第9話 桃色の光明
マネージャーが慌てて玲佳の側へ駆け寄って来た。スタジオの外にいてトラブルの一部始終を全く見ていなかった彼女は、対照的なふたりの状況だけで判断し麻耶へ謝罪するよう玲佳を叱った。
「早く! 玲佳、早く愛野さんに謝りなさいっ!」
だが玲佳は催促されども謝罪の言葉を発したりはしない。それどころかマネージャーの顔を血走った目で睨み威嚇をする。
その表情は完全に我を忘れ、煮えたぎる怒りと狂気に支配されていた。
「嫌だ! あいつになんて絶対に謝らないっ――謝ってなんかやるもんか!」
鬼気迫る玲佳の圧力にマネージャーはたじろぎ、思わず後ずさりしてしまう。途中彼女は番組ホストである中年芸人と目が合い、条件反射的に頭を下げたが彼は玲佳と摩耶との揉め事を見ているので、両手をかざし「気にするな」とサインを出す。無論撮影スタッフも同様のようだ。
「確かに――演者に手ぇ出すのはアカンけど、元々は摩耶ちゃんが先に仕掛けた事。この娘の潜在能力を見誤ったのがそもそもの間違いや。今まで勝てそうな奴に喧嘩を売ってきたツケが廻ってきたんちゃいますか? ま、あんまり叱ったらんでくださいな」
この芸能界という生き馬の目を抜く世界で、いい事も悪い事も全て経験してきた彼の言葉に、コンプライアンス重視な世間体を気にしがちなマネージャーは何も言えなくなった。この世界では世間の常識よりも、キャリアの年功序列や義理人情の方を最優先する場合が少なくない。堅気な人間が首を傾げたくなるような事柄も、当たり前のようにまかり通る時もあるのだ。
「痛ってぇ……てめぇ覚えてろよ!絶対に潰してやるからなっ‼」
たった一発の玲佳のビンタで、意識を飛ばしていた摩耶が目を覚まし、再び接近しようとするが周りのスタッフに阻まれて反撃のチャンスは遂に与えられなかった。何もできない摩耶はスタジオ中に響き渡るような大きな声で、聴くに堪えない罵詈雑言を吐き散らしながら、マネージャーに引っ張られ収録現場から連れ出されてしまう。
スタッフによってバスローブを羽織らされ、胸の膨らみもボディラインも完全に隠された玲佳に中年芸人が声を掛けた。
「――あんた、えらく強いなぁ」
「――――」
警戒をしているのか、玲佳は強張った表情を崩さず、じっと彼の顔を見つめたまま口を開かない。そんな可愛らしい彼女の警戒行動に中年芸人は苦笑いをした。
「嫌みやないで。心の底からそう思うてんよ、ワシ」
「あ、ありがとうございます」
緊張が解け、ようやく目元の筋肉が緩んだ。
「おネエちゃん、名前は?」
「あり、ま……有馬玲佳です」
中年芸人は頷きながら口の中で、何度も彼女の名を反芻する。
「プロレスラーもやっとる言うてたな? ならあのビンタも納得やわ」
「自分でもいけない事だと思います。でも……ついカッとなってしまって、私」
「せやな、今回だけはワシが勘弁たる。次からは自己責任でよろしゅう頼むわ」
彼は震える玲佳の手を、優しく握って気持ちを落ち着かせようとする。血の気の無い彼女の手は冷汗で濡れ、白く氷のように冷たかった。
耳たぶに急に息が吹きかかる――中年芸人が彼女の耳元まで接近し、何やら小声で内緒話を始めたのだ。
「あのな……おっちゃん実を言うとな、ちょっとだけ胸がすぅーっとしたわ。ワシああいうしつこい娘、苦手やねん」
彼が囁く本音がおかしくて玲佳はぷっと吹き出し、硬直していた表情筋にリラックスした本来の笑みが戻ってきた。
数日後、太平洋女子プロレス道場――
今日は《ベッラ・ベスティア》の練習日。本隊である太平洋女子の選手たちとは敢えて日にちや時間をずらし、道場を使っての本格的なプロレスの練習を彼女たちは週に二度ほど行っている。基礎錬やウエイトは勿論の事、試合勘を養う為にリングを使っての受身や型稽古をここで練習しているのだ。
だが道場の外の様子がおかしい。
スポーツバッグを持ったままの玲佳と、彼女たちを日頃指導している三十代半ばの女性トレーナーとの、押し問答が延々と繰り広げられていた。
「何で道場へ入れさせてくれないんですか!?」
「貴女たちの事務所からの通達よ。有馬玲佳を暫くの間、道場へ出入り禁止させろってね。理由? 知らないわよそんなの」
トレーナー自身も、ちゃんとした理由を聞いているわけではなかった。ただ事務的に上からの指示を受けて、馬鹿正直に従っているに過ぎない。
――明らかに先日の、番組収録現場でおこった愛野摩耶との
ここで何を言っても埒が開かない――そう悟った玲佳はぐっと唇を噛みしめ、トレーナーへ深く頭を下げるとくるりと踵を返し、たったひとつ残された「頼れる場所」であった道場から去っていく。
一部始終を窓から覗き見ていた沙織や多恵、それに晶たちは皆神妙な面持ちで俯いていた。普段は冗談も飛び交う明るい雰囲気の道場だが、誰ひとりとしてそんな気分にはなれないでいた。四人全員が揃ってこその《
――芸能人でもプロレスラーでもない自分に、一体何の価値があるのだろう?
