第12話 突き破れっ!

 リングで初めて見せた、有馬玲佳の怪物性に観客たちはつい声を上げるのも忘れ、桃色の兎が圧倒的戦力で蹂躙される様を眺める事しかできなかった。プロレスの範疇を超えた――暴力と言ってもよい程の、酷い光景を目の当たりにしてしまうと脳が眼前の情報を処理しきれずに、正統派テクニカであるバニーを応援する事も、攻撃を続ける玲佳に対しブーイングを飛ばす事も出来ないでいた。

 不気味なほどに静かなメインエベント――

 だが決して観客たちは嫌悪を抱いているのではない。「つまらない」と席を立つ者は誰ひとりおらず、息を殺し目を凝らし事の成り行きを静観しているのだ。


――いつまでも調子に乗らせてたまるかっ!


 口の中はずたずたに切れ、唾が染み込むだけでずきっと痛みが走る。しかしそれでも体勢を整え直し巨大な敵・玲佳に向かって歩を進めるバニー。ヒーローは決して退かない――《スーパーヒーロー》になりたかった女の子・郁美の持つ、曲げる事のない自尊心プライドである。


 太く逞しい玲佳の両腕が、女児のようなバニーの胴へ絡み付いた。そしてそのまま身体ごと持ち上げると、その身体を捻り切らんばかりに万力のように絞り上げた。

 熊の抱き締めベアハッグだ――!

 いかにも巨漢レスラーらしい、見た目ビジュアルと破壊力を兼ね備えた殺人技。己の腕力で締め上げるだけの単純な技ながら、仕掛ける側の持つパワーと相手の身体を締めるポイント次第では、十分に降参ギブアップもしくは失神させる事も可能な恐ろしい技でもある。

 細い胴体が強引に絞り込まれ、ぎしぎしと骨の軋む音が郁美の体内に鳴り響く。覆面の下では苦痛で眉が八の字に歪む。

 だがこれに屈してなるものかと両目をひん剥いて、意識が薄れ気が遠ざかるのを懸命に引き止めようとする。必死の思いで玲佳の髪に手を掛けたバニーは、頭を後ろに下げ大きく勢いを付けると、自分の額を真っ直ぐ彼女の鼻っ柱へ叩き付けた。

 形容し難い激痛が、玲佳の鼻から一直線に突き抜ける。バニー渾身の頭突きをまともに喰らった彼女は、両腕から力が抜け失神寸前だった対戦相手を、易々と手放してしまう失態を晒してしまった。

 痛む鼻を両手で押さえ、無防備な状態となった玲佳を易々と見逃すバニーではない。気合いを入れ、ロープへ向かって自ら走り出し、反動で加速をつけ跳び上がると、一旦全身をぎゅっと屈ませた後、バネが弾ける如く一気に両脚を伸ばし、踵を玲佳の顎へと命中させた。

 バニーの弾丸のようなドロップキックによって、玲佳の巨体は弧を描いて後方へひっくり返った。会心のにバニーは拳を握り、思わずガッツポーズをする。


 おぉぉぉぉぉっ――!


 それまで皆息を潜め静まり返っていた会場から、地を這うような低音のどよめきが起こった後、割れんばかりの拍手と歓声が一気に爆発した。圧倒的絶望から反撃に転じたバニーへ彼女のファンたちが、熱い声援で勝利への後方支援をする。

 

 ここからのバニーの猛攻は、体力差で玲佳に押され気味だった序盤とは違い、鬼気迫るものがあった。

 捕まってしまえば敵いっこない、とみた彼女はなるべく玲佳から距離を取って、ドロップキックやフライング・ヘッドバットなど遠方からの攻撃を多用し、相手の体力を徐々に削いでいく《ヒット・アンド・アウェイ》な戦法に切り替え、玲佳にプレッシャーを与えていった。スピードがあり小回りの利くバニーに振り回される玲佳は、相手を捕まえられない苛立ちが募っていき、次第に判断力を失っていった。



「来るよ、れいかっ!」


 リング下で、セコンドに付いている多恵が叫ぶ。

 玲佳はその指示に従い次の攻撃に備えるが、想像イメージする以上の速さで向かって来るバニーを目で追う事が出来ず、またもやその膨よかな胸へ飛び蹴りを喰らい、もんどり打ってマットの上へ倒れた。

