壺中の天

出雲 蓬

壺中の天

『芽殖孤虫』と言う寄生虫を知っているだろうか。

 条虫網擬葉目裂頭条虫科じょうちゅうもうぎようもくれっとうじょうちゅうかに属するへん形動物で、ヒトに寄生するものの一種の名だ。成虫が同定されていない為『孤虫』の名が付いている謎の多い寄生虫だ。この芽殖孤虫、ヒトの体内に侵入をするや急速に分裂・転移・増殖し、宿主を確実に死に至らしめると言われている。非常に危険で致死率百パーセント、寄生されたが最期。感染経路も不明な為対策手段も無い。

 危険だ、死は怖い。【それ】に一度侵入を許せば全てが終わるのだから当然だ。

 しかし、だがしかし。

 ヒトは気付かない。ともすれば今際の際になってすら知らぬままもあるかもしれない。

 それは何もこれに限ったことではない。ヒトの社会にも知らぬ間に侵食してるナニかは存在する。明確な悪意と利己主義によって。宛ら這い寄る混沌の様に、ヒトの社会にありとあらゆる姿で紛れ込んで―――――――。











 ―――――彼女は美しい亜麻色の腰まで届く髪と暗く冷たい深海を思わせる碧の瞳を持っていた。俺は一度、彼女の姿を視界に入れ、そして恋に落ちた。有り体に言ってしまえば一目惚れと言うやつだ。

 見た目で判断したのかと言われても構わない。目を奪われ心を捉えられたのは事実なのだから。現に俺の頭は四六時中彼女の事で埋まっていた。彼女が髪をかき上げればそれで視界はいっぱいになり、彼女の愁いを帯びた顔を見れば心が締め付けられる。後者に関して言えば、ただそれだけでは終わらないのであるが。

 ――――彼女は今、俺も所属するクラスでいじめの標的になっている。

 朝登校すれば下駄箱には杭の打たれた藁人形、教室まで歩けばすれ違いざまの殴る蹴るは当たり前。教室に着けば周囲からの侮蔑と嘲笑の視線に晒され、机の中は汚物や虫の死骸がはちきれんばかりに詰め込まれている。

 枚挙に暇が無いとはこの事か。行為は日に日にエスカレートし、教師ですら見て見ぬ振り。誰もそれを悪しとは言わず、誰もがそれを消極的容認している。そこに存在するのは、いじめの主犯格、周囲の扇動者、被害者たる彼女、そして何も出来ずにいる傍観者の俺。

 正しくここは悪逆の限りが蔓延る地の獄その物なのだろう、少なくとも彼女には。

 俺はその中でも保身の為に、いじめに加担するわけでも扇動するわけでもなく、ましてやそれを止めようともしていないクズとなっているのだろう。

 だが俺はただ傍観している訳ではない。目的の為の傍観だ。

 彼女がいじめの標的になって今日で一ヵ月、その間に俺は彼女が何故こういった状況になったのかを調べていた。理由は単純、この学校でも見目が整っていることで評判の隣のクラスの男子が彼女に告白、彼女はそれを振ったと言う。それにその男子の取り巻きの女子達は、調子に乗っていると言い彼女に対して嫌がらせを始めた。元々男子からの人気が密かにあった彼女は女子から嫌われており、また相手にされなかった男子もそれに便乗しいじめが始まった。これが事の発端。

 理由がわかった。ならば次はいじめの主犯格。

 探すのには大変骨が折れた、なにせ痕跡を残さず現行犯が見つかるリスクを最大限潰し、可能な限りの悪意を彼女にもたらしていた。それに俺が辿り着いたのはただの偶然だった。ある放課後、猛暑の続く日に耐え兼ね冷房の効いた図書室に行くため廊下を歩いていた時だった。ふと何処からか剣呑な雰囲気の声が風に乗って耳に届いた。気になった俺は少し先の教室から聞こえた声に誘われるようにドアから中を覗いた。そこには件の彼女に告白した隣のクラスの男子に特に距離の近かった女子とその取り巻きの男女数人だった。膝をつき俯いた彼女の頭からその白い肢体、細くしかし肉が程よくついた足にまで水が滴っていた。傍らには床に転がる花瓶。床には夏の青空によく似たオダマキの花が無残に踏みにじられ転がっている。それを意にも介さず、主犯の女子は彼女に吐き捨てた。