玲佳のメンタルはどん底まで落ち込み、半ば鬱のような状態になっていた。唯一の拠り所であった道場ですら門前払いを喰らい、そのまま自分の部屋へ帰る気にもならず夢遊病者のように、ふらふらとアテも無く足の向くまま街の中を徘徊する。
自分の知らない顔が何百といる目抜き通り。誰かひとりでも自分に声を掛けてくれれば、それだけで自分の
暗く落ち込んだ気分を転換しようと、可愛らしい洋服をショーウインドーで見つけても心は躍らず、「行列必至」「インスタ映え」と見出しが付く評判高いスイーツすらも味気なく感じる玲佳。暇を飽かして無理矢理何かしようとしても、心がそれに反応せず幸福感がこれっぽっちも得られない日は初めてだ。
――痛っ!
不定期にやって来る、微かな痛みに彼女は顔をしかめる。
目的もアテも無くだらだらと歩いていたせいか、玲佳の足は靴の中で擦れて、いつしか熱と痛みを発生させていたのだった。
やがて陽は西へと傾いていき、オレンジ色の夕焼けがビル群の中へ沈んでいく。
肌を掠める風に冷たさを感じるようになった頃、誰もいないバス停留所のベンチで、へとへとで疲れきった玲佳は、靴を脱ぎスポーツバッグを枕にうたた寝をしていた。時折吹抜けていく風が、火照った素足の裏に当たってとても気持ちがいい――八時間近くも歩き回りようやく見つけた心地良い
突然頭上で、聞き覚えのある電話の着信音が鳴り響いた。
玲佳はびくっと跳ね起きるとバッグの中から、茶色のカバーケースに覆われたスマートフォンを慌てて取り出し、寝起きで頭もうまく回っていない状態で電話に出る。
電話の相手は《
「……災難、だったね」
「まぁ、ね。元はといえば自分が撒いた種だしさ。ある程度は覚悟してたけど」
久しぶりに聞く仲間の声が、塞ぎこみ冷めきった玲佳の心を温め解かしていく。誰ひとり味方のいない状況の中でも、絶対に自分の事を信じてくれる友達がいる、というのは本当に有難いものだと実感した。
晶と会話を続けるうちに、それまで強情を張っていた玲佳の言葉もおとなしくなり、やがて少しづつ言葉数も減り相槌を打つ回数が増えていく。そして――公衆の面前であるにも拘わらず、感極まってぼろぼろと涙を落としていた。
しゃくりあげて既に言葉になっていない、そんな玲佳の話をくすりともせず、晶はただ黙って聞いている。彼女の胸の奥につっかえている、晴れない不満や不安を全て吐き出させるように。
「……どう、少しは楽になったでしょ?」
「うん……ありがとう」
玲佳が鼻をかむ音が可笑しくて、晶はつい笑ってしまった。互いに居る場所は違えども、確かに穏やかな空気がふたりの間に流れている。
「玲佳、これから何か予定ある?」
「全~然。いま謹慎中だしする事ないから、部屋へ帰って寝ようかと思ってる」
「じゃあ、ちょうどよかった」
「?」
傷心のわたしを励まそうと、飲みにでも誘ってくれるのか? 玲佳は軽い気持ちで話を待っていたが、晶からの提案は全く想定外なものだった。
「これから一時間後に、道場で郁美先輩が練習するんだけど、よかったら一緒に参加しない?」
い、郁美先輩って一体誰よ?
