第5話 へそ曲り者の矜持
素早く郁美に組み付くと、彼女の脚を大きく刈り肩からマットに激しく叩き付ける――大外刈りが絶妙のタイミングで決まった。
あまりの衝撃にマットの下の板が大きく弾む。プロレスのリングではめったに見せない岸谷の柔道技に、対応が遅れた郁美は暫くの間腕が動かせないほど肩を強打し、顔に脂汗と苦悶の表情を浮かべる。
岸谷は表情ひとつ変える事なく、素早く彼女の上半身に跨り、固く握られた拳を顔へ目掛けて浴びせていった。
打つ、打つ、打つ――ひたすら暴力衝動の赴くままに殴り続ける。岸谷の拳が頬や鼻を何度もヒットし、顔面は内出血により変色し膨れ上がろうとしていた。
見たか。痛いか。これがボクの本性だ。
特にあんたのような――厳しい練習を積んできた自分だけが特別だ、って面してボクらを見下す輩は特にだ。
どうだい? 自分の
静かな怒りに燃える岸谷の拳が、またひとつ郁美の顔面に振り下ろされた。
鼻の奥の毛細血管が切れ、血液が水のように鼻孔を流れていくのが自分でもわかった。
げほっ、げほっ――
鼻血が気道へと逆流したため、思わず
このまま気を失ったらどれだけ楽だろうか?
郁美はふとそんな事を考えたがすぐに頭の中から打ち消した。相手が売ってきた喧嘩を自分で買っておいて、手も出せないまま簡単に負けるなんて馬鹿以外の何者でもない。
表情ひとつ変える事なく冷静に、そして一方的に郁美を倒し殴打する岸谷に対し、リングの外でひとり傍観する優樹奈は「喧嘩慣れしているな」と、思った。
普段はその外見の《美少年》ぷりが、年齢を問わず女性の観客層に受けてはいるが、実際の試合では《ベッラ・ベスティア》のリーダー・安曇野の手足となって動くだけで、彼女本来の力量が見え辛い――という意見が女子プロレスファンの多く聞かれていた。だが現実はどうだ? 正確無比に相手へ致命的なダメージを負わせる技術は本職の郁美を圧倒するだけのものを持っており、このまま反撃できず岸谷のペースが続けば、勝敗は見るからに明らかだった。
だが郁美にも《プロレスラー》の意地がある。
首や背中に腹――全身の筋力を総動員させ、ブリッジを何度も繰り返し、自分と岸谷との間に隙間をつくろうと郁美は試みる。幾度も顔へ拳が当たるが、相手の姿勢が崩れてきたか最初ほどの威力はない。そしてついに郁美の身体のバネの力に負け、岸谷は手を前についてしまった。
素早く岸谷の股から身体を抜いて、
膝を付き前屈みとなった岸谷は、再び相手と向き合おうとするがコンマ数秒の差で背後を取られ、獲物を仕留める大蛇の如く首筋に腕が絡みつく。
瞬時に頸動脈が締め上げられた。
プロレスラーでありタレントでもある岸谷 晶を屈服させるのに、相手と同じように顔面をぐしゃぐしゃに破壊してしまっては、芸能活動に差し支えるだろうと冷静に判断し、郁美が選択したシュート技――それが
岸谷は首を締め付ける腕から逃れようと、殴ったり引っ掻いたりして抗ってみるものの、巻き付いた郁美の腕は一向に外れる気配はなかった。ご丁寧に太腿は胴を完全にフックしており、どの方向へ身体を動かそうにも技から逃れられる気がしない。
郁美が岸谷の頭を前に押し、身体を思い切り仰け反らせる。頸動脈から脳に供給される血液が完全に遮断された――もはや彼女に降参する以外の逃げ場はない。
薄れゆく意識の中で岸谷は、仲間であり友人でもある安曇野沙織の姿をみた。
何ひとつない、真っ白な空間によく映える、青いコスチューム姿で遠くに立つ彼女はこちらに背中を向けたままで、決してその表情を見せてはくれない。
ボクの、この無様な姿に失望しただろ――?
