第2話 帰国、恥辱――そして変身

 自分に残っているありったけの力を振り絞って、郁美は身体を右に捻り間一髪のところで落下ポイントから逃げ出した。標的を失ったカラベラの身体は、この国特有の硬いリングへ叩き付けられ激痛に身を捩った。

 さぁ、成瀬郁美の反撃開始だ。

 観客の掛け声に合わせてショートレンジの肘打ちを、虚ろな目をした女骸骨仮面に右へ左へとリズミカルに叩き込んでいく。郁美の圧力に手も足も出ないカラベラの身体が徐々に後退していった。

 彼女の背中がロープに触れた。レフェリーはロープブレークと判断しふたりを分けようとするが、が攻撃半ばで止められるのを嫌った郁美は、すぐさまカラベラの頭を両手で掴むと首投げフライング・メイヤーでリング中央まで戻し再び攻撃を続ける。

 郁美が素早く相手の背後へ回り腰へ両腕を巻き付けた。日本ではポピュラーだがメキシコではかなり珍しい原爆固めジャーマン・スープレックスを仕掛ける気だ。これが決まれば硬いリングが武器となり大ダメージを受ける事必至である。だが過去に、この技を喰らった苦い記憶のあるカラベラは、必死になって藻掻きこれを阻止しようとした。


 ――――っ!?


 突然郁美は顔をしかめ、切り札であるジャーマンを中断した。何があったのか?

 実は嫌がるカラベラが彼女の向う脛を蹴ったのだ。これで脚から力の抜けた郁美は技を解きその場にうずくまる。やはりインサイドワークではカラベラの方が、一枚も二枚も上手だった。

 奇声をあげてロープへ走った女骸骨は、動きの止まった郁美に対しクローズラインを放つ。ダメージを受け厳しい表情の郁美だったが、目はまだ死んじゃいない。付け入る隙を見つけんとカラベラの動きを注視していた。

 再び彼女は走り出した。ダメージを負い棒立ち状態の郁美に対し、今度は全体重を浴びせんばかりの、強烈な一撃を狙って駆けてくる。

 そうはさせるか!と、逆に郁美もカラベラに向かって走っていく。このままふたりの身体はリング中央で激突し、ダブルノックダウンとなってしまうのか?

 否!《可愛い子ちゃんラ・ボニータ》は唸りをあげてスウィングするカラベラの腕を掻い潜り、素早く後ろへまわると背中を付け合わせた状態で両腕を取り、腰を落としてそのまま彼女の身体をキャンバスへと滑らせた――逆転技でよく多用される逆さ押さえ込みバックスライドだ。

 カラベラの肩がマットに密着すると同時にフォールカウントが始まり、彼女は慌てて肩を上げようと背筋力や腹筋など、様々な筋力を駆使しこれを逃れようとするが、絶対に阻止したい郁美は押え込みの体勢から、カラベラの身体に被さるようにブリッジして完全に密封パッケージした。自分の身体を動かす事はもちろんの事、首が詰まってしまい呼吸もままならない女骸骨は、おとなしくスリーカウントを聞く他は無かった。

 プエスタ・デ・ソル日没――これが郁美の出した技の名前だ。

 リングを大地とし、太陽が半円を描いて地平線へと消えていく様を表現した、このメキシコで編み出した技である。決勝の三本目を彼女が取った事で、正統派チームの勝利がこれで確定した。

 郁美の勝利を祝おうと、場外で悪党ペアを取り押さえていた仲間ふたりが、リングへ駆け上がり祝福の抱擁を交わす。この国での最後の試合を終えた郁美はすっかり感傷的になってしまい、仲間たちがどんなにからかっても涙が止まらない。

「イクミ、大丈夫ダイジョウブ。メキシコまでは飛行機であっという間だよ、また来ればいい」

 ナイスプロポーションな、金髪美女ルチャドーラから子供みたいに頭を撫でられる郁美。

「ぐすん――15時間以上掛かりますけどね。でもまた来ます!」

 共に闘った仲間たちに担がれて、応援してくれた観客のためリングを一周する彼女の晴れ姿を見届けた優樹奈は、興奮が覚めやらぬ内に記事が書きたくなって、急いでリングサイドから離れホテルへと戻っていった。


 まだ人気選手エストレージャたちの試合が後に控えているというのに、アレナ・メヒコの中では歓声と鳴り物によるお祭り騒ぎが、一向に止む気配がなかった――



 それから72時間後――

 郁美は日本の空港のロビーにいた。約二年ぶりに戻ってきた郁美には、勝手に耳にはいる日本語の会話やフードコートで食べた蕎麦の香りなど、体験する全ての事が懐かしく今自分が日本に居るんだ、という事を実感した。

 紺のスーツを着た眼鏡の男性が、郁実に向かい手を振っている。最初はきっとに振っているのだろう、と彼女は思っていたがどうも違う。男性が徐々に近付いてきて、顔立ちもハッキリと見えるようになった時、彼の正体がやっとわかった。

