第6話 たたかいの果てに

 観客たちから発せられた歓声が、微かに壁の向こう側から聞こえてくる。

 安曇野はリングでひとり闘っている、親友の事が気になって居ても立ってもいられない。一番最後に控えている試合の準備のため、いつものように岸谷の側へ付いてやれない事を恨めしく思ったりもする一方で、そんな彼女を誇らしくも感じていた。

 ベスティア専用の控室のなかには、怪我防止のストレッチをしながら、騒がしくお喋りをする有馬と鹿島の姿があった。

 ちょっと――見てくるか。

 そう決めた安曇野はリングコスチューム姿のまま、そそくさと控室を抜け出し入場口の裏へと駆けていった。

 緞帳の隙間から中の様子をそっと覗いてみる。

 自分が登場人物キャストとして参加する試合以外で、こうして仲間の闘いっぷりを観るのは初めてかも知れない。いつもは観客たちの視線を浴びている立場だが、その観客たちの背後から人知れず試合を観る、という経験は新鮮で面白いと思った。

 それぞれが贔屓する選手の名を、大声で連呼する観客たちの視線はただ一点――照明によって輝きを放つリングの中へと注がれていた。


 キャンバスの上に寝かされた、岸谷の黒いシューズの先を掴み足首を捻りあげるバニー。肘は大腿部へしっかり突き差し抜かりはない。外傷とは違う、内側から来る鈍い痛みに顔を歪めながらも岸谷は、手首の骨をマスクの上からあてがい、桃色兎の頬骨をぐいと締め付ける。地味なビジュアルだが互いに力の入った攻防である。攻防次第では次の展開が相手よりも有利になるからだ。

 脚の痛みに堪えながら岸谷は、バニーに顔面締めフェイスロックを続ける。彼女の首が大きく後ろへ仰け反った。それに前腕が鼻を塞ぎ呼吸もし辛い状態だ。

 足首がイカれるか呼吸困難になるか――どちらも決断を迫られていた。

 先に折れたのは意外にもバニーだった。岸谷は彼女との我慢比べに競り勝ったのだ。

 はぁ……はぁ……はぁ……

 キャンバスに両手を付き、激しく呼吸をして肺に酸素を取り込むバニー。機動力の源であるスタミナが、これによって奪われたのは紛れもない事実だ。

 くいっ――

 自分の意思とは無関係に、頭が持ちあがり頤が上を向いた。岸谷がバニーのマスクに付いている、長い耳を乱暴に掴んで強引に体勢を整えたのだ。

 稲妻の如く身体に衝撃が走った――小さなバニーの胸へ、鋭利な岸谷のミドルキックがヒットする。痛みはは胸骨を超え、背中まで一気に駆け抜けていった。

 一発、更に一発と蹴りが撃ち込まれる度、びくっ!と機械仕掛けの人形の如く、バニーの身体が大きく跳ね上がる。

「がっ……はぁ!」

 食い縛る歯の隙間から低い呻き声が漏れた。膝ががくがくと左右に揺れて、立っているのも辛そうだ。

 勝機とみた岸谷は右腕を挙げ、四方のファンたちに「次で決めるぞ!」とばかりにアピールをした。

 勝負を決めんとする彼女の蹴りが、唸りをあげて迫ってくる。軌道はさっきまでのように胸ではなく――バニーの意識を刈らんと下顎へと向かっていた。


「――させるかよっ!」

 虚ろだったバニーの瞳に再び灯が灯る。

 戦意を刈り取らんばかりの岸谷のハイキックを、肩を上げてブロックするとそのまま脚を掴み自身の身体ごと回転して、逆に岸谷の膝へダメージを与えた。飛龍竜巻投げドラゴンスクリューならぬバニースクリューが炸裂した。

 今度は岸谷が呻き声をあげる番だ。膝を押さえキャンバス上を転げ回る痛々しい姿に、彼女のファンはもちろん、裏で覗き見ていた安曇野を心配させた。

 普段のような、ベスティアたちの《ワンマンショー》ではない、手に汗握る攻防が繰り広げられる本来の《女子プロレス》に、観客たちは知らず知らずに引き込まれていく――


 《麗しのナルキッソス》の異名を持つ岸谷は、普段の気品ある優雅なファイトぶりとは違い、彼女本来の滾る感情を前面に出した激しい闘いをみせ、それまで岸谷の事を敬遠していたプロレスファンの目を釘付けにする。

