第3話 闘う雌兎、始動
都内某所にある高層オフィスビル――
多種多様な企業の本丸ともいえる
そしてHALの中枢というべき社長室には、既に夜中も十時を廻ったというのに、部下たちが提出した重要書類に目を通し、明日の仕事に備える
テレビ黎明期の頃にバンドマンとして、芸能界に足を踏み入れた彼は数枚のヒット曲を出した後、引退後にマネジャーへと転身。デビューしたてのタレントやアイドルたちを誰もが知っているトップスターへと育てるなど、《金の卵》を孵化させる才能を存分に発揮する。そして十五年ほど前、永年所属していた芸能事務所から独立しこの《自分の王国》を築いたのだった。
プリントアウトされた書類の細かい文字を読み続けたせいで、目が疲れた春田は銀フレームの眼鏡を外し、強く瞼を閉じると眉間を指で押さえる。
突然、仕事机に積まれた書類がふわりと、紙吹雪のように宙を舞った。どこか窓が開いていて入り込んできたのだろうか? 不審に感じながら春田はカーペット中に散らばった書類を拾い集める。
今度は部屋の明かりが消え視界が急に真っ暗となった。立て続けに起こる奇怪な現象に、春田はつい声を荒げる。
「おい、セキュリティーは何やってるんだ?――どうなってるんだ一体?!」
彼の怒声に反応したかのように、社長室の照明は元の輝きを取り戻す。だが机の上には今まで置いていなかった、A4サイズの写真四枚が並べられていた。
怪訝な面持ちで春田は、ポートレートの一枚を手に取る。そこには腰に手を置きモデル風のポーズをきめる、青いコスチュームの安曇野沙織が百点満点の笑顔で微笑んでいた。
「あずみ……の?」
「そう、貴方が神聖なリングに放った
背後から聞こえる女性の声に、その姿を拝まんと恐るおそる春田は振り返る。しかしそこには誰の姿形も無かった。
「こっちよ、社長さん」
再び声の方向へ身体を捩る。
そこには仕事机の上に足を組んで腰を掛け、春田の方を見て不敵に笑う、兎の仮面を着けた少女の姿が。
「誰だね、君は?」
「孤高の女戦士・
組んだ足をゆらゆらと揺らし、まるで年上の殿方を誘惑するような危うい可愛らしさが、アメリカのカートゥーン風コスチュームにとてもマッチしている。
「バニー……ふむ。それで用件は?」
春田が質問すると、バニーは尻に敷いていた美獣軍団たちのポートレート三枚を手に持ち、彼が既に持っている安曇野が写る写真を指差した。
「彼女たち《ベッラ・ベスティア》との対戦――これ以上の望みはないわ」
マンガチックは外見に似合わぬ、闘志剥き出しの瞳。並々ならぬ決意を感じる強い語気。バニーの本気を感じた春田は即座に首を縦に振った。
「よかろう……だが奴らも甘くはないぞ、覚悟は出来ているのか?」
「――当然よ」
部屋の中で対峙するバニーと春田。口許には薄らと笑みを浮かべて。
――――――――――
数秒間の沈黙の後、別の女性の声が社長室に響いた。それも先程までの重いトーンではなく弾むような明るい声だ。
「――はいOK! お疲れ様でした」
ふたりの姿を収めんとデジタルムービーカメラを廻す、キャメラマンの男性の陰から現れたのは三田優樹奈だった。
優樹奈の声と共に、がちがちに張り詰めていた部屋の空気も元の流れを取り戻し、撮影の緊張感から解放された春田とバニーの表情も柔らかになる。
実はこれまでのやり取りは全て、新鋭・MAXバニーを売り出すためのプロモーション映像の撮影だったのだ。この映像が各試合会場の大型ディスプレイに映し出され彼女の前景気を煽るのだ。
優樹奈は前日に、バニーこと郁美からPV製作の相談を受けるや、「親友の頼み事は断れない」と、早急に春田に電話を入れビデオ出演の了承を得て、動画撮影の経験のある知り合いを呼んだ。優樹奈自身も、この《MAXバニープロジェクト》というべき、郁美の計画を面白がっている節があった。安曇野たち四人の華やかさが支配する、現在の太平洋女子にプロレス本来の姿である《闘い》を、郁美=バニーがリングへ取り戻してくれるのではないか? と密かに彼女は期待しているのだ。
《金権政治》《札束で女子プロレスを買った男》などと、年期の入った女子プロレスファンから揶揄される春田にしても、自分の所のタレントが弱肉強食のリングにおいて、一線級で活躍している事は喜ばしい限りだが、身も心も本気でプロレスラーに成りきらなければ遅かれ早かれそっぽを向かれるに違いない、と思っている。