「いい気味ね、あの人を無碍に扱って他の男子に色目を使っていたからこうなったのよ」

 声が聞こえた。それで証拠は十分だった。

 状況含めあの女子達が主犯なのは確実、周到に隠されていた現行犯もこの両目でハッキリ認識した。



 ――――――ピースはそろった。



 それから数日後、俺は件の主犯格一同から直々の呼び出しを受けた。ある意味いいタイミングでもあった。

 場所は見通しの悪い校舎裏の一角、ほの暗いそこで俺は男子数人に囲まれていた。いっそ清々しい程の仁王立ちをする主犯女子が眼前に立ち、くいと手で合図をする。それが何を意味していたのかはすぐに分かった。前方からは大きく振りかぶった拳が顔面目掛けて迫る。

 が、別段慌てもしない。これは予想できたから。

 素人丸出しの大振りの拳が届くよりも早く、俺は右足を前蹴りの要領で振り上げ目の前の男子の顎を掬い上げた。体を雁字搦めにされていることによる、より安定した体重移動から放たれた蹴りは小気味良い音と共に相手の上半身を大きく仰け反らせた。

 動揺する背後と左右の男子。そこを逃すことなく、俺は次に腕に絡む男子二人の頭をそのままの姿勢で掴むと、合掌するように頭と頭を勢いよく合わせた。鈍い音が響く。額同士を激しくぶつけた男子二人は、思わず俺の腕を離した。

 後は容易い。羽交い絞めにされた両腕で背後の男子の肩を掴み、両足を相手の足の内側から外側に大きくずらすよう広げた。重心の置き場がなくなった男子は肩に絡めた腕の力を緩める。その隙に腰を落とした俺は、前転し相手の体ごと自分の体を地面に叩き付ける。無論、相手の体を下敷きにして。耳の後ろから聞こえたのは、肺から漏れ出た男子の呼吸音。痛みと呼吸の乱れで動けなくなった男子から降り、軽く砂埃を払い前を向く。

 そこには顔面を蒼白にさせた主犯格の女子の姿。俺がゆっくり歩み寄ると、それと同じように後ずさる。それを逃すことなく間合いを詰めると、首元を掴み上げる。

「大方俺が嗅ぎまわっているのに感づいて実力行使で黙らせようとしたんだろう。徒労になった上に墓穴を掘ったな」

 低く耳元で、小さくも響くように俺は女子にそういった。

 それは主犯格である女子達が、俺が恋する彼女にしたものと同じ侮蔑と嘲笑の混じった言葉だった。

 黙りこくる女子、俺は畳みかけようと言葉を発しようとした。そのとき、

「おい、そこに誰かいるのか」

 声がした、教師のものだった。

 恐らく大きな物音に気が付いてここに来たんだろう。

 ――――丁度いい、諸々の説明含めて話しこいつらを引き渡そう。

 そう考えた俺は、教師の声に返事をしようとした。その時、胸ぐらを掴まれていた女子が暴れだした。ここから逃げようとしているのだろう。俺の腕や顔をひっかきまわしてきた。煩わしく思いながら押さえようとした時だった。

「ッ!!」

 鋭い痛みが走り、思わず目を瞑る。目が開けられない程の――――いや、目が開かない。左目が開かない。数拍して、女子の隠し持っていたであろうシャープペンシルに左目を刺されたのだと気付いた。

 倒れ蹲る。身を灼け焦がす天の陽のような熱さが左目から広がる。鋭い痛みと緩慢な熱の広がりに、声すら上げられなかった。そして、痛みからだろう、俺の意識は暗い底に沈んでいった。















 ――――――あれから一週間が経った。

 俺は刺された左目以外は特に目立った怪我がなかった為すぐに退院した。

 聞いた所によると、あの後教師が異変に気付き駆け付け、俺を病院に搬送。転がっていた男子含めた主犯グループは翌日集められ事の顛末の説明、全て話をした後に男子四名は厳重注意と自宅謹慎。主犯リーダー的存在の女子は俺の怪我の事もあり退学処分になったと言う。