 しまった、こんないい選手だったのか――彼らは心底後悔した。

 バニーだって負けていない。正体である成瀬郁美時代のキャリアもファンたちの記憶から薄れ、ゼロの状態から己の格を作り上げなければならない彼女は、太平洋女子で身に付けた基本的ベーシックなレスリングプラス、修行地・メキシコで培った空中技のテクニックを惜しげもなく披露する。


 首投げフライングメイヤーで、小さな桃色兎をマットへ叩き付けんとする岸谷。だがバニーもそれを拒み、投げられると同時に回転し両足で着地してこれを防ぐと、打点の高いドロップキックで反撃した。

 岸谷が大きく後方へ倒れる。だが思っていたよりダメージは少ない――そう冷静に自己分析した彼女はバニーの次の手を待った。

 更に攻め立てんとバニーが、マットへ寝そべる岸谷の頭を持ち上げ強引に引き起こす。そして助走なしにその場でジャンプして、先程と同様に顔面狙いのドロップキックを放たんとする。

 だが跳び上がった瞬間、バニーの視界に岸谷のリングシューズの裏面が飛び込んできた。次の攻撃を読んでいた岸谷が、戦闘機を撃ち落とす高射砲の如く、長い脚から繰り出される前蹴りビックブーツでバニーを迎撃したのだ。

 ぐらりと瞳の奥が揺れ、バニーの意識は一時的だが遠くへと飛ばされてしまう。

 ――――――

 ほんの僅かな間、明後日の方向へ飛ばされていた意識が戻り、正気になったバニーに待っていたのは岸谷の関節技地獄だった。身体の可動域を無視するように、バニーの関節という関節を捻り、曲げ、拉いだ。その都度彼女の口から悲鳴があがる。

 アートのような岸谷の技の数々に観客たちは、仕掛けられているバニーの痛みの事よりも、無駄のない技の入り方や形の複雑さに驚くと共に感心もした。


 ――凄いよ、晶。今までで最高に格好いいよ!

 ステージ裏の安曇野が興奮のあまり思わず叫んだ。だがリング上の死闘に心奪われている観客たちは、そんな彼女の声など誰ひとりとして気付いていなかった。

 我の強い安曇野、身体の大きさが特徴的な有馬、そして機動力で魅せる鹿島らと比べ、いまいち美しい個性の乏しかった岸谷がここに来て、バニー=郁美の導きによりレスラーとしての本領を爆発させた事で、よりベスティアたち四人の個性キャラクターがくっきりと浮かび上がった。

 

「ギブアップ、バニー?」

 レフェリーが大袈裟な動作で、アームロックを極められているバニーに降参ギブアップを迫る。身体にある様々な部位の関節ジョイントを弄られていた彼女は、これ以上攻められればもう後はなく――自らの口で敗北を宣言するしかない。

 ――ここで敗けてしまったら、バニーはただの道化者になってしまう。違うっ! わたしは道化なんかじゃない、夢と勇気を皆にふりまくスーパーヒーローなんだ!!

 バニーは1メートル先にあるサードロープを確認すると、身をくねらせ下半身のみを必死に動かして、安全地帯へと逃れようとする。途中逃げる彼女を岸谷が何度も連れ戻すがそれでも諦めない。

 そして――バニーの爪先がサードロープに触れた。

 ロープブレークが成立したため岸谷は仕方なく技を解く。痛む肘を押さえ、立ち上がる事も儘ならない手負いの兎に、この先勝機など見えるはずがなかった。

 岸谷がバニーを、正面から抱くような格好で強引に起こす。必殺技のひとつである裏投げを仕掛けるつもりだ。これが決まればもう、敗けは決まったも同然である。

 投げさせてなるものか!

  桃色兎は相手の肩や頭へ滅茶苦茶に肘打ちを入れ、これを阻止せんとするが抵抗もむなしく、バニーの身体がふわりと宙に浮いた。普段からの猛練習の賜物である、岸谷の背筋力から生み出された、バネの利いた見事なブリッジが見事な弧を描いて、桃色兎を頭からまっ逆さまに地獄へと誘う。

 会場にいる観客たち、技を繰り出した岸谷ですらこの勝負の終わりを確信した――だがプロレスの女神様は、彼女には微笑みかけなかった。

 平衡感覚の優れたバニーが、頭からマットへ叩き付けられる前に身を捩り、脳天ではなく両足で着地する事に成功したのだ。

 信じられない――唖然として、思わず思考が停止する岸谷。

 彼女の僅かな隙を見逃さないバニーは、素早く正面から組付き、北斗原爆固めノーザンライト・スープレックスで、岸谷を逆にマットへ叩き付けた。背後からの投げ技と違い、身体の大小に関係なく相手を投げやすく、且つ決め技フィニッシャーにもなるバニーのような、決して大きくない選手にはうってつけな技である。