 太平洋女子プロレスの営業部員である紀平大臥きひらたいがだ。

 成瀬郁美が最後に彼の顔を見たのが、海外メキシコ武者修行の為日本を出国する直前の約二年前――まだ太平洋女子このかいしゃに入りたての新入社員だった。

「大臥クンじゃない! 随分見ないうちに男前になったんじゃない。どう、忙しい?」

「お久しぶり――そしてお帰りなさい、郁美先輩」

 自分の細い腕を感情に任せて、ぱんぱんと叩き嬉しそうにしている郁美をみていると、「痛い」とは言えずに激痛を殺して笑顔で応えるしかない大臥であった。

「――早速会場に連れてってよ。ネットの噂では聞いてるけど今、ウチの団体が大変なんだって?」

 間近でみる真剣な表情の郁美にドキッとしつつ、大臥は彼女の両手いっぱいある手荷物を受けとると、白い営業車が停めてある、外の駐車場まで誘導する。

「あまりの変貌ぶりに驚くと思いますよ」

 大臥はそう言うだけで精一杯だった。


 な ん だ こ れ は ?――

 太平洋女子の試合が行われている会場の、バックステージからリングを眺める郁美の口から、思わず驚きとも失望とも取れる言葉を発してしまう。

 目が覚めるような色彩のリングコスチュームを着けた、決してとは云えない体付きをした女子レスラーたちが、闘いの感情が感じられないだけの技を掛け合いながら、一進一退の勝負を演じているのだ。

 郁美だって選手たちの、入場時の歌やダンスにケチを付けている訳ではない。元来女子プロレスは芸能と最も近い所にある競技ではあるが、ここまで方向に全振りした試合に対し、彼女は拒否感を示すのだった。

「こんなの――じゃないよ! わたしが厳しい練習や試合で痛い目をみて、何とか形にしてきたプロレスとはまるで違う。何なのよ、彼女たちは?!」

 リングの方を指差し怒鳴る郁美に、苦々しい表情で事の経緯を大臥は説明し始めた。

「ベッラ・ベスティア――イタリア語で《美しき野獣》――あそこにいる彼女たち四人のユニットの名前です。実はウチの会社が経営難に陥った時、手をさしのべてくれたのが彼女たちが所属する大手芸能事務所で、元々スポーツ系にまで事業の幅を広げたかった向こうの社長が、伸び悩んでいた若手タレントの彼女たちを、プロレスラーとしてデビューさせたんです」

 彼女たち四人が、入場時にみせた芸事の上手さはこれで理解できた。だが皆――太平洋女子所属の選手たちは、《ベッラ・ベスティア》の存在に納得しているのか?

「うーん、半々ですかね。郁美さん世代やその上の選手たちは当然、拒否感を示しました。ただ若手選手は割と受け入れていて問題なくやってるようです。それに――」

「それに?」

「太平洋女子の筆頭株主となった、向こうの芸能事務所の意向で、マッチメイクされる選手の顔ぶれがになってしまっていて、《縁の下の力持ち》だったベテラン・中堅選手たちが怒ってしまい、今現在リング内外はガタガタなんです――って聞いてます?」

 怒り心頭の郁美は、まだ大臥が説明している途中にもかかわらず、気が付けばバックステージを飛び出しリングサイドまで来ていた。演出ではない、本気ガチの乱入に郁美の顔を知る、セコンド業務をしていた後輩選手たちは慌ててリング内への侵入を阻止せんとする。

 リングの外が変に騒がしいのに気付いた、《ベッラ・ベスティア》の四人は闘うのを止め、このに対しマイクで厳重注意をした。

「ちょっとちょっと! 人が試合してるのに何騒いでいるのよ? お客さんの迷惑じゃない!」

 ボンデージ風の真っ青なコスチュームが凛凛しい、ベスティアのリーダー格である安曇野あずみの沙織さおりが叫ぶと、リングサイドを陣取っている彼女のファンたちからは野太い声援が飛ぶ。

 薄暗い会場内にぱっ! と郁美にピンライトが当てられその顔が明らかになるや、彼女の正体に気が付いた四人は、一瞬驚いた表情をみせたがあくまでも強気に、先輩である郁美を馬鹿にするかのように冷笑を浮かべた。

