第二章 桃色兎、飛翔

第7話 劣等感

 また今夜も聞こえてくる――幼な子だった私を苦しめる、呪詛の如く忌まわしい言葉が。


 ……きたぞ、デカブツが。みんなにげろぉ!


 教室に入る私をみつけたクラスの男子が、大きな声で叫ぶと周りにいた子たちがきゃーきゃーと騒ぎ立て、蜘蛛の子を散らすように目の前からいなくなってしまった。


「何でわたしを避けるのよ?」


 除け者にされたショックで半べそをかく私に、男子は更に酷い言葉を吹っ掛ける。


「お前なんてただデカいだけで、トロくて鈍くて全然つまんないんだよ!あっち行けよ!」


 彼の言葉に、私は強烈なショックを受けた。

 男の方が圧倒的にと信じて止まなかった彼は、自分より私の方が身体が大きい――たったそれだけの事で、元々気の弱かった私を標的ターゲットに定め、後に彼の行き過ぎた行動が、他の児童の告発により保護者会で問題になり、次の年のクラス替えで離れるまでずっと私を苛めつづけた。


 それ以来、この大きな身体に強烈なコンプレックスを持つようになり、人と接する事が怖くてたまらなくなった――


 ――はっ?!


 酷い悪夢から目覚め、ベッドから飛び起きた有馬玲佳ありまれいかは、顔はおろか背中までびっしょりと冷汗をかいていた。


(また同じ夢……このところ毎日じゃない、いい加減勘弁してほしいわ)


 彼女は汗ですぶ濡れになった、寝間着がわりのTシャツを脱ぎ、浴室にある洗濯機に放り入れ上半身裸のままでキッチンへ向かう。薄暗い室内で電灯も付けず、時折足の指をぶつけながら冷蔵庫に辿り着くと、よく冷えた無糖無味の炭酸水を取り出し火照った喉へ一気に流し込んだ。


 喉を通り抜ける度に餅のように白い、剥き出しの乳房が上下に揺振る。


 二酸化炭素が溶け込んだ、少し苦味のある炭酸水が口中で弾け、モヤモヤしていた玲佳の気持ちも若干晴れたような気持ちになる。


(もう少し……眠ろっと)


 日が明ければプロレスの練習や芸能の仕事など、忙しい《日常》が待ち構えている。乗り切る為にはもう少し眠って体力を温存したい――新しいシャツに着替えた玲佳は、テレビやラジオなど眠気を誘発させる道具を使う事もなく、ベッドへ潜り込むや自然に瞼は落ち、再び眠りの海へと落ちていった。



 試合後の控室に安曇野の怒号が響き渡る。あまりの剣幕に他の選手が彼女の声にたじろぎ、部屋の前を早足で過ぎ去ってしまう程だった。


「何やってんの玲佳っ! 全然気持ちが入ってないじゃないの、今日の試合」


 真っ青な顔で項垂れる玲佳に対し、安曇野のダメ出しは続く。


「攻撃に全く芯が入ってないしカットを防ぐのも遅い。今日の玲佳は何なの?ふざけてるの、ねぇ?」


 太平洋女子プロレス今夜のメイン、安曇野・有馬・鹿島ら 《美しき野獣ベッラ・ベスティア》と、彼女らの宿敵である謎のマスクウーマン・MAXバニーを含めた正規軍との6人タッグマッチは、まだ経験の浅い太平洋女子の若手選手をしっかりフォローしつつ、自身も積極的に攻撃に加わったバニーの活躍により美獣軍に勝利したが、若手選手たちの未熟さ以上に、壁として立ちはだかる玲佳の、不甲斐なさが目立つ試合となった。


 自分たちが反体制側のユニットである以上、正規軍よりも技能や気迫など全ての面で上回っていなければならない、と考えている安曇野にしてみれば許しがたい事だった。

 機関銃のように立て続けにダメな部分を指摘され、大きな身体をこれ以上なく小さく縮ませる玲佳が可哀想になり、仲間である鹿島多恵かしまたえが助け舟を出した。


「そうガミガミ言うなって沙織。玲佳だって一生懸命やってんのよ、それくらい分かってやりな。仮にもリーダーなんだからさぁ」


 鹿島は冗談ぽい口調で玲佳をフォローするが、それが気に障ったのか安曇野は更に口撃を続けた。


「一生懸命やるのは当然。それをお客さんや仲間が感じられないようではには入らないわ、ただの自己満足よ」

「沙織っ!お前言っていい事と悪い事が――」


 カッとなった鹿島が安曇野の着ている、Tシャツの首元を乱暴に掴み顔を近付け睨んだ。だがベスティアの長も彼女の瞳を凝視したまま一歩も引く気配がない。自分の不甲斐なさで、仲間たちをいがみ合わせている事を痛い程理解している玲佳は、絞り出すような小さな声で二人の間へ割り込んだ。