 それまで岸谷の方へ傾いていた試合の流れが変わった。自分の元へ勝機を手繰り寄せようと、ふたりは再び激突した。

 張り手や肘打ちが顔や顎、首筋などを深くえぐる。

 蹴りが胸板や腹、大腿部を激しく痛めつける。

 途中何度も気持ちが折れそうになるが、それでも勝利を信じて相手の闘志を、体力を削っていく。

 歯を食いしばり一心不乱にしばき合う、彼女たちの姿に観客たちのにも火が灯り、顔を上気させ贔屓する選手たちの名を、肚の底からフルボリュームで叫び声援を送るのだった。


 言葉が出ない。鼓動が激しく胸を打つ。

 自分が試合前だという事を忘れ、安曇野はリング上の光景に釘付けとなっていた。

 親友の応援、という本来の目的は忘れてはいないが、それ以上にふたりの熱いバトルに夢中になっていたのだった。そして《ベッラ・ベスティア》が遂に叶えられなかった、企画当初の最終到達点であった女子プロレスラーとの軍団抗争を、自分ではなく養成所時代から苦楽を共にした親友が行っている、という現実にちょっぴり嫉妬もした。


 ロープから走って戻ってくるバニーに対し、岸谷は相手の脇から腕を入れて一気に払い腰で投げる。だがバニーも岸谷の技を瞬時に察知し、身体が浮き上がる瞬間に首を掴み遠心力と重力に身を任せ、彼女を首固めに捕らえマットへ強引に肩を密着させる。

 目視したレフェリーはすかさずキャンバスを叩き、フォールカウントを数えた。

「――ちっ!」

 想定外の返し技に、面食らった岸谷は慌ててカウントツーで肩を上げこれを回避する。

 再度フォールを狙おうと、バニーが上体を預け覆い被さろうとするが、そうはさせじと岸谷は巴投げで彼女を撥ね飛ばし、掴んだ腕を離さずそのまま腕ひしぎ十字固めの体勢に入る。肘の筋が逆方向へ曲げられる前に立ちあがったバニーは、身体のサイズ差に苦労しながらもどうにか海老固めに切り替えし、岸谷に対し再度フォールを狙う――だがこれもカウントふたつで跳ね退けられてしまう。


 これまでは、真剣ガチなプロレスファンたちからされてきた岸谷だったが、いまリングで死闘を繰り広げている彼女を、嗤うものは誰ひとりとしていなかった。試合の最中に対戦相手であるバニーのリードによって、潜在する能力を引き出された岸谷は、誰の目からみてもと呼ぶに相応しく、逆に芸能人タレントである事の方が疑わしく思える程だった。


 大きく肩で息をし、肉体の疲労も頂点ピークに達しながらも、決して相手から目を背ける事のないふたり。

 早く終わってゆっくりお風呂に浸かりたい。

 やわらかいベッドに大の字になって眠りたい。

 でも――相手を叩きのめしてから、ね。

 彼女たちは己のグッドタイミングを胸の中で計り、確認すると覚悟を決めマットを蹴った。

 岸谷とバニーは互いに反対側のロープへと走り出す。反動により加速が付いた身体が空気を切って唸りを上げた。

 次の瞬間、会場中に重く大きな衝撃音が響き渡る。どちらがマットへ叩き付けられたのか?  

 犠牲者は――意外にもMAXバニーだった。

 コンマ数秒の差で主導権を奪った岸谷が、渾身の力で必殺技である竜巻谷落としS T Oを仕掛けたのだった。全体重を浴びせられ、軸脚を素早く刈り取られたバニーは真っ逆さまに頭から落ちていった。

 ――これでおしまいだ、バニー!