元々プロレスは好きな春田だが、決して皆が言うように「自分色に太平洋女子を染め上げ」ようなどとはこれっぽっちも思っていない。
今のベスティアたちが無双している現状は、前の社長がプロレス興行会社の要である、所属選手たちの待遇や扱いを蔑ろにしたため、モチベーションが低下し本来安曇野たちを引き上げてくれるはずだったスター選手や、ベテラン選手たちが大量離脱してしまった結果なのだ。
「えっ、じゃあわたしを帰国させたのは、オーナーだったんですか?!」
「そうだよ。
緊迫した芝居の時とはうって変わり、朗らかな表情で談笑する春田と郁美。
特に郁美は幼い頃より憧れていたヒーローに、アメコミ映画風のダークヒーロー調シチュエーションで演じられた喜びを隠せないでいた。それにオーナーである春田が意外にも「話のわかる人」だった事は、彼女にとって大きな収穫だった。
「これが会場で流れたら、安曇野たちはさぞ驚くだろうな。さっきも言ったが私は選手たちや団体のバックアップはするが、試合に関しては一切口を出さない。だから郁美くん――いやバニー、思う存分にリング上を飛び廻るがいい」
そういうと春田は、桃色のエナメル生地でできたマスクの上に掌を当てると、子供をあやすようにバニーの頬を優しく撫でた。生地越しから伝わってくる彼の温もりに、このマスクが顔を隠すだけでなく、もうひとつの皮膚のように感じた郁美は、何ともいえない不思議な気持ちになった
太平洋女子プロレス事務所にある会議室では、若手営業部員・大臥と《ベッラ・ベスティア》の四人で、スケジュール確認が行われていた。
普通ならば太平洋女子という会社に籍を置く《社員》である選手が、会社から次回開催される大会の予定を聞いても、余程の売れっ子選手でない限り、提示されたスケジュールに注文をつける事もなく、あっさりと終了するものだが彼女たちは違った。太平洋女子所属ではなく、《HALエンターテインメント》に所属するタレントである為、親会社の出すスケジュールが最優先されるのだ。
それ故に《興行の目玉》であるベスティアを、一人でも多く出場させたい太平洋女子は毎回、向こうが出すスケジュールとの摺り合わせや日程交渉に苦労させられていた。
「あっ、この日はダメ! 大事な舞台の稽古が入っているから」
大臥の持つタブレット端末で提示されたスケジュールを見るなり、《麗しのナルキッソス》岸谷は即座に手でバツを作って拒否をする。長いまつ毛に切れ長の瞳――その端麗な顔立ちは男性の大臥はもちろん、女性の観客たちをもはっとさせる美しさだ。彼女に人気があるのは身に染みて分かっているが、たまにはこちらの言う事も黙って聞いて欲しい、と思う大臥であった。
「晶さぁ、もうちょっと時間をやり繰りして出場できないかなぁ? 舞台っていっても所詮脇役でしょ」
大臥の弱りきった表情に、リーダーの安曇野も助け船を出した。
「脇役って……そんな。大好きな演出家さんの、出たくてたまらなかった舞台の仕事なんだよ!一生懸命に稽古して、いい舞台にしたいってのが役者として当然の事だろ?」
岸谷の言葉には、何としても夢を叶えたいという熱意があった。そんな本気の姿を見せられては、大臥は何も言えなくなってしまう。
「――わかったわ、好きにしなさい。その日は私が出場しますから。大臥クンいいかしら? その代わり月末のホール大会、全員出場するからね、わかった?」
安曇野の提案に岸谷は感激し、少年のように顔を紅潮させて喜んだ。これが美意識過剰軍団《ベッラ・ベスティア》を束ねるリーダーたる所以か、と大臥は感心するとともに畏怖もした――こんな有能な女性に敵うわけがない、と。
「でも沙織、あんた忙しすぎない?芸能の仕事もプロレスもバンバン入れちゃって。身体壊しちゃうよ、そのうち」
彼女たちの一部始終を見て、スナック菓子を頬張っていた《微笑みの重戦車》有馬が安曇野の身体を気遣った。だがそんな仲間の気遣いすらも彼女は拒まんとする。
「私はね、何事にも全力で取り組まないと気が済まない
ここに来るまでにも、別の芸能の仕事をこなしてきた安曇野。一体この細い身体の何処にバイタリティが隠されているのか? 徹底した彼女のプロ意識を前に、会社の一員、そして男性として何ひとつ勝てていない大臥は、すっかり圧倒され自信を失ってしまう。
――――?!
