットのことなんか最初から見えないとでもいうように、放られたものめがけて走っていった。
「さて、今のうちに行こうか。」
ランスロットは凛一の手を取って、犬とは反対方向へと駆けだした。握られた手は大きく包み込むようで、そして温かだった。
「あの、今、何を投げたんですか!」
「肉の燻製だよ。俺の国の保存食だ。犬もめずらしい物を食べられて嬉しいんじゃないかな?」
いたずらっ子のように笑い、走っていく体験が何だか可笑しくて凛一も笑ってしまった。
しばらく走り、大通りに出る頃には二人息を切らしていた。
「はー、久しぶりに長く走ったな。」
そう言って髪の毛を掻き上げるランスロットの姿は恐ろしく様になった。思わず見惚れていると、「なあに?」と首を傾げられる。
「…あ、ごめんなさい。その、金色の御髪がきれいだなって。」
きょとん、とランスロットは目を丸くして、次の瞬間ひまわりのように晴れやかな笑顔を零した。
「君の黒髪も美しいよ。まるでビロードの布のようだ。」
「お、重そうに見えるでしょう?」
いきなりの満面の笑みに照れながら、凛一は長い髪の毛の毛先を弄る。すると、ランスロットがそっと手を伸ばして凛一の髪の毛を一房、指に掬う。
「…柔らかくて、手触りがいいね。まるで仔猫みたい。」
そう言って、ちゅ、と黒い毛先に口付けた。その様子を見て、凛一は頬を紅くして口を酸素不足の金魚のようにパクパクと開閉させた。そして、ふいと顔を背ける。
「あなたは随分と気障な人のようだ。」
「怒らせてしまったかな?」
「別に、怒っているわけでは…。お、お国柄ですか?」
「ん?どうだろうね。」
温かい日差しのような、またはたんぽぽの綿毛のようにふわふわした笑顔を見て、凛一は国柄というよりもランスロットの人柄だと知った。
するりと髪の毛を放される。ランスロットは凛一をじっと見つめた。その蒼い瞳に見つめれて、凛一は何もかもを見透かされているような気がしてしまう。それでも、目を逸らす気すら起きないのが不思議だ。まるで清らかな井戸水を見て、吸い込まれそうな感覚を覚える。
「長谷さんは、これから何処かへ行くところだったのかな。」
静かな凪いだ声が心地よく鼓膜に響く。凛一は思わず素直に頷いていた。
「あい。種子の子らの新しい着物を受け取りに。」
「へえ、興味深いね。同行しても?」
「そんなに面白いものでもないと思いますが…。ランスロットさんがそれで良ければ構いませんよ。」
「ありがとう。じゃあ、行こうか。」
ランスロットは嬉しそうに笑み、凛一の手を引いた。その子供のような仕草に面食らいながらも、凛一はその手を受け入れたのだった。
「日本の着物は柄が繊細で、本当に美しいね。何よりオリエンタルな形がすごく珍しくて、見ていて飽きないよ。」
ランスロットは時々、異国の言葉を混ぜながら楽しそうに会話をする。
「あの、おりえんたるって何ですか?」
「えーと、東洋的という意味かな。」
凛一の質問に面倒なそぶり一つ見せず、ランスロットは教えてくれるからありがたかった。
「ランスロットさんは日本語がとてもお上手だ。どうやって覚えたんですか?」
「ん?俺は貿易商人として、十代のころから母国と日本を行き来しているからね。自然と身についたよ。」
「どこのお国の出身なんですか。」
「英国だよ。雨の多い国で、そうだなあ。今の日本の季節と同じ感じだ。」
まるで想像がつかない国でも、添えられた「日本の季節」という言葉に親近感がわいた。
「ああ、ごめんね。自分の話ばかりしていた。今度は長谷さんの話が聞きたいな。」
「僕の話なんて、つまらないですよ。」
「聞かせて?」
何でもいい、と言われて、凛一は必死で話題になる記憶を手繰る。
春になると咲く桜の花の香り。雨によって変化する紫陽花の色。燃えるような紅葉と、真白い雪の日に茂る柊の葉。季節によって変わる木の葉が擦れ合う音や、時間で濃くなる植物の気配。
日々、気が付いたこと。感じる想いなどを連ねてみた。ランスロットは凛一が話すことを楽しそうに聞いて、「それから?」と続きを促すのだった。聞き上手なようで、凛一も楽しく思いがけず話し込んでしまう。その内に、目的地である呉服屋に到着した。
「ああ、ここです。ご主人、いますか?」
凛一が戸口をくぐると、ランスロットも後に続いた。呉服屋の主人はランスロットの姿を見て、とても驚いたようだ。
「やあ。花盛、今日は奇妙な男を連れているね。」
「こちらランスロット・ザラさんです。貿易商を生業にしているそうだから、一緒に仕事してみるのもいいと思いますよ。」
ランスロットが頭を下げると、主人が豪快に笑う。
「それは楽しそうだ。ええと、双子の着物だろう。出来ているよ。」
そういって店の奥から持ち出してきたのは、お揃いの鮮やかな浅葱色の着物だった。手に取ってみると軽く、肌触りがいい。これなら動きやすく、見目もいいだろう。双子が喜ぶ様子が眼に浮かび、自然と凛一の頬がほころぶ。ランスロットも手元を覗いて、ほう、と感嘆して溜息を零した。
