不健康診断

倉田日高

不健康診断

 ポストを開くと同時に滑り落ちてきた通知に、思わず顔をしかめてしまった。


 薄い紙には、私と家族の名前とともに、本人だけが開封を許されるシールが貼られている。ぺりぺりと音を立てて剥がした下からは、私たちあての呼び出し状が出てくる。

「国民健康診断に関するお知らせ」というそっけない文字列の下には、最寄りの健康センターまでの案内図が載せられている。


「そろそろ来るとは思ってたけどなー」

 ぶつぶつと呟きながら家へ上がり、ちょうど出くわした父親に通知を渡した。

「健康診断だってさ」


「おお、そんな時期か」

 還暦手前という年齢にふさわしい腹回りをした彼は、私の表情を見てかかと笑った。

「俺はもう生活習慣病の診断が決まったようなもんだからな」


 私のほうは、最近の生活態度を振り返るとなかなか不安だ。

 上司にメールを打つ。来週金曜に健康診断があるから休む、と伝えると、快諾がすぐに返ってきた。



――――――――――



 病院の白い空間は、いつ来ても息苦しいほどの清潔感をまき散らしている。ことさらに優しさを演出するクリーム色の調度を眺め、だんだん胃が痛くなってくるようにも感じた。朝から冷たい牛乳を一気飲みしてしまったせいかもしれない。

 壁に貼られたポスターから手を振る、にこやかな笑顔の患者。包帯の巻かれた足の代わりに浮遊する椅子に腰かけている。


 そういえばあれはなんと言ったか。昔一度だけ見た、椅子に車輪のついた乗り物。車輪が不要になったのはこの二十年くらいのことだから、私が子供のころにはまだ現役だった――そう、車椅子。

 どうしても乗ってみたくて父親にねだったこともあったなあ、と懐かしく思い出すのは、目の前の健康診断から目をそらすためだ。私の前にはあと二人、彼らの検査が終われば私の番だ。


「いやあ、いくつになっても健康診断は緊張しますな」

 不意に、私の前の番の老人が話しかけてきた。

「私が子供のころは病院に入るだけで泣いて嫌がっておりました」

「あ、私もですよ」


 幼いころの私は体が弱く、毎度何かしらの病気の診断が下されていた。と言うと、老人は目をすがめる。

「私は長年健康体ですからな。もう百になりますが、一度も不健康と診断されたことがありません」


「あ、それは素晴らしいことですよ」

「いやいや、こうなると一度くらい病気や怪我をしてみたかったとも思います」

 そういう老人の腕には、見るも痛々しい縫い目が走っている。

 私の視線に気が付いた老人は、

「これは五十歳の頃でしたかね」

と笑った。


 そうする間にもとうとう老人が第一検査室へ呼ばれ、私は一人取り残された。

 雑誌が置かれた本棚に手を伸ばす気にもなれず、腕組みをして待っていると、第二検査室のドアから男が出てきた。


「あ、お疲れ様です」

 それは私の会社の同僚だった。普段親しく話すほどの仲でもないが、場所が場所だけに同僚は立ち止まる。


「検査、終わりましたか」

「はい、いや、健康体だそうです」

 苦笑いした同僚に思わず同情の目を向ける。

「これから処置室ですよ」

「それは運が悪かったですね……」

「まあ、むしろここから先の運ですよ、重要なのは」


 処置室へ重そうに足をひきずる彼を見送り、他人の心配をする余裕がないことに気が付く。

「中井さーん」

 検査室から聞こえた医者の声は、人を気遣うそれのはずだが、どうにも不吉に聞こえて仕方がない。

 暗い表情になっていることを自覚しながら、私は検査室に入った。



――――――――――



「健康体ですね」

 医師の宣告に思わず顔が曇った。

「処置室へ行ってください。そちらで何の処置を受けるのか決定します」


 一昨年は左手の骨折、昨年は肺炎。今年は何になるか。


 左足にギプスをつけた医師は、私の苦い顔に気が付いて作り笑顔を浮かべる。

「いいことですよ。あなたは、病や障害を抱える人の苦しみを改めて考え直す機会を与えられるのですから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

不健康診断 倉田日高 @kachi_kudahara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