岸谷はまぼろしの安曇野へ問うてみる。だが待てども返事は返ってこなかった。
そうか。沙織は昔から弱い者が嫌いだったね。
自嘲し諦めの表情を浮かべる岸谷に、安曇野は背中越しにこう言い放った。
違うわ。闘う前から自分の負けを認めてしまう者がキライなだけ。
絶望しうな垂れる彼女に、安曇野のまぼろしは再び言葉をかけた。
晶、あなたは――もう十分に闘ったわ。
遂にまぼろしは顔を向けた。憂いと慈しみが混じりあう複雑な
ああ、これで全て報われた。
何物にも代え難い幸福感が、優しく彼女を包み込んだ。
耐え難い緊張感から解放された岸谷の目から、ひと筋の涙が零れ落ちる――そのまま全身の筋力が弛緩し、彼女の瞳の奥にある輝きが消えた。
――――――――
失神から目覚めた岸谷の、視界に飛び込んできたのは道場を明るく照らす照明機器――そして郁美と優樹奈の心配そうな表情だった。特に優樹奈は彼女が目を開けた瞬間、安心して思わず涙ぐむほどだった。
「岸谷さん! あぁ良かった~」
全身が脱力感に包まれるなか、岸谷は無理矢理に上体を起こし頭を振って、意識を
徐々に蘇ってくる苦い記憶――序盤の
突然はっと我に返る岸谷。顔を恥ずかしさで真っ赤にし、あわてて頬に付いていた涙を手で拭き取る――他人には絶対に見られたくない姿だ。しかし郁美は嘲る事もせず岸谷に背中を向けて、彼女の次の行動をじっと待っていた。
「ははっ……笑っても蔑んでもいいんだぜ。理由は全て自分にあるのはわかっている。ほら、勝者の特権だよ」
岸谷が自嘲気味に呟く。
敗者である自分が、相手に罵り蔑まれる事で、この敗北の悔しさを心に刻み付けようとしていたのだ。しかし郁美からの嘲笑はいつまで経っても起きなかった。
「――笑わないよ」
「何……でさ?」
「別に、あんたの事嫌いじゃないから。それに喧嘩している内にそんなに嫌いじゃないな、って分かったし。だから馬鹿にする理由もないし笑う理由もない――変かな? 私の考え方って」
郁美の言葉には、修羅場を潜り抜けた者だけが持つ、確かな説得力があった。
リングの上で時には道化に徹する事はあれども、彼女の胸の奥底には常に《プロレスラー》としての誇りを抱いて闘っていた。厳しい鍛練の末に身に付けた、シュート技という懐刀を抜くのは目の前の相手が自分を、或いは愛すべきプロレスリングを舐めた態度に出た時だけなのだ。
岸谷は本物に出会えた嬉しさで、肚の奥から興奮がこみ上げて来て鳥肌が止まらない。
普段は郁美の後輩筋である、同じ位かそれ以下のキャリアの選手としか闘った事がなく、目上の選手との試合は数えるほどしかなかった。だから若手選手が試合経験豊富なベテランの胸を借りて対戦する事で、プロレスの厳しさや奥深さを学ぶ、といったごく普通の経験をしないまま来た為に、プロレスに対しどこか懐疑的というか「こんなもんか」と舐めていた所があった。
やるからには徹底的に――元々の芸能の仕事もプロレスもどちらとも「岸谷 晶の代名詞」とすべく、真剣に取り組んできたはずなのに、観客たちは揃いも揃って彼女を色物扱いし、何をしてもまともに評価されない苛立ちで、岸谷はすっかり腐ってしまっていた。
そんな世の中の視線に対し、胸の内に積もった鬱憤を《バニー退治》と託つけて潜伏場所まで足を運び襲いかかったものの、綺麗に返り討ちにあった岸谷の表情はどこか晴れやかだった。きっと胸の奥に溜まっていた鬱憤を、無我夢中で闘う事で消化していったのだろう。
「岸谷さん。今度は喧嘩じゃなくてプロレスを――お客さんの前でやってみない?」
敵側である郁美からの提案に思わず驚く岸谷。しかし嫌悪感は全くない、むしろ彼女と試合をやってみたくて仕方がなかった。念願だった舞台の稽古に入るために休場してしまうその前に、プロレスというもうひとつの舞台でどれだけ自分がやれるのか挑戦してみたくなったのだ。