股の間を優しく包む冷たい感触に、鼻孔に拡がる
「あ、安曇野さん……これは?」
信じられない彼女の行動に、大臥は戸惑いうまく舌が回らない。
「大臥クン、貴方は本当によく働いてくれてるわ。だから――もっと自信をもっていいのよ? 実際大臥クンがいなかったら、もっと滅茶苦茶になってたでしょうね、
うっとりとした表情で、男性の大事な部分を優しく丁寧に弄る安曇野。ちゃんと自分の手首を大臥に握らせセクハラ対策もバッチリだ。それを離れた場所で見ている仲間たちは、美女の前で間抜け面を晒している被害者大臥を笑い、囃し立てるのだった。
だんだんと股間に血流が集まり硬直していく。このご褒美かお仕置きなのかよくわからない行動に、彼の呼吸も荒くなり顔も火照ってきた。理性の爆発まであとわずかだ。しかしそれを見透かした安曇野は、大事故一歩手前で急に手を止めた。
安堵と無念さが入り混じる複雑な表情の大臥。それとは対照的にストレスを解消し満面の笑みを見せる安曇野は、お預けを喰らい力無く立っている大臥に人差し指で投げキッスをすると、有馬・岸谷を引き連れ用事の済んだ会議室から出ていった。
「それじゃあね。続きはまた次の機会に、ね? 大臥クン」
美獣軍団という嵐が去り、いつもの静けさを取り戻した会議室――安曇野の悪戯で乱れた衣服を整えひと呼吸する大臥。此処にベスティアたちが来てからというもの、社内でいちばん年齢が若い事もあってか、彼女たちと仕事で会う度に
まだ部屋の中には、安曇野が付けていた香水の匂いが残っていた。空気中を漂う香りが鼻孔に吸い込まれると、それまでのエッチな悪戯の記憶が瞬時に蘇り、治まりかけていた自分の分身も勢いを取り戻し、スラックスの生地を突き破らんばかりに跳ね上がるのであった。
「本当にありがとう、三田さん! プロモーション映像撮影を手伝ってくれて」
林のように大小のビルが軒を連ねる、繁華街の一角にある全国チェーンのファミリーレストラン――郁美は前日深夜に強行撮影した、もうひとつの顔であるMAXバニーの映像を監督してくれた、スポーツライター・三田優樹奈に感謝すべく
「何言ってるの。こんな面白い遊びに誘ってくれたんだもん、こっちが頭を下げたいくらいよ」
以前から女子レスラーの《プロデュース》には興味のあった三田。リング上で闘う選手たちを見ては、選手に見合ったキャラクター作りや抗争のストーリーなど、いろいろな妄想を勝手に巡らせていた。フィジカルやレスリング技術といったハードウェアでなく、選手をより輝かせるソフトウェアの面では日本はかなり後れを取っている。
潜在的にカリスマを内包している選手ならば、無理に手を入れる必要はがないが、そうではない、技はピカイチだが見た目がイマイチな選手は、外見をいじったりキャラクター付けをしたりして、観客がお金を払うに相応しい選手に変貌させなければならない。アメリカのレスリングシーンではごく当たり前に行っているこの作業、格闘技寄りの見方をしてきた日本では、長い間「不必要なもの」と考えられていた節があった。
郁美も約二年間のメキシコ修行で、オリジナルの成瀬郁美とは微妙に異なる《ラ・ボニータ》イクミ・ナルセという別人物として、眼前の敵とも不特定多数の観客とも勝負してきた。日本では考えなれないが、彼の国では観客に飽きられる事はすなわち、プロレスで飯が食えなくなる事でもあった。だから日々練習し研究して何をすればよくて駄目なのかを考え続け、結果一度も喰いっぱぐれる事なく、メキシコでの修行期間を完走できたのだ。
「それにしてもあのオーナー、意外にノリノリだったじゃない? わたしもっと固い人だと思ってビックリしちゃった」
テーブルの上の料理に手を付けながら、郁美は撮影に協力してくれた春田オーナーの事を話し出す。