「……やめてふたりとも。多恵ちゃんゴメン、やっぱり悪いのは私。沙織さんもすみませんでした。今後気を付けます」


 そう言うと玲佳は、私物の入った鞄を掴むと逃げるようにして控室から出ていった。それを見た鹿島は安曇野から手を離し彼女を追いかけていく。


「まてよ玲佳っ!」


 玲佳を呼び止める声が廊下に響き渡る中、ひとり控室に残された安曇野は強張った表情で深く溜息をつき、操り人形マリオネットの糸が切れたようにがくっと椅子に腰を下ろした。


 また、やっちゃった……


 自分の目標とする理想像に近付きたいが為に、周りの迷惑を顧みず一直線に突き進んでしまうのは安曇野の悪い癖だが、それを素質も能力も異なる他人にまで求めてしまい、厳しく当たったのは正直やりすぎだと反省するが「時すでに遅し」でどうしようもない。


 こんな自分の悩みを聞いてくれる人物はひとりしかいない――安曇野はスマートフォンを取り出し、のLINEへ短いメッセージと、しょぼくれた自分の顔の写真を一緒に送信する。


【郁美センパイ、今晩いいですか~?】


 送信ボタンを押して間もなく、壁を一枚挟んだ隣の控室にいるバニーのスマートフォンから、癇に障るような甲高い通知音が鳴った。



 ネオンサインが星の如く瞬く繁華街の一角――


 年季の入った雑居ビルの中にある小奇麗な居酒屋で、安曇野とMAXバニーこと成瀬郁美なるせいくみはテーブル席に座り遅めの夕食を取っていた。

 リング上では敵同士として、回を追う毎に過熱していく抗争劇を繰り広げているふたりだが、試合が終われば面倒見のよい先輩・甘え上手な後輩へと変貌する。安曇野は抱えている悩みを吐き出し、郁実も親身になって彼女の悩みを聞いてあげた。


「どう思いました?――今日の玲佳。あれはお客さんに見せていい試合ぶりじゃないですよ」

「う~ん。確かに試合していて、ヒヤリとする場面は何度かあったけど」

「そこなんですよ。攻撃での負傷はともかく、自分のちょっとした不注意で相手に怪我させてしまったら、って思うとついつい声も荒げたくなっちゃうんです」


 安曇野は半分残っていたレモンサワーを一気に流し込み、机に叩き付けるように空になったグラスを置いた。怒りに任せて飲んでいた為か、いつもよりもペースが速く彼女の顔は既に赤く染まっていた。


「確かにねぇ。試合中によそ見はしてるし攻撃も中途半端。私だったからいいけど、パートナーの娘ふたりは相当やり辛かったと思うよ?攻守のタイミングが合わなくて」


 郁美も努めて玲佳の「いい所」を探そうとするが、いかんせん今日の試合は酷過ぎた。口から出るのは彼女のマイナス面ばかり――対戦相手からも仲間からも不満が出るのは相当下手だしょっぱかった、という事だろう。


「下手なら下手でいいんです、「闘っている」って所を見せてくれれば。ただ今日の彼女、何だか心此処に在らずって感じで気持ちが入ってなくて――」


 技能的な問題であればいくらでもアドバイスは出来る。しかし本人の精神的な問題となればいくら先輩の郁美といえども、迂闊に「こうだ」と決めつける事が出来ない。最大限のフォローはすれども結局を解決するのは自分次第なのだから。


「リングに上がればだけど、一緒に仕事するとして改善の手助けはする。だけどこればかりは玲佳ちゃん本人の問題だから、も長い目でみてやって頂戴よ。彼女もいろいろ悩んでる事があるんだと思う」