 レフェリーがマットを叩くと同時に、観客たちから一斉ににカウントが数えられる。稲妻のような技の切れ味に、「これで勝負は決まった」と、そう誰もが思っていた。

 硬い掌がマットを強く二度打った。もうひとつカウントが入れば勝敗は確定する――しかしマットまで、あと数センチの所で突如カウントは中断されてしまう。

 勝利までの道を、直前で閉ざされた岸谷はレフェリーに抗議するが、彼の示した指の先を見て一気に脱力した。

 バニーの足首がサードロープの外に出ていたのだ。

 勝利を焦った岸谷が位置を確認せず、ロープが届くすぐ近くで体固めカバーしたのが原因だった。

 あまりにもショックが大きかったのか、虚ろな目でふらふらと立ち上がる岸谷。己の中で闘志を奮い立たせるのに苦労している様子だ。一度消えかけた闘志を、再び轟々と燃え上がらせるのには気力とモチベーションが必要で、あの一撃に全てを賭けていた彼女にはもう何も残っていなかった。

 

「うぉぉぉぉぉ!」

 気合いと共にバニーも立ち上がった。あれだけ大技を喰らい続けたにもかかわらず、まだ闘志は果ててはいない。ルビーのように赤く充血した眼が何よりの証拠だ。

 偶然にも照明が反射してマスクの額部分にある、黄金色の生地で施されたアステカの太陽神が光輝く。それはまるでスーパーヒーローが劣勢から反撃へと転じる時のように。

 棒立ちになっている岸谷の腹に、連続でパンチを二発叩き込む。

 苦痛で顔が歪む彼女にバニーは、続けて双按(掌打)で胸を突き距離を取り、独楽のようなローリングソバットで身体をくの字に屈めさせた。

 そして岸谷の小さな頭をフロントヘッドロックに捕えると、そのまま強引にコーナーポストの方角へ引き摺るように移動した――スイング式DDTか? いや、そうではない。バニーはトップロープに腰掛ける事なく、そのままロープを階段のように駆け上り、最上段まで昇り詰めると抱えた岸谷の頭と一緒に、旋回をしながらマットへと落下する。

 落下プラス回転で発生する重圧が、首に一気に圧し掛かり岸谷は衝突音と共にマットに顔をめり込ませた。バニーの必殺技――旋回スイングを超えた竜巻トルネードDDT、その名もトルナド・デ・アカプルコが見事に決まった!


 マット上の光景に口を押えて驚く安曇野。

 もう岸谷かのじょが起き上がれないのは、素人目でも分かっていた。

 だけど、ほんの僅かな可能性を期待してしまう自分もいた。

 しかし――それは叶わぬ夢と化してしまう。

 レフェリーが最後のカウントを叩き終えたからだ。

 試合終了を知らせるゴングの金属音が会場に響くが、観客たちの大歓声でその音は掻き消されてしまう。

 親友の晴姿を見届け終えた安曇野は、ふぅと溜息をつくと黙って控室へと戻っていく。彼女の目には少しの悔し涙と、ベスティアの長としての強い決意が宿っていた――


 岸谷の視界へ急に、リングを照らす天井の照明器具ライトが映った。

 どうやらしばらくの間気を失っていたらしい。

 ゆっくりと自力で上体を起こすと、待っていたかのように若手選手がコールドスプレーで首筋辺りをアイシングする。少しだけだが痛みは和らいだ。

 頭を振り意識をはっきりさせると、敗戦の悔しさの倍以上の達成感が、岸谷の心を満たしていた。

「岸谷ーっ、よく頑張った!」

「これからお前のファンになるぞぉ!」

 これまで自分の試合にはなかった、うるさ型の女子プロレスマニアたちから声援や拍手が、多く送られていた事が何よりの証拠だ――岸谷 晶は彼らから認められたのだ。

 誰かが目の前に掌を差し出した。今日の相手であるMAXバニーだ。岸谷はその掌を強く握るとバニーは、彼女をぐいと引っ張り上げマットへ立たせた。

「あなたも――これで、ってわけだ。おめでとう、そしてようこそ。この素晴らしき闘いの世界へ」

 そう言ったバニーの表情は、先程までの鬼気迫る険しい表情ではなく、優しく穏やかなものだった。そう、すでに気持ちはMAXバニーではなく成瀬郁美へと戻っていたのだ。

「――先輩。今日はありがとうございました、自分勝手で未熟だった私をここまで引っぱり上げて下さって。本当に感謝以外の言葉が見つかりません」

 握手をしたまま深々と頭を下げる岸谷に、郁美は更に続けた。

「いやいや。岸谷さんがわたしの攻撃を、怯みもせずムキになって返し続けた結果だよ。プロレスはひとりじゃできない――ができる相手がいてこそなの。相手の事が分かれば一歩前に出る事や引く事だってできるのよ」