「郁美はメヒコにいたから知らないだろうけど、いい意味でおちゃらけていて面白いわよ。さすが大手芸能事務所のトップ! って感じで。あの人がいなかったら確実に潰れていたわよ、太平洋女子も」
そうなのだ――プロレスラー・成瀬郁美の生まれ故郷である、この団体を残していてくれた事には感謝してもし足りない郁美だが、唯一、女子プロレスの外来種というべき《
「当初はきちんと出来るベテランや中堅選手を、彼女たちに当ててプロレスラーとして育てていく計画だったのよ。だけどそのうち一人、また一人と団体を離脱していき――今のような、人気を
優樹奈の解説で、日本を離れていた空白期間の
「何? 顔に何か付いている?」
こっちを見てにやにやと笑う優樹奈に、気になって仕方がない郁美は理由を尋ねてみた。
「いや、ね。何だかんだ言ってもあの娘たちの事を無下にせず、きちんと向かい合っているのが偉いなぁ、と思って」
「嫌だからって無視するのは簡単。だけどね、帰国早々で油断してたとはいえ、観客の前で恥をかかされちゃ女が廃るってなもんよ!絶対倍返ししてやるんだから」
あまりにも熱が入り過ぎてしまった郁美は、思わず拳でテーブルを叩いてしまい周りのテーブルで食事をする客を驚かせてしまう。恥ずかしさで身を縮ませ、恐縮する彼女の姿に優樹奈はまた大笑いだ。
「あーおかしい。でもこのバニー対美獣軍団の抗争劇で、しばらくは太平洋女子も
姉貴分からの励ましの言葉に、郁美は顔を喜びで綻ばせ、親指を立ててこれに応じるのだった。
プロモーション映像は、早速翌週の試合会場で流された。
カートゥーンから飛び出したような格好をした、キュートなウサギ仮面の姿を会場のディスプレイで観た多くの観客は、まだ実際に試合をしていないバニーの虜となってしまい、メイン終了後も美獣軍団がリングを占拠しているにも拘わらず、すっかり放置された格好となったのだった。
安曇野はこの状況を好ましく思わないでいた。
観客は自分たちだけ観ていればいいのに、
美獣軍団の一員である、栗色の髪をした小兵選手・鹿島はこのままではまずいと、マイクを取り物言わぬディスプレイに向かって罵った。
「バニーだか何だか知らないけど、所詮はイロモノ。主役にはなれない憐れなウサギさんよ。このリングの
当然、ブラックアウトしたままのディスプレイからは何の返答もない。鹿島はマイクをリングに叩き付け悔しがった。
ぱっ!
突然会場の照明が落ちた。リングも客席も全て闇に包まれ、観客たちはアクシデントか?とざわめき立つ。重苦しい暗闇の状態が数秒間続く中、皆の苛立ちや不安が最高潮に達したその時、館内スピーカーから耳慣れない音楽が大音量で流れた。そしてディスプレイには――黒い背景に、兎を簡略化した桃色のロゴマークが浮かび上がる。
再び照明が会場を照らし始める。視界も良好となり、あらゆる物が目に映るようになると、それまで何もなかった入場ゲートのフロアには、黒のジャンパーを着た桃色の小さなウサギ仮面の姿が現れた――テレビで見るような、スーパーヒーロー然とした決めポーズをとって。
MAXバニーの登場だ。初めて目の当たりにする彼女の容姿に、観客たちは歓喜の声を上げた。
「ふん、みんな姿かたちにダマされちゃって。どうせどこの馬の骨かわからない三流選手がマスク被っただけでしょ。どうかしてるわよ」
鹿島が観客に向かってぼやくと、巨漢の有馬とボーイッシュな岸谷は思わず失笑した。だがコーナーポストの上に座っている安曇野だけは、感情を見せる事なく、ただ事の成り行きを傍観していた。
「三流かどうか――一度あなたの身体で試してみる?」
売り言葉に買い言葉、バニーも鹿島の発言に応戦する。
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