「気にいったかい?」
「とても。ありがとうございます。こちら、お代です。」
着物の懐から、代金を出して主人に手渡す。その数を確認して、主人は「確かに。」と頷いた。
「俺の貿易の専門はかんざしや帯留めなどの装飾品なんだけど、こちらの着物はとても美しいね。主人。今度、酒でも交わしながら話でもしないかい?」
「儲かる話なら嬉しいねえ。」
どうやらランスロットは、人の懐に飛び込むのが上手な性質らしい。ははは、と笑いあう二人はかねてからの友人のようだった。
「じゃあ、またよろしくお願い致します。」
凛一とランスロットはそろって頭を下げて、店を出たのだった。
再び見世までの道を辿ろうとすると、当然のようにランスロットが凛一に寄り添った。また会話に花が咲き、あっという間の道中だった。
見世の前につき、凛一は頭を下げる。
「今日は楽しかったです。ありがとうございました。」
「こちらこそ。今度は、客として借りた傘を持ってくるよ。」
今日出会ったのは本当に偶然で、傘を持ち合わせていなかったらしい。凛一は客と聞いて、燦然と花盛の笑みを浮かべた。
「期待しないで、待っています。」
「どうして?期待して待っていてよ。」
「いいえ。期待なんてしません。」
「?」
ランスロットは小首を傾げながらも、その時は凛一の言葉の意味を深く考えなかった。
「おかえりなさい、花盛。」
「ただいま戻りました。いい子にしていた?かなで。ひびきも。」
いち早く凛一の帰宅に気が付いたのは、かなでだった。ひびきもすぐに二人の元へと駆けてくる。
「? 凛一兄、何かいいことあったのですか?」
「え?」
「本当だ。眠たそうな表情をしていない。」
ひびきの言葉に、かなでも凛一の顔を覗き込む。凛一は自分の頬を掌で包み込んだ。
「そんなにいつも眠そうかい?」
「うん。」と「はい。」という肯定の返事が重なった。…日ごろから気を付けようと思う。
「まあ、ちょっと。面白い人に会っただけだよ。」
「ふうん?」
二人は首を傾げながらも、これ以上の追及はしなかった。凛一は二人の頭を撫で、手にしていた風呂敷を前に掲げた。
「そんなことより。二人の新しい着物を引き取ってきたよ。着てみてごらん?」
きゃーというような甲高い、子供らしい歓声が上がった。凛一から着物を手渡され、嬉しそうに飛び跳ねる。そして自ら着付けるべく、部屋に戻っていった。凛一は手を振って見送った。廊下の一番奥、自室にいた花守の川口に帰宅した旨を伝える。
「おかえり。凛一。」
川口はそろばんを弾く指を止めて、凛一の頭を撫でた。大人になった今、子供扱いが心地よい。頭を下げて廊下に出るとひびきとかなでが凛一を探し、名を呼んでいた。
「ひびき、かなで。ここにいるよ。」
双子の名を呼んでやると、弾むような足音が近づいてきた。姿を現した双子は、浅葱の着物を身に纏っていた。青より緑に近い、さながら初夏の季節をそのまま着ているようだった。
「どれ、着丈は丁度いいかい?」
「うん!ちょうどいいよ!」
「花盛、ありがとうございます。」
面倒を見る種子の着物は、花盛が呉服屋に頼み仕立てることになっている。自らの着物、帯、装飾品や客を招く部屋の調度品まで、自分を売った花代で賄うことが花盛には求められていた。莫大な準備にかかる金と共に、見受け金を稼がないことには色町を出ることは叶わない。
「ああ、似合うね。二人とも、格好いいよ。」
凛一の言葉に、ニコニコとひびきとかなでは笑みを零した。その嬉しそうな様子を微笑ましく見つめ、ふと訊ねる。
「二人は、いくつになった?」
「九つです。」
「秋になれば、十だよ。」
この見世に来たころは、確か七つだった。
「そうか…。もうすぐ、三年になるのか。」
思わず凛一は目を細める。
はじめてひびきとかなでに出会ったとき、二人は随分と緊張し、委縮していた。表情も固く、只々二人で手を握りじっと静かにしていた。双子だけではない、色町に来る子らは大抵借金の返済のために親や親戚に売られてきた。
当初、二人ばらばらに売られそうになったところを、川口がまとめて買い取ったらしい。川口曰く、「何となく、幼少の凛一に似ているだろう?」とのことだった。常々、凛一は川口のおかげで今があるとひびきとかなでに言い聞かせていたため、二人は随分と川口に恩を感じているようだった。
「いい子に育ったなあ、お前たち。」
朗らかで、明るい。優しい、可愛い子供たち。
凛一は二人の小さな身体をぎゅうと抱きしめる。子供らしい高い体温と、笑い声が体内に響いた。これからつらいことがあっても乗り越えていけるよう、一人一人の人間として強く育てようと凛一は誓った。
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