「成瀬……先輩。ぜひ、是非お願いしますっ!」
岸谷は自分でも驚くほどに、するりと郁美との対戦を懇願し額をマットに擦り付けるくらいに深く頭を下げた。殺気さえ放っていた最初とはうって変わり、純真で真摯な彼女の態度に顔を腫らした郁美は、少し辛そうに、それでいて嬉しそうに笑顔でこれに応える。
「任せてよ。あなたを今までとは違う次元まで引っ張ってあげるから。それと――」
郁美は急に立ち上がり、コーナーポストの頂点に被せていた桃色の兎マスクを手に取ると、装着しMAXバニーの姿になって再び岸谷の方を向いた。
「次に闘うときは、成瀬郁美じゃなくってこのMAXバニー様だから。覚悟しといてね」
郁美の変わり身の早さがつい可笑しくて、それまでぽかんと口を開けていた岸谷が大笑いした。いつものような格好つけた笑いではなく、純粋に腹の底から湧き出してくる笑いだ。
何処からか、カメラのシャッター音らしきものが聞こえた。
バニーと岸谷が同時に音の方を向くとそこには、スマートフォンのカメラレンズをふたりに向けた優樹奈が、にんまりと笑みを浮かべているではないか。
「うーん、最高の笑顔! じゃあ今度はお互いに向き合ってファイティングポーズ、取りましょうか?」
優樹奈の見上げた
やれやれと首を振って、バニーが岸谷の肩を叩きファイティングポーズを取るよう指示をする。もちろんマスクの下で彼女も笑っていた。
こうして次回大会にて、MAXバニー対岸谷晶の一戦が組まれる事が、ネットニュースなどの電脳媒体を介しプロレスファンたちに知らされたのだった――
「何だよこれ? 晶、お前舐めてるんじゃねぇぞ!」
怒りで顔を真っ赤にし、岸谷の胸座を力一杯掴む鹿島。彼女の足元にはバニーと向かい合ってファイティングポーズを取った画像が、表示されたスマートフォンが転がっている。この状況に仲間である有馬はただ狼狽えるだけで、彼女たちの間へ割って入る事ができないでいた。
その時、乾いた破裂音が部屋のなかに大きく響いた――安曇野だ。我を忘れ激高する鹿島を戒めるために、彼女の頬を張ったのだった。
「多恵、ちょっと落ち着いて! みっともないわよ」
「みっともない……って? 売った喧嘩に負けたクセに、平気な顔して戻って来た奴を沙織は庇うのかよ?!」
苦しそうな表情で床に膝を付く岸谷を指差し、リーダーである安曇野にまで怒りの矛先を向けた鹿島。荒れ狂うその姿はまさに、彼女らの形容詞の如く
「《ベスティア》の誇りを持って、勝負を挑んだ者には結果は問いません。恥ずべきは挑戦する事すらせず《ベスティア》の名を騙る者――よ」
安曇野はそう言い放つと、項垂れる岸谷の元へ駆け寄り彼女を抱き起した。ふたりの姿にますます苛立ちが治まらない鹿島は、言葉だけでなく荒ぶる力を安曇野へ放たんとする。
彼女の薄手のワンピースへ乱暴に手を掛けた鹿島だったが、少しも慌てた素振りも見せず美獣の長は冷静に対処する。鹿島の手首を取ると腕を背中の方へ捻り曲げ、サンダルの硬い
「いっ、痛たたたたた! わかった謝る、謝るから沙織っ!!」
ギシギシと軋む肩の関節。恐怖と激痛に堪えかねた鹿島は情けなく悲鳴をあげた。
「多恵。貴女ができる事は私にだってできる――だけど私がする事は貴女には絶対できないの。わかった?」
安曇野の美貌から放たれる、身も凍る冷気のような
背中まで捻じ曲げていた鹿島の腕を、安曇野が離してやると彼女は青褪めた表情のまま、仲の良い有馬を伴って逃げるようにこの場から離れた。
安曇野と岸谷――ふたりきりになった部屋には平穏な空気が戻る。ワンピースの乱れを整えた安曇野は、足元に落ちていた岸谷のスマートフォンを拾い上げた。
「――いい顔してるじゃない」
液晶画面に映る、憎きバニーと向かい合う親友の画像に安曇野はぽつりと呟く。
「