 郁実の言葉に、酔いが回ってきたのか瞼を半分閉じて、ぼんやりとする安曇野がこくりと首を縦に振る。見れば彼女の前には空のグラスが溢れかえっていた。


「ふぁ~いセンパイ、了解しましたぁ。ベスティアの長たるワタクシ安曇野が、しっかりと玲佳の面倒をみるでありますっ!」

「……ちょっと大丈夫?玲佳ちゃんの事よりも、今アンタの方が心配だわ」


 目が座り口は半開きのままケタケタと笑う安曇野のあられもない姿に、郁実は顔を引き吊らせて固まった。


「すみませーん、もう一杯レモンサワーお願いしまぁす!」

「水でいいです、水持ってきて!」


 店員が運んできた水の入ったグラスを掴むや、ぐぐっと一気に飲み干してグラスを空にする。匂いと口当たりに違和感を感じた安曇野が叫んだ。


「なぁに、このお酒?水みたいな味がするぅ」

「水みたいな、じゃなくて水!あのさぁ、仮にも沙織ちゃんはリーダーなんでしょ、だったらもう少しちゃんとしよっ?」


 騒ぐ彼女を窘める郁美。周りからの冷ややかな視線が痛いほど肌に突き刺さる。このままでは埒があかないと判断した郁美は、鞄からスマートフォンを取り出しを呼ぶ事にした。


「もっと飲みましょうよぉ……もしかしてセンパイは私がキライなんですかぁ?だとしたらわだじ……わだじ……うわぁぁぁん!」


 ご機嫌だったかと思うと、今度は一転して泣き出す安曇野。距離をとってみれば面白い状況だが、至近距離にいる郁美にしたらたまったものではない。


 めんどくせーな、こいつ。


 溜息と共に口から出た、郁美の本音が聞こえているのかいないのか、安曇野はまだ泣いていた。



「どうしました郁美先輩?」


 電話をかけてから十数分後、太平洋女子プロレスの営業部員・紀平大臥きひらたいがが郁美たちのいる店に現われた。既に事務所オフィスでの仕事も終わり、家でくつろいでいた時に突然呼び出されたので、普段みる事がない私服姿でのお出ましだ。


「くつろいでいた所悪いわね、大臥クン。実はさ、連れの女王様を家まで送って欲しいのよ」


 大臥が郁美の指さす方を見てみれば、空になったグラスを持ったまま号泣している安曇野がいた。会場や事務所などでみせる、何者も容易には近付けない「できる女」とは真逆な、何処にでもいるような可愛らしい女性・沙織の姿に彼はどきっとする。


「何ですかこれ?状況が全く読めないんですが……」

「状況なんてどーでもいいの。ささ、大臥クンは彼女を担いで外へ連れ出して!」


 郁実の云われるがままに大臥は、安曇野を優しく椅子から引っ剥がすと一気に背中へ担いだ。


 えぐっ……えぐっ……


 安曇野のしゃくり泣く声が、自分のすぐ耳元で聞こえて来る信じ難い現実。背中越しに伝わってくる、彼女の温もりと柔らかな感触に大臥の胸の鼓動は高まった。


「――子供みたいでしょ?彼女。仕事に仲間……みんなひとりで責任抱え込んじゃって。そりゃ時々羽目も外したくなるわよ、に戻りたくて」


 会計を済ませた郁実は安曇野の頭を優しく撫でると、居酒屋を出て一緒に大臥の車へと乗り込んだ。



 ふぇっ……?


 再び意識を取り戻した安曇野が見たものは、相談に乗ってくれていた郁美の顔ではなく、車を運転する大臥の後姿だった。後部座席で横になって寝ている自分の身体へ、ご丁寧にタオルケットまで掛けてある気の配りように彼女は、気恥ずかしさで顔が真っ赤になり一気に頭の中がクリアーになった。


 もぞもぞと上体を起こす彼女に、運転席の大臥が気付いた。


「起きましたか?沙織さん。辛いようでしたらもう少し横に――」


 目を擦り、寝ぼけ眼で車内を眺める安曇野。気が付けばついさっきまで一緒にいた筈の郁実の姿が見当たらない。


「い、郁実センパイは?」

「沙織さんを僕の車に乗せた後、そのままお家へ戻られましたよ」


 大臥の説明によれば店を出た後、酔っ払ってまともに歩けない安曇野を車の中へ押し込むと、郁美はひとりで仮住まいのホテルへと戻って行ったのだという。


 対向車のライトが、道を照らす街路灯が車窓を通りすぎる度に、光の尾が安曇野の目の前を通過していく。


「――買ってきて」

「えっ?」


 愛想のまるでない、安曇野のぶっきら棒な「お願い」に大臥が反応した。


「スポーツドリンク。喉が渇いたのっ」


 女王様はいつも気まぐれだ。の態度に安心しふふっと笑うと、前方に見えたコンビニへと進路を変えた。



 駐車場に停車させてから五分も経たない内に、大臥はスポーツ飲料水の入ったレジ袋を持って戻ってきた。


「はい、買ってきましたよ」


 袋から一本取り出し安曇野に手渡す。ペットボトルの冷たさが、酔いで火照った身体にとても心地好い。手から伝わってくる冷感に彼女は思わず艶っぽく吐息を漏らした。


 その仕草に大臥の心臓は大きく脈打つ。



 はて、どうして俺は沙織さんを、自分の車に乗せているんだっけ?