 まぁそれはどうでもいい。あのグループが無くなったことにより、クラスに蔓延していたいじめの空気はいつの間にか霧散。問題の無い平穏な状態に戻った。もう彼女に何かする者も居ない、元々便乗していじめていた者が大半だったから。

 俺は安堵した。

 ――――もう彼女を害するものは居なくなった、と。

 更にそれから数日後、俺に驚きの事が起こった。

 それはあの俺が恋慕する彼女からの放課後の呼び出し。思わず声を上げそうになるほどの驚愕、これに心乱れ踊らずにはいられないと目に見えてわかるほど、俺は浮かれていた。

 今日がその日だ。場所は裏山、学校の裏手にある人気のない場所だった。眼帯をし隻眼であることを忘れ俺は軽快に登っていく。時折左側にある樹木に気付かずぶつかりそうになるがそれは隻眼故致し方なし。歩行が出来て距離感に慣れれば困ることはそう多くはない。

 やがて然程高くない頂上に着くと、彼女が立っていた。はやる気持ちを抑え声をかけると、彼女は振り向いた。

 俺は何の用かと聞いた、努めて冷静に。しかし内心は告白と言う単語一つに埋め尽くされていた。今か今かと俺は待ち、彼女は一拍おいてこう口にした。

「なんであのいじめを止めたの」

 ――――――――――――意味がわからなかった。

「折角あの学校の誰もが私に注目を集めてたのに」

 何を言っているんだ、彼女は。

「その為にわざわざ嫌われるような風にしていたのに」

 日本語を話している筈なのに、全く別の言語で話されているように感じた。

「みんなが私を見て、同情や奇異の目で見てくれていたのに。みんなから注目されていたのに」

 つまりは、あれなのか。

「あなたのせいで」

 彼女は。

「みんながもう私に注目してくれなくなった」

 ――――――目の前で苦虫を噛み潰したような顔をしているコイツは。

「もう誰も、私を特別として見てくれなくなった」

 自分の自己満足なエゴを満たす為だけにあの状況を作り。

「あなたのせいだ」

 あたかも悲劇のヒロインであるかのように演じ。

「お前のせいだ」

 俺はその滑稽な三流芝居の為に目を失ったのか。

「オマエノセイダ」

 ――――恋慕していたのか。





 意識がとんでいた。

 俺は地面に膝をついていた。

 下にはあの女が倒れていた。

 俺の手は女の首を捻り潰していた。

 女は泡を吹き碧の瞳を晒していた。

 女の体が動く事は無くなった。

 俺は無意味に首を絞め続けた。

 俺は笑っていた。嗤っていた。声が枯れるほど。

 残った右目を刺すような光を放つ太陽に向かって。

 視界の端に蒼い花が映った。オダマキの花。それが何故かここに咲いていた。



 ――――愚かだな。



 俺はそう思った。視界に映っていた彼女は、先程感じた泥水と吐瀉物を掻き混ぜ煮込んだような表情が嘘のような、幽谷の岩肌から湧き出す清水の如き美しさに戻っていた。

 滑稽極まりないものだった。いじめをしていたアイツらも、それを見ていた奴らも、あの女も、俺も。

 つまらない我欲に身を任せた結果がこれだ、愚かにも程がある。

 さしずめ俺達はあのクラスの『芽殖孤虫』だったのだろう。主犯格グループやクラスの人間、そして俺は『健全なクラス』と言う母体を蝕む孤虫。

 彼女は更にその深層に潜む元凶、何もなく平穏だったクラスに巣食っていた孤虫だったのだろう。

 また笑う、意味もないのに笑う。そして骸の横に倒れ込んだ。この陰鬱な空気には到底そぐわない青空が見えた。

 もう何も考えたくなかった、隣の冷たい空の魂の器の様に、なにもかも消し去って。

 俺は目を閉じた。死の隣で、二度と目が覚めないことを願って。

 孤虫は天を仰いだまま、やがて意識を手放した。

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壺中の天 出雲 蓬 @yomogi1061

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