嘘つきは蜜の味

 初めて嘘をついた時は、その舌の味がまずかった。

 だんだん何も感じなくなって、生活の一部になって、今では美味しく感じる――。



 恵比寿駅の改札前に花束を持った男が立っていた。行き交う女性がチラチラと彼を見るが、彼は全く気にしていないようだ。オールバックの髪は清潔にまとめられていて、涼やかな目元はロレックスの時計の針を気にしている。

「待たせちゃった?」

彼の元へ女がやってきて言った。

「少しね」

彼は肩をすくめながらそう答えて、「君に」と黄色い百合の花束を差し出す。

「え、なあに?」

驚いたふりをしながらも、彼女の目は嬉しそうだ。

「何でもないけど、あげたかったから。プレゼントだよ」

「嬉しい。ありがとう」

女はそう答えると、花束を受け取り、彼の腕をとった。


 男から何でもない日にプレゼントを渡されるのは、これが初めてではなかった。男はこまめに女に花束を贈り、女は常にそれを喜んだ。

 女とは、日々の些細な贈り物に大層胸をときめかせる生き物なのだ。


「今日はどこへ連れて行ってくれるの? 正孝まさたか

「ジョエル・ロブション。知ってる?」

男はさらりとフレンチの老舗の名前を出した。女は目を輝かせた。

「知ってるわよ! 嬉しい。行ってみたかったの。大好きよ、正孝」

女は人目も憚らず男にキスをし、男もそれに応える。女のキスは男をチラチラと見る女たちへの牽制のようでもあり、彼らの関係そのものを表しているかのようだった。

 数分間に及ぶ熱烈なキスの後、何事もなかったかのように二人はクールに歩き出した。そして、恵比寿ガーデンプレイスの奥、ライトアップされた荘厳な建物の中へとスマートに消えて行った。


 彼らはのちの結婚を誓った仲だ。女の名前は田中律子たなかりつこ。現在37歳。年相応だが容姿端麗な彼女は、いわゆる高嶺の花だった。職業は歯科衛生士で、正孝とは友達に誘われて行った医師会のパーティーで知り合った。本人は確実に婚期を逃したと考えていたようだが、どうやらギリギリの所で出会うべく人に出会ったようだ。

 一方男の方は、名を早野正孝はやのまさたかといい、親の代から譲り受けた病院を経営している、いわゆる開業医だ。スタッフを何人も抱え、軌道に乗ってきたかのように見える病院の経営は、実際の所、火の車だった。親から譲り受けた際に、莫大な借金も一緒に相続した。この話をいつ律子にするべきなのか、それが完璧に見える正孝の、唯一の悩みだった。



 ――嘘だ。全て真っ赤な大嘘だ。


 男の名前はもうずっと昔に無くしている。職業も、年齢さえも嘘偽りでできていた。田中律子からいくらせしめるつもりなのかも底知れない。

 名のない男は、差し向かいに座る名を持つ女にグラスを傾け、空虚な「愛してるよ」を言葉にすると、甘い蜜を舐めるように舌先で唇を舐めた。

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