 タレント、女優、プロレスラー……、様々な《顔》を持つ《高嶺の花》的存在といえる安曇野が、社用車でない自分の車に乗っているだなんてにわか信じられない。何度自分の目を疑い自問自答を繰り返しただろう。だが後部座席から微かに匂う、化粧と汗とが入り混じった彼女の体臭や、スポーツ飲料水を飲み美味しそうに喉を鳴らす音は、紛れもなく現実のものだ。


「あ、そこの交差点右に曲がって」


 安曇野の指示に従いハンドルを切る大臥。桃色のベールが目の前を覆う夢見心地な気分から、一気に現実へと引き戻される――しばらく走ると彼女の住まいである、白亜の城とでも称すべき趣のある集合住宅マンションが見えた。


「た、高そうなお住まいですね……」


 車から降りた大臥は、まるで別世界な玄関エントランスホールをまじまじと眺め驚愕する。子供じみた彼の行動を安曇野は恥ずかしそうに苦笑いした。


「高いよ~。家賃は事務所に出してもらってるけど、今のお給料じゃとてもこんな物件に住めるわけないもの」

「えっ、じゃあ……何で?」

「ただの箔付けよ――安曇野沙織という《高そうな女》を印象付けるためにね」


 何バカな事やってるんだろう、と寂しそうに自嘲する安曇野の横顔を見た大臥は、共に仕事を始めてから初めてに接した、と思った。普段は《スター》のプライドを嵩にかけ、高圧的な態度で接してくるが今、自分の目の前にいる彼女は驕り高ぶる事なく《強者》のオーラも纏わない――普通の女性だ。


 黙ったままじっと視線を向ける大臥に、安曇野はわざと虚勢を張って冷たくあしらう。


「何よその目は。私に同情でもしてくれるの?でも無駄よ、君と私とじゃが違うもの」


 安曇野はくるりと背中を向け、エレベーターへと向かおうとするが、それまで黙っていた大臥が突然口を開いた。


「違わないですよ。同じ世界で同じように空気を吸って、生きているもの同士ですから。だから――辛いことがあったら僕にも相談してください。かもしれないけど、支えにはなりますから」


 彼女に対する下心も、己を良く見せるための見栄でもない。一切迷いのない大臥の善意に、安曇野の胸は乙女の如くきゅんと疼いた。


 大臥の方へ振り返ろうとするが、恥ずかし過ぎてまともに目を見る事ができない。ちくしょう、いつもだったら適当に揶揄からかって笑ってやるのに――彼女はちょっぴり悔しがった。


「あっ……すみません。ちょっと偉そうでしたね僕。でもひとりで責任を抱え込んでしまっているのが心配で」


 ほんと馬鹿ね――と口の中で呟いた安曇野は、ペットボトルの中に残っていたスポーツ飲料水を、全部口の中に含むと体格ガタイのよい大臥の胸板に身を預け、彼の口を肉付きのよい唇で塞いで、口内の液体全てを大臥の口に移し入れた。


 んぐっ……けほっ、けほっ!


 甘い飲料水と、生温い彼女の唾が混ざったものが、一気に大臥の喉に流れ込む。予想だにしなかった安曇野の行動に、驚くやら恥ずかしいやらで思考が一時停止する。


「な、何するんですか!?」


 口を手で押え、慌てふためく大臥の様を見て安曇野が大笑いした。ふたり以外は誰もいない、エントランスホールに屈託のない笑い声が反響する。


「あー可笑しい――お酒のせいかな?君に気を許しちゃうなんて。だと思ってひとりでニヤついてなさい、坊や」


 そういうと彼女は、タイミングよくやってきたエレベーターに飛び乗ると、扉が閉まり大臥の姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けた。


 あ り が と う


 大臥は見逃さなかった――扉が閉まるその直前、安曇野が口の動きだけで伝えた感謝の言葉を。


 彼の口の周りにはまだ、彼女の飲んだアルコールの香りが微かに漂っていた。

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