 悔しさに顔を歪ませ、荒い呼吸を繰り返す玲佳に多恵は、ザラついたキャンバスを何度も叩き彼女を応援する。


「玲佳しっかりしてっ!まだ行ける、まだ行けるって!」


 仰向けで寝転がっている玲佳の虚ろな視線が、声を枯らさんばかりの熱い応援で自分の方を見つめる多恵らの視線とが交差する。

 そうだ、バニーと闘っているのは自分だけでない。沙織や多恵ら《美しき野獣たちベッラ・ベスティア》の仲間たちも一緒なのだ—―そう思うと自然と力が再び身体中に満ちていく。 


 「小手先だけの攻撃じゃダメ!身体全体でぶつかっていくのよ」


 それまでクールな態度を崩す事のなかった沙織が瞬時に叫んだ。

 の指令を受けた玲佳は、何事もなかったかのように立ち上がり前方へ大きく跳躍する。目の前にはバニーが己の頭部を顎先へ、照準を定め向かっていた所だった。決まればダメージ必至な彼女の空中頭突きトペを、セコンドの沙織は完全に見切っていたのだ。 

 キャンバスを踏み切り飛翔せんとするバニーに対し、大型の猛禽類の如くそれ以上の高さで玲佳は跳び上がり、彼女の胴を両腿でがっちり挟みリングの床へと墜落させる。カウンター技である空中胴絞め落としルー・テーズ・プレスが決まり、バニー得意の空中弾を未然に回避する事に成功した。

 突然空中で巨体に跨がられ、頭部をマットに強く打ち付けたバニーは、ぐったりとし意識朦朧となっていた。これまでの玲佳ならば恐怖に慄いて、前に進む事すらできなかっただろう――だが今は違う。微笑を浮かべながらバニーの覆面を乱暴に掴み、強引に首を起こすと相手を小馬鹿にするように、何度も何度もぴしゃりと頬をひっ叩く。


 1ミリの抵抗もできず、玲佳のなすがままとなっているバニーの姿に、観客たちは唖然とし声を出す事も忘れていた。同時に彼らは桃色兎の身に降りかかる凌辱の嵐が、一刻も早く過ぎ去るのをじっと待ち続けるのだった。


 相手に抵抗する素振りがないのを確認した玲佳は、ゆっくりとバニーから身を剥がす。そしてマットに寝そべる無様な姿を見下ろし満足すると、大股で数歩後ろに下がって十分な距離を取った――いよいよに掛かる様子だ。

 拳を握り右腕を上げて、沈黙する観客たちへアピールをすると、重量感のある身体を上下に揺らし駆け出した。標的までの距離が徐々に縮まり、己が定めた踏み切り地点に到達すると脚を振り上げ高く跳んだ。

 玲佳の長い脚が、断頭台ギロチンの刃の如く落下していく。

 バニーの喉元に脹脛ふくらはぎが突き刺さった瞬間、あまりの衝撃の強さに彼女の両脚がぴょん、と玩具のように跳ねあがった。

 勝利を確信した《微笑みの重戦車》は、大の字になって寝そべるバニーの両肩を押さえ付け、大胆にもレフェリーに対しカウントを取るよう要請をする。

 クラシカルな縦縞模様のシャツを着たレフェリーが、大きく腕を振りかぶり掌がマットに触れるその直前――唸り声を上げバニーが、渾身の力で玲佳の腕を撥ね退けカウントを阻止した。

 1カウントたりとも許さない彼女の意地に、玲佳は只々驚くばかりだった。


(やばいっ――!)


 沙織は心の中で叫ぶ。バニーのを目の当たりにし、それまでぱんぱんに張り詰めていた、殺気に似た玲佳の闘志が委縮しているのに気付いたからだ。

 十分すぎるほどの気迫と体力をもってバニーに挑んだ玲佳だったが、どれだけ攻め続けても届かないもどかしさに、集中力は途切れ闘争心を維持する事ができなくなっていた。

 怪物からただの人間へ戻ってしまっては、勝利への道がますます険しいものとなってしまう。実戦経験が玲佳の倍もあるバニーが、そんな彼女の僅かな気の緩みを見逃すはずはない。

