第5話 2
1週間して、真田はエリアAへ営業に向かった。もっと早く来れないこともなくはなかったが、わざわざローテーションを崩してまで来るほどのことでもなかった。
午前中に前回会えなかった会社の担当者のところに顔を出し、挨拶と取り扱い車両の説明を済ませると、牛丼屋で食事を摂り、セルフサービスのコーヒーショップでコーヒーを飲んだあと、マエダビルに向かってゆっくりと歩きはじめた。
ランチに向かう人たちが歩いているアスファルト敷きの道路に、初秋のシャキシャキとした陽射しが降りそそいでいる。1日でいちばん短い電柱の拵える影が親指のように見えた。
どこまでも続いている真っ直ぐな電線の影を踏みしめながらコンビニの前まで行くと、まるで儀式でもあるかのように胸のポケットからタバコを取り出した。火を点ける前に、右手を翳して陽射しを避けながらビルを仰ぐ。
昼からあの会社に顔を出してみようと考えながらタバコを吹かす。
腕時計を覗くと、昼休みの終わる1時までにはまだ20分近くあった。どうしようか悩んだあげく、コンビニで雑誌の立ち読みをして時間を潰すことにした。
店内には思った以上に客が入っていて、雑誌のコーナーも肩が触れるくらい立ち読みをする客がいた。こんな状況ではアダルト系の雑誌に手を伸ばすこともできず、適当に目の前にある雑誌を手にした。健康情報の雑誌だった。真田はまったく興味がないものの、手にした以上すぐ返すわけにもいかず、しかたなしにペラペラと中を捲ってみた。
その時、中ほどのページに臓器移植者の体験談が載せられてあるのに目が止まった。真田は手を止めて記事を読みはじめた。
65才・男性
私は40才を過ぎた頃に慢性腎炎を患いました。
それまではほとんど医者にかかったことがなく、医者に病名を聞かされた時、目の
前が真っ暗になり、生きる気力も失うほどでした。
でも、妻や子供たちに支えられて、何とか生きる努力をするように気持を切り 替えることにしました。
そこでまずはじめにしなければならないことは食事療法でした。水分、塩分、 たんぱく質などの摂取量がきちんと決められると、味も素っ気もない食事にな り、死ぬまでこれを食べ続けなければならないのかと考えると、暗澹たる気持 になりました。
でも、それはまだ序章に過ぎなかったのです。
病院にかよって検査と治療を続けていたのですが、徐々に体調が思わしくなく なり、3年半ほど経った時の定期健診で、血液中の血清クレアチニンや尿素窒 素値の異常が発見され、慢性腎不全と診断された私は、とうとう人工透析を受 けなければならなくなりました。
週2回、それも1回の所要時間が4~5時間かかるのです。それにかかる時間 を加えると、ほとんど1日が潰れるのです。仕事のほうは、透析を止めるわけ にもいかないために、会社と相談をして調整しながら続けることになりまし た。
この病気は悪化することがあってもまず完治はしないと聞かされた時、またし ても生きることが嫌になりました。しかし自分の病気でもあるかのように、ひ と言も不満を洩らすことなく献身的な介護をしてくれる家内の姿を見ている と、自分ひとりの病気ではない気がしてきて、家族のためにも頑張ることを決 心しました。
しかし、家族の惜しまない協力の下に病魔と闘ってきたわたしですが、ついに 人工腎臓か腎臓移植のどちらかを選択しなければならない状態に追い込まれま した。どちらも拒否した場合、残された道は「死」しかありません。
家族全員で今後のことを含めて相談した結果、移植の方向で進めることに決ま りました。腎臓移植とひと口に言っても、生体腎移植と死体腎移植があり、後 者は自分に適合するドナーがいるかどうかという問題とか、移植手術を受ける 順番だとかがあるために、そこまでの時間的な余裕がなかったこともあって、 生体移植を優先することにしました。
私の人生の後半は、暗い海の底で少しの酸素をもらいながら生きているといっ た心細いものでした。ところがここに来てようやくひと筋の光芒を見いだすこ とができたのです。
検査をしたところたまたま長男と血液型、白血球の型が合致したと医師から聞 かされたため、早速手術に踏み切ることにしました。
術後1年が経過したいまでは、透析の必要もなくなり、まるでこれまでが嘘の ように元気に毎日を過ごしています。
私の場合、運がよかったといえばそれまでなのですが、家族の温かい協力が私 の体をここまでにしてくれたことと、人間が生きるためにこれほどまでに緻密 で精巧な臓器を拵えてくれた神様に感謝しています。
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