 郁美から贈られる、含蓄ある言葉に胸が一杯になる。岸谷は彼女からの言葉を、しっかりと心に刻みつけるように何度も頷いた。

 そして――握手する手の上へ、更に郁美の掌が被せられた。

「今度は《女優・岸谷 晶》、しっかり頑張ってくるんだよ?」

 岸谷の心の防波堤が決壊した――感激の涙が止まらない。

 雨粒のように涙が零れ落ち、シューズを、そしてマットを濡らす。

 郁美はそんな彼女を自分の元へ引き寄せて強く抱擁した。岸谷の金髪のショートヘアをくしゃくしゃにして可愛がる郁美の姿に、観客たちは惜しみなく拍手を送り続けるのであった――



 それから数週間後。

 岸谷晶が休場をしてまで全力を傾けた舞台演劇が、好評の末遂に千秋楽を迎えた。独自の美意識や科白回しで注目を集める、演出家の新作とあって初日から満員続きで、千秋楽の今日も空いている座席がひとつもない程の人気ぶりだ。

 オーディションで出演を勝ち取ったこの舞台、並々ならぬ意気込みで稽古に挑んだ岸谷。そのためにはどうしてもプロレス活動を休止してまで、もうひとつの顔であるに徹しなければならなかった。初日の幕が開く約一ヶ月間、必死に演出家の厳しいダメ出しと舌を噛みそうな長台詞に彼女は耐えた。

 その結果――郁美=バニーとの試合がそうであったように岸谷は女優としても、更にワンステップ成長したのだった。


 舞台の上で岸谷が、役の人物に成りきって哭き、笑い、唄った。それでいて決して主役を邪魔する事もなく、あくまで与えられた枠の中で己の個性を発揮する。


「ふん、私より――上手いじゃん」

 劇場の一番後ろの席で、口を尖らせながら安曇野が呟いた。一番前を独走していたと思っていた自分が、実は既に追い抜かれているのではないか?と、危機感が頭をよぎる。

「どうした。 えっ何なに、もしかして彼女に嫉妬しちゃってる?」

 渋い顔をした安曇野の隣の席で、郁美が面白がって囃し立てた。全くの偶然で隣同士の席に座る敵同士――これがリングコスチュームを着けた《戦闘モード》なら一大事だが、お互いが私服を着ているプライベート状態なら何の問題もない。

「嫉妬だなんてそんな。ただちょっと――羨ましいかな、って。でも晶がずっと頑張っていたのは知ってたし、やっぱここは素直に喜ぶべきですよね? センパイ」

 リング上で美獣軍団の長を時とは違う、友達思いな妙齢の一般女性となった安曇野に、郁美は目を細め穏やかな笑みを浮かべた。

「――あ」

「何よ?」

 突然安曇野が、何かを思い出し小さく叫んだ。声に反応した彼女らの周りにいる観客たちが、一斉にの顔を睨みつける。

「そういえばセンパイ、会場で全然お見かけしませんね。今何してるんです?」

「何をって――? いろいろ。メキシコから帰国してから何かと忙しくって」

「そ、そうですか。もし試合が組まれないようでしたら、一声掛けていただければ私たち、会社に掛け合いますから」

 自分をだと思い心配してくれる安曇野を見て、郁美は「なんていい娘なんだ!」と驚く。碧いコスチュームを着た安曇野はいけ好かないけど、こっちの安曇野なら気が合いそうだ。こりゃ少し考えを改めなければ――そう思った。


「それじゃあ私、用があるんでこれで失礼するね」

 周りの人に気を遣いながら郁美は席を立った。

「えっ、晶の舞台を最後まで観ていかないんですか?」

「ごめんね。だから私の分まで、岸谷さんの応援を頼むね」

 両手を合わせ申し訳なさそうに謝る郁美に、不満げだった安曇野もこれ以上何も言えなかった。

 舞台上の俳優たちの熱演に観客たちは、賞賛の拍手を送るなか、紛れるように郁美は去っていく。

 ふと自分のいた席を振り返ってみると、安曇野が名残惜しそうにこちらを見つめている。そんな彼女が愛おしく感じ、郁美のなかに悪戯心が沸いてきた。

 両手を頭の上に乗せ、兎の耳のようにぴくぴくと手を上下させる。郁美のの決めポーズである。

 見覚えのある《うさちゃんポーズ》に、驚きで眼を丸くする安曇野――どうやら郁美が誰だかわかった様子だ。

「えっ、えっ?! センパイがあの――」

 驚きと困惑で取り乱し、周りの客たちから騒がしい、と何度も注意されるが、安曇野にしてみればそんな事は問題ではなかった。


 そんな彼女の混乱ぶりを見て「してやったり」と、郁美のニヤニヤ笑いは止まる気配がなかった。

 

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