 闘う桃色兎の瞳が赤く輝いた――



「――本当にこちらでよろしいですか? ご用意しました招待席もございますが」

「構へん、構へん。他のお客さんの迷惑になるさかい、ここでええ」


 会場出入口がすぐ側にある、有料観客席の最後部から少し離れた所で、じっとリングを見つめるふたりの男――太平洋女子プロレスの営業部員・大臥と内藤だ。彼はつい十分前にレギュラー出演をしているラジオ番組の収録を終えた足で、メインエベントも中盤を越えた今しがた、玲佳のいるこの会場へ入ったのだった。


「玲佳はちょっと気張り過ぎたかな?肩で息をしとる。ま、経験の差といえばそれまでやけど」

「随分とお詳しいですね」


 おんな同士による死闘を、時には笑みをそして時には渋い顔をして眺める内藤。どうやらプロ格闘技には一家言持っているらしい。


「演芸の世界でも同じやけどな、プロレスは記録だけの勝敗だけやなしに、双方が持つ《格》を賭けて闘う姿が観てる側としては面白いんよ」

「勝てば格は上がり次の段階ステップへと進み――」

「敗者はすべて失い、再び己の格を作っていかねばならん。厳しい世界や」


 大臥と内藤はハードボイルド小説の登場人物のように、互いの方へ一切顔を向けず淡々と会話をする。


「しかし――玲佳さんが抜けてしまうのは、本当に残念です」

「あいつがプロレスを辞める?何のために?」

「えっ、内藤さんが仰ったんじゃないのですか?タレント業に専念しろ、と」

「俺は知らんぞ。辞めてもうたらあの娘のを、ひとつ無くしてしまうやないか」


 玲佳の《プロレス活動休止》について内藤は寝耳に水だった。大臥はこれまでの経緯を話すと怒りが込み上がったのか、額に皺を寄せ顔を真っ赤にする。

 彼の脳裏にひとりの女性の顔が浮かんだ。


「――まさかあのおばはんか?! 」

「彼女に就いている女性マネージャーですよね。ずいぶん高圧的な態度だと思ってましたが」


 身体の大きさしか取り柄のない、三流タレントと、彼女自身見下していた玲佳がある日突然、大物芸人に気に入られた事をだと勘違いしたのだろう、確かに最近の彼女はテレビ局からの出演依頼に対し、これまで以上に注文を付け、誰の目にも調ようにしか見えなかった


「玲佳からプロレスを取り上げようと俺の名前まで使って。今日の試合も絶対来られんように俺のスケジュールを調べて組んだんやろが、若干詰めが甘かったな――俺はや」


 サングラスの奥にみえる内藤の目は自信満々に輝いていた。これこそが一流芸能人なのだと、見事な伊達男ぷりに大臥は鳥肌を立てた。普段テレビでは馬鹿をやり話芸で視聴者を笑わせる彼だが、年月によって削ぎ落とされ磨かれた男のダンディズムは、まだ道半ばの若造を魅了する。


「それでは玲佳さんは、これまで通りプロレス活動を――?」

「それは俺も何とも言えん、未来を決めるのは自分自身だけや。外野がどうこう言うこっちゃない」

「…………」

「だけどな――あの娘が悔いを残したまま辞めようとするなら「まだ早いっ!」と怒鳴ったるわ」


 そういうと内藤は掛けていたサングラスをずらし、大臥に対してニヒルな笑みをみせたのだった。



 決して玲佳の闘志が、萎えてしまったわけではない。

 実際にこれ以降何度も、喉輪落としチョークスラムやボム系の落下技など高身長を利した攻撃を、さんざんバニーに喰らわせフォールを狙うものの、ことごとくツーカウント以内で跳ね返され、攻めているつもりが逆に追い込まれた格好となっていた。 

 何度マットに叩き付けられても決して闘志を失わず、むしろ倍以上に燃え上がったバニーの背後にを見た玲佳には、先程までの殺意に似た勢いはとうに失せ、以前のようなへと逆戻りしてしまっていた。

 アドレナリンが体内へ放出し無敵状態と化したバニーだったが、闘争本能に溺れる事なく充血した目で放心する玲佳を、そしてリング下にいる沙織を交互に見る。ふたりの視線が合わさった瞬間、口ではなく心での会話がはじまった――目の動きと表情で相手の感情や心情を読み取り、それによって導き出されたダイアローグが頭の中を駆け巡っていく。


 ――もう、終わりにしようか?


