嘘つきは蜜の味
初めて嘘をついた時は、その舌の味がまずかった。
だんだん何も感じなくなって、生活の一部になって、今では美味しく感じる――。
恵比寿駅の改札前に花束を持った男が立っていた。行き交う女性がチラチラと彼を見るが、彼は全く気にしていないようだ。オールバックの髪は清潔にまとめられていて、涼やかな目元はロレックスの時計の針を気にしている。
「待たせちゃった?」
彼の元へ女がやってきて言った。
「少しね」
彼は肩をすくめながらそう答えて、「君に」と黄色い百合の花束を差し出す。
「え、なあに?」
驚いたふりをしながらも、彼女の目は嬉しそうだ。
「何でもないけど、あげたかったから。プレゼントだよ」
「嬉しい。ありがとう」
女はそう答えると、花束を受け取り、彼の腕をとった。
男から何でもない日にプレゼントを渡されるのは、これが初めてではなかった。男はこまめに女に花束を贈り、女は常にそれを喜んだ。
女とは、日々の些細な贈り物に大層胸をときめかせる生き物なのだ。
「今日はどこへ連れて行ってくれるの?
「ジョエル・ロブション。知ってる?」
男はさらりとフレンチの老舗の名前を出した。女は目を輝かせた。
「知ってるわよ! 嬉しい。行ってみたかったの。大好きよ、正孝」
女は人目も憚らず男にキスをし、男もそれに応える。女のキスは男をチラチラと見る女たちへの牽制のようでもあり、彼らの関係そのものを表しているかのようだった。
数分間に及ぶ熱烈なキスの後、何事もなかったかのように二人はクールに歩き出した。そして、恵比寿ガーデンプレイスの奥、ライトアップされた荘厳な建物の中へとスマートに消えて行った。
彼らは
一方男の方は、名を
――嘘だ。全て真っ赤な大嘘だ。
男の名前はもうずっと昔に無くしている。職業も、年齢さえも嘘偽りでできていた。田中律子からいくらせしめるつもりなのかも底知れない。
名のない男は、差し向かいに座る名を持つ女にグラスを傾け、空虚な「愛してるよ」を言葉にすると、甘い蜜を舐めるように舌先で唇を舐めた。
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