「うん。殴り込みには失敗したけど――それだけの価値はあった。あのひとは強いよ、間違いなく強い。だけど同時に
「――なるほど」
「まぁ見てなって沙織。この試合で《プロレスラー》岸谷晶、此処に在り!って所を見せつけてやるから。休場前に会場のファンたちへの大盤振る舞いさ」
これまでプロレスに対する熱意とは逆に、その王子様然としたルックスや顔立ちから「本気で取り組んでいない」ように思われがちだった岸谷。その彼女が初めて自分からやる気になっているのを見て安曇野は、《ベッラ・ベスティア》の長でなく親友として純粋に応援してあげたくなったのだ。
「頑張って、晶」
跪く岸谷の身体を抱きしめて、額にやさしくキスをする安曇野――その姿はまるで戦場に赴く、愛しい王子を健気に送り出す姫君のように見えた。
一週間後――
今日も
団体の顔である、四匹のベスティアたちの人気の高さは勿論だが、謎のマスクウーマン・MAXバニーが初めて試合をするとあって、本大会に大きな注目が集まっていた。
前回の大会で突如現れ、挨拶代りに見せた彼女の身体能力の高さはファンたちの間でも話題になっていた。気合の入っているマニア連の中には、バニーの正体探しを始めるものまで現れるほどだ。
バニーと岸谷との試合は休憩明けの四試合目。安曇野ほか後のふたりはトリオを組み、メインエベントに出場するのでセコンドに付く事はなく、岸谷はひとりだけでリングに上がる事になる。
「岸谷さん、出番です!」
太平洋女子の若手が、ゲートとバックステージとを仕切っている緞帳を開けた。
疾走感のある入場曲が流れる中、純白のロングガウンを羽織った岸谷が女性ファンたちの黄色い歓声を受け、エレガントかつ威風堂々と花道を歩いていく。
続いて謎の兎仮面、MAXバニーが入場ゲートから姿を現した。
ボテ腹体型をした「おおきなおともだち」からの野太い声援が、一際小さな彼女に浴びせられる。まだひと試合もしていないのにこの支持率の高さは異常といえよう。先日のプロモーションビデオ上映+ベスティアたちとの番外戦の、反響の大きさが集客に現れた格好となった。
草原を跳ね回る野兎の如く、花道を疾走し現実と異界の境であるロープを軽々と越えリングインすると、岸谷同様に客席からイメージカラーであるピンクと黒の紙テープが投げられ、その軌道は夜空に駆ける流星のように見えた。
名前がある程度知れ渡っている岸谷と比べれば若干劣るが、初めての試合でこれだけ紙テープが舞えば人気面ではまずまず合格と言ってもいいだろう。
「こりゃ驚いた――岸谷さん、人気あるんだねぇ」
レフェリーからボディチェックを受けている僅かな間、バニーは岸谷に話しかけた。日本から離れていた期間、全く太平洋女子をはじめ女子プロレスの情報を耳に入れなかった彼女にとって、この会場の反応はまるで別次元に迷い込んだかのようだった。
「先輩だって、ロリータフェイスでメキシコ親父たちをブイブイ云わせてたんでしょ。おあいこですよ」
「ブイブイだなんてそんな――ちょっとだけだよぉ」
親指と人差し指で隙間を作って岸谷に見せるバニー。ふたりの間にギスギスとしたものは無く、束の間の穏やかな空気を楽しんでいるようだ。
急にマスクの下の、バニーの目の色が変わる。
「それじゃあ、岸谷さん。ここからは、どちらのおんなが優れているかを競う、真剣勝負の時間よ。目一杯楽しんで!」
握手を求め手を差し出すバニー。岸谷もこれに応え彼女の手をぐっと握り返した。
「はいっ! どちらが勝っても負けても恨みっこ無し、ですよ」
余裕か緊張か――バニーの口元からにやりと笑みが零れた。
その数秒後、試合開始を告げるゴングがひとつ――大きな音で打ち鳴らされた。
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