 憂いをおびたバニーの瞳が沙織に問いかける。

 まだやれる、もう少しいける――沙織の頭の中に様々な後押しの言葉がよぎるが、覇気も失せ腰を屈めて俯く玲佳の姿を前に、これ以上闘うのは酷だと判断した。惨めな姿を晒すよりはぱっと散った方が彼女の為――沙織はバニーのアイコンタクトに対し、了解とばかりに首を縦に傾けた。



 ――どうしたんだよ?今までさんざん攻めてきたじゃないかよ、あの小っこい桃色兎を。


 砕け散った闘争心の欠片を必死で掻き集め、目の前の敵・バニーに対し立ち向かわんとする玲佳であったが、化け物じみた威圧感に身体が強張り、一歩前へ踏み出せないでいた。

 本気になったバニー=郁実が放つ、紅く熱く燃えるオーラに怖じ気付いてしまった玲佳には、もはやどうする事もできなかった。


 がつんっ!


 玲佳の鼻っ柱に、脳天へ突き抜けるような痛みが走ったかと思うと、突然鼻孔から血が吹き出す――屈んで身を低くしていた玲佳の髪を掴み、バニーがフルスイングで拳骨ナックルを喰らわしたのだ。

 この強烈な一撃で大ダメージを負った彼女だったが、逆に燻っていた闘争心に火が着いた。

 玲佳も負けじと己の肘や掌を、バニーの下顎そして胸元へと何発も叩き込む。試合を終了させるべく繰り出した必殺技フィニッシャーを再三跳ね返され、打つ手の無くなった玲佳に残された、たったひとつの武器だった。相手の倍もある体格から打ち込まれる攻撃は、ラッシュを掛けんとするバニーを簡単に懐へ潜り込ませない。

 プロレスの試合というより立ち技系格闘技に似たふたりの攻防に、観客たちはどよめき立ち熱狂した――当然格闘技好きの内藤もだ。自分の正体が周囲へばれてしまうのも気にかける事なく、熱い攻防を繰り広げるリングのふたりに声援を送る。 


「よっしゃ、行けっ!そこや玲佳ぁぁ!」

「押されてますよセンパイ!もっと動いてっ!!」


 気が付けば内藤の隣にいる大臥までもが、拳を握りしめ身体を左右に揺らして応援していた。高難度な技が尺で計ったように奇麗に決まる現代プロレスもいいが、やはり単純な技で相手をぶちのめす原始的な格闘は、観る者の奥底に眠る闘争本能へダイレクトに訴えかける。



 ――明日の事なんかどうだっていい。今はあの憎たらしいバニーを叩きのめす、ただそれだけよ!


 勝負を賭けた玲佳の、右腕から放たれた肘打がふらふらのバニーの顎先へ向かって、唸りを上げて襲い掛かる。

 しかし次の瞬間、視界から姿が急に消えた。標的を見失った玲佳は、情報処理が追い付かず狼狽える。バニーは瞬時にして玲佳の背後へと廻っていたのだ――彼女の腰にしっかり腕を巻き付けて。

 仮面の桃色兎はふんっ!と小さく呼吸をすると、何と重量のある玲佳の身体をマットから引き抜きバックドロップのように投げ捨てた。心身の充実した今までの玲佳なら不可能だったが、自信を無くして浮足立った状態だった故に可能な技だったといえよう。

 まさか自分がと信じていた玲佳は、頭部への衝撃と共に精神的にも大きなダメージを受けた。


 ――嘘、うそ? 信じられない!


 これまで自分を奮い立たせていた、絶対的な自信と闘争心は硝子のように粉々に砕け散り、いまの玲佳には何も残されていなかった。

 だが、まだ試合は終わっていない。

 バニーは最後の仕上げとばかりに、彼女の腕を背中へ捻じ曲げ自分の脚で固定ロックすると同時に、長くむっちりとした脚を肩へと担ぎ、海老のように下半身を強引に反り上げた。

 玲佳の背骨や腰へ形容し難き痛みが駆け巡る。

 この痛みから抜け出そうと、彼女は担ぎ上げられた方の脚をばたばたさせ抵抗するが、そんな事はお見通しとバニーは大暴れする膝から下の部分をも首に巻き付け、完全に封じ込めてしまう――変形逆エビ固めである《ハープを奏でる天使アンヘル・トカンド・エル・アルパ》が決まった。

 背中がぽきっと折れてしまいそうな激痛が、玲佳の思考を混乱させ言葉にならない呻き声を口から吐き散らす。

 リング下では友人の多恵が、激しくマットを叩いてロープエスケープを指示するが、全神経が患部へと一点集中してしまい、自分とロープまでの距離感がつかめない。

 残された道はただひとつ――


 バン、バン、バン、バンッ!


