花屠りて沈む、羊の水。

真崎いみ

第1話

色町、遊郭の一角。池の畔に立つ、小高い建物の二階。ここは長谷凛一の世界の一部だ。

凛一は出窓に座り、外界を眺めていた。目に眩しい新緑の葉。群れを成す水鳥たち。空気は瑞々しく、肺を満たして冷やしていく。目を凝らせば、番いの犬がゆっくりと通りを横切っていった。

「―…、」

歌をうたう。遠い昔、誰かが歌っていた悲しく儚い、優しい歌。



ギシリ、ギシリ、と階段を昇る足音が聞こえてくる。近づいてきて引き戸の前で止まった音を聞いて、凛一は出窓から降りて戸を開けに立った。

「凛一。今日も愛い奴だな。」

商人の若旦那が、待っていた凛一の頬を撫で耳元で囁いた。凛一は眠そうに微笑んで、その指に手を添える。

「今日も来てくれたんですね。嬉し。」

若旦那は凛一を寝床に誘った。

「おいで。」

手を差し出されて、何故、凛一に拒絶する権利があっただろう。その手を取って、誘われるままに寝室に移動する。寝床は天蓋の着いた豪奢な物で、ゆったりと絹の布が波のように張り巡らせていた。それは、若旦那と凛一を包み込んで尚、まだ余裕がある。二人なだれ込んで、着物を脱がされる。すかさず肌を這う舌の感触に、凛一は目を瞑った。

客の男、一人一人を相手に感じてなどいたら身が保てないことを、幼い種子のころより教え込まれてきた。

男娼の世界には、年齢と経験に乗じた階級が存在する。見習いの種子、下級の花芽、中級の花翠、そして最上位の花盛だ。男娼の見世『燦然名花』の花盛に、長谷凛一は君臨していた。

火照り、籠もるような熱が体内に生まれながらもそれは吐息で零れていく。凛一の長い黒髪が床に広がって、散らばった。

「…ん…、」

腕を伸ばして若旦那の頭を抱く。首筋を舐められ、そのまま喉笛を食いちぎられるんじゃないかと思った刹那、いきなり引き戸が開け放たれ涼しい空気が肌を刺激した。

「え、どなた…?」

凛一が思わず、布団から肘をついて起き上がる。そこにいたのは、見たことの無い人間だった。満月の光に照らされた白い髪の毛は、金色を帯びていた。逆光から表情は窺い知れないが、相手は息を呑んで相当驚いているようだった。

「おい、無礼だぞ!」

若旦那が、凛一の身体から起き上がって怒鳴る。乱入者は、はっと我に返ったのか深々と頭を下げて引き戸を閉めた。そしてしばらくすると、ギシリ、と階段を軋ませて下り遠ざかっていった。

「…興醒めだな。」

溜め息を吐き、頭を掻く若旦那の怒りを鎮めるように、凛一は再び腕を広げた。

「もう、止める?」

「いいや…。」

二人の影が、青白い闇に溶けていった。



月の美しい夜だった。銀色の光が見世の中庭の植物たちに、平等に降り注いでいた。さわさわと涼し気な音と共に葉が擦れる。緑の爽やかで、ほんの少し生臭い香りが鼻に抜けた。近くで水が流れる音が聞こえる。小川が流れ、池があると聞いた。銀色の庭は見世の主の趣味なのだろう。よく手入れされている。

イギリスの貿易商人、ランスロット・ザラは見世の二階の小窓からこの見事な日本庭園に見惚れ眺めていた。

日本の職人の技は、細やかでとても繊細だ。

いつかこの目で見た景色を、母国でも語り継ぎたいと思う。

「…ん?」

くらりと世界が歪み、酒を飲み過ぎたのだろうかとランスロットは首を捻った。日本酒は回りが早い。

ランスロットは水瓶で顔を洗い、酔いを醒まそうとした。キン、と冷えた水は井戸で汲んでいるらしく、肌に柔らかく馴染むようで気持ちが良かった。熱を逃すように深呼吸をし、ハンカチで顔を拭う。

鏡に映った背後の空は段々と陰りを含み、見事な満月を朧月夜に変えていた。もう直に地面を濡らし、大気を潤す雨が降るのだろう。雨が降ると咲く傘の花が楽しみだった。

見世の廊下に続く引き戸の数々はよく似ていて、帰り道を惑わす。それぞれ間の名前がついていたが、ランスロットはまだ漢字に詳しくない。唇に人差し指を当て、考え考え、廊下を進んだ。そして記憶を辿って目的の間の引き戸を開けた、はずだった。すら、と開け放つと、そこには夜の情事が繰り広げられていた。

長く美しい黒真珠のような髪の毛が肩からさらりと零れ、驚きに見開いた黒目の大きいこと。つん、とした鼻に、小さな唇が女子に見紛う如くだった。自らを誰かと問う、その声はボーイソプラノのようで耳に心地よい。只々、その甘美な景色にランスロットは声を失った。

だがしかし男娼に覆い被さっていた客らしき男に怒鳴られて、ランスロットはとんでもない場面に出くわしてしまったことに気が付いた。頭を下げて、その場から退散する。呆然と無意識に口元に手を当て、ふらふらと熱に浮かされたかのような足取りで離れた。


ピチョン、と植物の葉を伝い水の雫が落ちる音が響いた。雨が降ってきた。しとしとと降る柔らかく温かい雨だった。

商談を終えた筈のランスロットは見世の軒下。窓辺の朱色の欄干に寄り掛かって、空を仰いでいた。紺碧に淡い灰色の雨雲が巣喰っている。空から放射状に振る雨を浴びて、目を細めていた。カタン、ガタンと見世の扉が開く音が響いた。

「また来るよ、凛一。」

出てきたのは、一組の客と男娼。

「あい。期待せずに、待ってます。」

その鈴のような男娼の声を、ランスロットを待っていた。遠ざかっていく傘を差した客に手を振る男娼の後ろ姿をじっと見つめていた。そして、ふう、と息を吐いて振り返ったところに声を掛けた。

「あの。」

「! 驚いた。何か御用ですか。」

欄干から零れる淡い光に照らされて目を丸くするその顔は、先の失態を思い出させた。

「…、先ほどはすみませんでした。」

「?」

口元に指をあて、小首を傾げる様子が可愛らしい。そして、男娼は「ああ」と思い出した。

「わざわざ、そのお詫びのために待っていたのですか。」

「はい。」

先ほど間違えて床を乱入したことに対して謝りたく、ランスロットはずっと雨の中待っていたのだ。

「それだけです。それでは…、」

背を向けて雨の中を行こうとするランスロットを、男娼は引き留める。

「お待ちになってください。」

「…。」

立ち止り、首を傾げるのは今度はランスロットの番だった。男娼は見世の玄関の片隅にあった番傘を差し出してくれた。

「これ、お使いになって。梅雨でも身体は冷えます。」

開いた傘は空と同じ、紺碧の色だった。

「いいんですか?」

「忘れ物の傘です。使われなくては、傘が可哀想。」

まるで傘に、感情があるかのような言い方にランスロットは好感を持った。くくく、と鳩のようにランスロットが笑うと男娼は首を傾げていた。

「失礼。じゃあ、遠慮なく貸していただこうかな。」

傘の柄に手を伸ばし、僅かに触れた男娼の肌はひやりと冷たかった。

「ありがとう。」

「いいえ。」

「傘を返すという口実で…名前を、聞いてもいいだろうか。」

「正直な人だ。」

着物の袖で口元を隠し、上品に笑う。

「長谷凛一です。燦然名花の花盛を務めています。」

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