晶は何で自分たちの練習が終わった後に、わざわざ別の練習へ行ってるの?
玲佳の頭の上に疑問符が、次々と浮かび上がる。
「基礎的な合同練習とは違って、先輩の個人的な練習だからかなり実戦的だし楽しいよ。その気があったら玲佳もおいで、ストレス解消にでもさ」
うん、行けたらいくね――と生返事をして、玲佳は晶との通話を終了した。
辛かった両足の火照りも長電話ですっかり冷めたので、家路に就くべくベンチから立ち上がり何処かでタクシーを拾おうと、道を往来する車を注視しながらぶらぶらと歩き出す。
――でも、楽しそうだったな晶の話しっぷり。性格も随分明るくなってるし、何かプロレスしている事で、以前よりも晶自身が輝きを増してるって感じ。
いつだったか雑誌で見た晶とバニーとの一戦は、それまで汗ひとつかかない《王子様》キャラだった彼女のイメージを見事に破壊し、プロレスラー《岸谷晶》像を確立した試合で、あれ以降一歩前に先んじられたと痛感していた。いつも支え合い傍にいてくれた仲間が、急に注目され人気が上がっていく様を間近で見ていて、妬ましくもあったが自分では
玲佳の側へ白いタクシーが停車する。ドアが開くと同時に、窮屈そうに身体を車内に押し込めた。
運転手が彼女に向かい先を尋ねる。
散々歩き回り疲れきった身体を癒すべく、一刻も早く家に帰りたい、お風呂にも入りたい、そしてベッドの上でゴロゴロしたい――いまの今までそう思っていた。しかし口から出てきたのは、今の心境とは全く真逆な返事であった。
行き先を聞き届けた運転手は、ハンドルを切り静かにタクシーを発進させ、夕暮れですっかり紅く染まった街の中を疾走する。目的地に到着する暫くの間、玲佳は目を瞑りこくりこくりと首を揺らしうたた寝をするのだった。
タクシーが目的地に着く頃には、辺り一面を被っていた紅色も消えてなくなり、薄暗い闇空と足元を照らす街路灯の、青白い明かりへと景色も変貌を遂げていた。
「着いた――」
目の前にある年季の入った古いビルの、二階付近を玲佳は仰ぎ見る。窓からは内部の蛍光灯の明かりが漏れ、不思議な安心感が胸の内から込み上げてくる。
そう、彼女は太平洋女子プロレスの道場へ戻ってきたのだ。
何故晶が辛い全体練習を終えた後に、自ら進んで別の練習にも足を運ぶのか。その
だが道場の中へ入る勇気はなかなか湧かず、暫くの間じっと二階の窓を見つめたまま、つっ立っている事しか出来ずにいた。
「あら、有馬さん?」
不意に後ろから声を掛けられる――スポーツ記者の
「どうしたの? 道場の前でぼぉっとしちゃって」
「いえ、その……」
「さぁ早く中に入って。お知り合いの岸谷さんも来てるよ」
やっぱり晶も来てるんだ、へぇ――などと取り留めのない事を考えていると、優樹奈がぐぐっと背中を押した。どうやら彼女も今行われている、《成瀬郁実プロレス教室》の参加者だと思われているようだ。違うんです、と喉元まで出かかった玲佳だったが、動き出した身体を無理に止める事をせず、二階の道場へ続く階段を一歩、また一歩と進んでいった。
目的地に近付くにつれ、重量のある物体が板の上へどすんと落下する音、鉄骨やロープを支える金具が軋む音が聞こえてきた。
スパーリングの音だ。
瞬時に顔が緊張で強張る。玲佳は深呼吸して決意を固めると道場のドアを開けた。
汗の臭いと道場内の熱気が、彼女の身体を突き抜けていく。
リングの上では珠のような汗を顔一杯に浮かべている岸谷と、この教室の
岸谷は自らの売りである、豪快な投げ技や緻密な関節技を郁美に次々と繰り出し、一方の郁美も彼女にアドバイスを送りつつ、メキシコで体得したルチャリブレ独特の巻き投げや複雑な固め技等を駆使し、岸谷の動きをぴたりと止める。