 固められていない方の腕でマットを数度叩き、自ら負けを認める事だった。

 公式記録では九分五十五秒、だが玲佳にとっては今までで一番長く感じられた試合がこれで終わったのだ。

 満場の観客からの賞賛の拍手の中、マットの上で胡坐をかきがっくりと項垂れる彼女の元へ、レフェリーから勝ち名乗りを受けたバニーがやって来た。


「郁美先輩……」

「バカ、今はまだよ――もうちょっとだったじゃない、マジ大変だったわよ」


 バニー=郁美は玲佳の側に寄ると膝を折り身を屈めて、よくやったと優しく彼女の肩を抱いた。


「もうちょっと、って? 全然ダメだったじゃないですか、私」


 バニーの言葉を疑問に思う玲佳に、兎の仮面を被る先輩は胸の内を打ち明ける。


「やっぱりさ、あなたとわたしとじゃ馬力が全然違うわ。一個一個の技が重くて何度気を失いそうになったか。フォールを返したのはよ、この世界の先輩としての意地」


 それを聞いて気が楽になったのだろうか、玲佳の目から涙がひとすじ零れ落ちた。熱く塩辛い涙だがとても心地よく感じた。


「それで――今後どうするの。 芸能の世界へ戻る? それともまだプロレス続ける?」


 バニーの問い掛けに対し、玲佳はにこりと微笑むとマットから立ち上がり、四方の観客に向かって深々と一礼した後、何ひとつ言う事なくバックステージへと去っていく。 リングにぽつりととり残されたバニーたち三人は、それを呼び止めもせずにただ黙って、戦友の去り行く姿を眺めていた。次も必ずこの舞台へと戻って来るのを信じて――


 いつまでも止まない会場の喧騒を背にし、控室に戻ってきた玲佳を待っていたのは意外な人物だった。

 恩人である内藤カズマサと、太平洋女子プロレスの大臥だ。


「来てたんですね、良かったぁ」


 控室の扉を閉めると玲佳は、背中を壁に付けふぅ、と脱力しもたれ掛かった。


「ええ試合だったで、玲佳ちゃん。ワシも年甲斐もなく興奮したわ」

「ありがとうございます、でも――」

「結果は結果や、それ以上でもそれ以下でもない。贔屓目なしにようやったと思っとる」


 恩人から褒められているのに、玲佳の目の奥からは涙が泉のように湧き出てくる。心なしか声も微かに震えていた。


「嬉しいです。それで私、今日をもってプロレスを――」

「アホ、絶対に辞めるな」


 冷たく言い放った内藤の顔をみて、玲佳は驚き涙も一瞬にして引っ込んだ。


「えっ?」

「まだまだやり足りないんやろ? あのバニーとやらを完膚なきまでにブチのめしたいんやろ? ここまでお前の才能を引き出してくれた相手に、でもくれてやらんと失礼やと思わんか?」


 なぁ?と同意を求めるように隣に立つ大臥を見る内藤。彼もそれに応えうんと首を縦に振った。


「内藤さん――」

「ワシはの有馬玲佳を買っているんや。お前を形作っている物の半分が無うなったら、タレントとしての面白みに欠けるやんか」


 内藤からの叱咤激励にとうとう堪え切れなくなった玲佳は、彼に抱きついて大きく泣き叫んだ。シャツに染み付く煙草の匂いが、彼女の精神状態を少女時代へと引き戻し泣き声はますます倍増する中、ただ黙って内藤は自分よりも大きな体躯をした娘を優しくあやすのだった。


 何なにどうしたのよ? と玲佳の泣き声を聞いて、慌て次々と控室に駆け付けるバニーの覆面を外した郁美や、沙織と多恵の美獣軍団たちを扉の入口で必死で食い止める大臥。


「ちょっと大臥、中見せなさいよ!」

「ひょっとしてウチの玲佳に、ヘンな事したんじゃないでしょうね?」

「い、今は駄目です。絶対にダメなんですって!」


 ここを開けろ、中を見せろと金切り声で抗議する美女三人に、僕は最後まで抵抗できるのだろうか?――そんな事を考えながら額いっぱいに冷や汗を垂らす大臥は、背中越しに伝わる激しい衝撃や高周波に必死で耐えるのであった。

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