第34話

 事務員は一度真田に見せたあと、封筒にしまって手渡してくれた。真田は受け取ったあと、丁寧に一揖して事務所をあとにした。

 6階のエレベーターホールでボタンを押そうとした時、すでにケージは5階を過ぎていた。咄嗟に真田はトイレに逃げ込んだ。インターホンで話す声が聞こえてくる。予感は的中した。「箕浦だ」と野太い声がした。

 ビルを出る時に腕時計を見ると、11時9分を指していた。この前老人に話を聞いた喫茶店のドアを引く。まだ昼時間には早すぎるので、客は1組しかいなかった。店のいちばん隅の席に坐り、スパゲッティ・ナポリタンとコーヒーを注文する。そして先にコーヒーが飲みたいと言い足した。

 コップの冷たい水を一気に飲み干すと、これまで我慢していたタバコに火を点ける。肺臓に滲みるほど深く吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。大事なひと仕事を終えた時のように旨かった。

 ガラスの灰皿でタバコを揉み消すと、いまもらってきた封筒の中から書類を取り出して目を通しはじめる。ある項目の途中まで読みすすんできた時、真田は読み間違えたのかと思ってもう一度項目の頭まで戻って最初から読み直した。

読み返した項目というのは、臓器提供を受けるための条件文であった。

《 臓器提供を受けるには代償として患者(レシピエント)以外の申請者もしくは親族の正常な臓器または臓器の一部を提供するものとする。但し提供臓器の種類については乙が自主的に提供するものであって甲が強制するものではない 》

 真田は読み終えた瞬間に凛然となり、光のない峪底に引き擦り込まれた気がした。

(あの老人が言い澱んだのはこのことだったのか――。ということは、老人は何かしらの臓器を提供することを承諾したことになる)

 ケチャップがたっぷり絡まったスパゲッティを頬張りながら、中西のことを踏まえながらこれからのことを考えた。

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