試合レベルの激しいスパーリングを目の当たりにし、後悔が頭を過った玲佳だが踵を返す事も出来ず、後ろから現れた優樹奈がリングのふたりに到着の報告をしたために、自分の方へ視線が集中した。
「有馬……玲佳さんね。ようこそ我が《兎の穴》へ」
リングの上から玲佳に向かって恭しく一礼する、ショートボブの小さな女性。先輩と名が付く人物は大概怖いと決まっているが、郁美はそうではなかった。練習の途中だというのに嫌な顔ひとつせず、緊張する玲佳を笑顔で迎え入れてくれたのだ。
「は、はじめまして」
人懐こそうな郁美の笑顔と、知った顔である岸谷がセットとなって、強張っていた心と表情が次第に柔らかくなっていった。
玲佳はふと周りを見渡す。
普段も合同練習などで、定期的に足を運んでいる見慣れた道場だが、ピリピリとした鬼気迫る感じは全然なく、郁美の放つ雰囲気なのか、どこか和やかな空気が漂っているように思えた。
「鬼の沙織がいないから、居心地いいでしょ?」
早速岸谷が冗談をかます。玲佳はそれを本気で受け取りコクコクと首を縦に振り皆を笑わせた。道場の中は瞬時に笑い声で溢れかえる。
「女王様から話は聞いてるよ。玲佳さんもいろいろ悩む所があるかも知れないけど、せっかくプロレスの世界に入ったんだもん。楽しまなきゃ絶対損よ」
この人は本当にプロレスが好きなんだなぁ――幸せオーラ全開で話す郁美をみて、ここまで自分の仕事を好きでいられるか、謹慎中である玲佳はふとそんな事を考えてしまう。
「玲佳さんは――プロレス、好きかな?」
不意に投げかけられた郁美からの質問。どう答えたらいいのか分からない玲佳は一瞬リング上の岸谷へ視線を送ったが、助け舟を出す事も無く郁美と同様に、仲間の正直な気持ちを聞きたくて静かに待っている。
ぐるぐると頭の中で是と非が交互に入れ替わる。
決断が鈍いのは玲佳の欠点だ。だがこのまま自分の気持ちをぼかすわけにもいかない。しばらくしてようやく決意が固まった。
はい、大好きです――
事務所からの謹慎がいつ解けて、いつ試合が出来るのか目下見当もつかないが、それでもこの《プロレス》という職業を愛する人たちの側にいたい。もしかしたらこの世界でなら、コンプレックスの塊である自分も光り輝けるかも知れないから。
「目がきらきら輝いてるね、好きって事は上達への近道だから。謹慎? そんなの関係ない関係ない、私が全部責任持つから思う存分強くなってね。バニーの敵は多い方が盛り上がるんだから」
え、バニーって?――玲佳は思わず目を見張った。そういえば背格好はいつもリングで敵として向かい合っている、憎きMAXバニーとよく似ている。不思議そうな表情で郁美を見つめる玲佳が可笑しくて、晶は目配せをしてコーナーポストの方を指差した。
そこには普段、試合会場で目にするポップなデザインをした兎の覆面が、鉄柱の頂に無造作に掛けられているではないか。
い、郁美先輩がバニーだったんだ――!
玲佳の頭の中で郁美とバニーの像が合致し、ふたりが同一人物である事をやっと理解した。ちょっとしたパニックに陥る彼女を見て郁美は、年齢に似つかわぬ幼げな笑顔で人差し指を口に当て「内緒」のポーズを作っておどける。
「他の人にはヒ・ミ・ツ、ね?」
汝の敵の正体を知る共犯者となった玲佳の心に、バリバリッと稲妻のような衝撃が駆け抜けた。瞳を潤ませ好奇の視線で見つめる彼女に、再び郁美が話しかける。
「じゃあ――有馬さんも練習の支度して、そろそろ始めようか?」
今度は何の迷いも無く、玲佳はこくりと大きく首を縦に振って返事をした。
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