第10話  3

 そして一週間後――。

 真田は毎朝7時20分に家を出る。その日もいつもと同じように上着を手にして玄関に向かおうとした時、思い出したように背中越しに妻に言った。

「きょうはちょっと遅くなる。何時になるかはっきりしないから、食事は済ませてくる」

「そう」

 妻の恵理子は、気のない返事をしながら手提げカバンを手渡す。

 真田には小学校6年の正也と、同じく3年生の明日実あすみというふたりの子供がいる。

 4人家族なのだが、ここ何年かは休みの日以外ほとんど夕食は3人で済ませている。結婚したての頃は帰るたびに不満を洩らした恵理子だったが、子供が生まれてからはほとんど口に出さなくなった。仕事を理解しようと努めてくれたのか、子育てで忙しいからなのか、その理由について真田は訊いたことはない。

 自宅から駅までは徒歩で15分そこそこである。朝の中にある風景は毎日ほとんど変わることはない。見慣れた後ろ姿に何かしら安堵をし、馴染んだ景色に安らぎを覚えながら一日がはじまろうとしている。

 真田は歩きながらふと思いついたことがあって、中西の携帯にメールを入れた。

 

 じつは、真田は3日前の火曜日の夕方にあのビルの前まで行ったのだ。

 その日別のエリアを回っていた真田だったが、気になることがあって夕方近くに足を向けた。

 金曜に老人と会う前に、マエダビルの6階のオフィスから出て来るのがどんな人物なのか知っておきたくなった。

 真田はなぜこれほどまでに日本臓器製造のことが気になるのか自分でもよくわからない。人に病気だと言われても返す言葉がないくらいだ。中西の言った『アドレナリンをどう鎮めれば……』という言葉がわからなくもない気がした。

 エレベーターの動きを見るには、ビルの1階ホールしかない。1フロアーに1軒しかテナントが入ってないので、ここで見張っていれば間違いがない。もし別の階の人間が降りて来たとしても、エレベーターを待っていると思われるか、誰かと待ち合わせをしているようにしか見えないだろう。

 しばらくしてエレベーターが6階に呼ばれた。エレベーターの針がⅥに停まったとたんに心悸が烈しく鳴った。心臓が耳のところまで上がって来ているような錯覚をするほどだった。反射的に腕時計を見る。5時10分を指していた。

 慌ててビルを出ると、道路の反対側で気持の昂りを抑えたまま待った。まるで自分が英国の秘密諜報員になったような気がした。

 ビルから出て来たのは、背広姿で50代後半の頭髪が薄くなった中年男性と、紺色のスーツを着た面長で色白のスタイルのいい女性で、年は40を越えたばかりに見えた。ここから見た印象では、ふたりともファッショナブルなオフィスビルに勤めていると言っても充分通用する服装なりをしている。

 真田は、携帯をかける振りをしながら反対側の歩道を、ふたりの歩調に合わせている。

 ところがビルから出たふたりは、駅とは反対方向に歩いていたのだ。小首を傾げながらそのまま尾行をした真田は、しばらくして自分の失態に気づいた。

 ふたりが向かった先は、100メートルほど離れたところにある月極駐車場であった。

 真田の目の前を走り去る白い高級車のテールランプを見ながら真田は舌打ちをした。自社製品でなかった悔しさと、自分がこれまで全身全霊をそそいで扱ってきた商品に裏切られたという気持とが二重ふたえになって押し寄せた。

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