「あら、誰かと思えば郁美センパイじゃないですか~? はじめまして、私が現在太平洋女子ここを仕切っている安曇野です。以後お見知りおきを」

 日本人離れしたクールな顔立ちにサディスティックな態度。それが滑稽にならずちゃんと様になっているのが安曇野沙織の《スター》たる所以だ。

 続いて他のメンバーが自己紹介を始めた。


 可愛らしい顔に似合わぬ、170センチ近くある巨体が武器の有馬玲佳ありまれいか

 金色のショートヘアが少女歌劇の男役を思わせ、女性ファンから絶大な支持を受ける岸谷きしたにあきら

 前出の三人と比べ身長は一番低いが、持ち前の元気と関節技を武器にそれを補う鹿島かしま多恵たえ


 それぞれが異なる魅力・個性を持つベスティアのメンバーたち。それを束ねているのがこの安曇野というわけだ。

 自分がいない間に愛する太平洋女子のマットを、プロレスとは関係ない外部の人間によって蹂躙された怒りで、冷静さを失った郁美はリングに上がり安曇野に向かい飛びかかっていった。

 台本ブックには無い、完全なアクシデント――だが当の安曇野は少しも慌てる事なく指をぱちんと鳴らすと、まずは岸谷が郁美のボディへ目にも止まらぬ速さで、ミドルキックを撃ち込み彼女の動きを止めた。続いて鹿島が素早く背後を取り腕を首筋にまわし、膝を背中に当てて郁美を後ろへ引き倒すと、背骨砕きバッククラッカープラス裸締めスリーパーホールドの複合技を極める。ふたりのコンビネーションの速さに着いていけなかった郁美は、無残にも鹿島の腕の中で眠るように意識を失ってしまう。

「残念でしたわね、せっかく帰って来たというのに居場所が無くて。だけど安心して――わたしたち《ベッラ・ベスティア》が、今まで以上にこの団体を盛り上げていきますから」

 聞いていようがいまいが関係なく、安曇野は全く動かなくなった郁美を侮辱する。

 巨漢の有馬が安曇野の指示を受け、軽量の彼女を太ましい両腕でリフトアップした。高々と持ち上げられた郁美を有馬は、とばかりに四方の観客たちに無様な姿を披露する。歓喜や怒り、そして絶望――様々な感情がリングサイド席でみられる中、制裁の儀式は粛々と進められ最後に有馬が、そのまま郁美の身体をリングの外へ放り投げた。

 ごみのように扱われ、試合会場の硬い床に激しく叩き付けられた郁美は、悔しさで止めどなく流れる涙を観客たちに隠すことなく晒し、慌てて助けに入った大臥に抱えられ悪夢のような試合会場を後にした。


 邪魔者を排除しハイタッチで祝う鹿島ら三人をよそに、なぜか安曇野ひとりだけは、郁美が消えた通路の方角を睨んだまま厳しい表情を崩さない。社員に抱えられ会場を去る直前――一瞬だけだが、自分を睨む郁美の背後に《鬼》の姿を見たからだ。



 大臥が運転する車の中、郁美はずっと泣いていた。

 

 相手に馬鹿にされたのが悔しいのではなく、自分が勝手に売りつけた喧嘩に負けたのが悔しかったのだ。それもリングコスチュームではなく普段着のままで。

 時代の流れ、新陳代謝、世代交代。を表わす言葉が幾つもあたまを掠めるが、郁美は絶対に納得したくなかった――日本に帰ってきたばかりで何もこのリングで修行の成果を出していないから。

 しかし癪に障るが、彼女たち《ベッラ・ベスティア》の存在をわけにはいかない。意固地になってあの娘たちの存在を無視し続ける事はすなわち、自分がだと認めているようなものだからだ。メキシコ武者修行前にいた先輩たちの多くは、この《突然変異体ミュータント》の存在を受け入れる事を拒否し続け、挙句の果てに団体を去っていったのだと理解した。

 彼女たちのやっている事はまだプロレスではなく、だと今でも堂々といえるが、個々の能力は絶対に自分の若手ペーペーだった頃よりも上だ。実際にこの身で体験しているだけに説得力はある。

 だが、今日リング上で騒ぎを起こしてしまったが為に、今後団体所属のプロレスラーとして、《ベッラ・ベスティア》の連中に借りを返せるかは分からない。彼女らのバックに大株主えらいひとが付いているので、普通の試合すら組まれないかもしれないのだ。


 何のためにわたしは帰ってきたの?――

 

 自分のが分からなくなって、不安に駆られた郁美はまた泣き出した。



 繁華街を少し離れた場所にある、小綺麗なビジネスホテル――日本に帰ってきたばかりでまだ、住む場所を確保していない郁美はこれからアパート等の物件探しとなるが、しばらくは団体が用意したこの安ホテルが生活拠点となる。

「じゃあ、今後の予定は決まり次第携帯の方へ連絡しますから――どうか気を落とさないでください、郁美先輩」

 車を降りる際に大臥から励まされた郁美だったが、あまり効果は期待できそうにない。沈んだ気持ちのまま彼女はキャリーバッグを引いてフロントへと向かう。帳簿に名前を記入しチェックインを終えると、鍵を手に自分の部屋へ向かおうとした時、突然フロントマンから声を掛けられる。

「お客様、会社の方からお荷物が届いております」

 そういうと初老のホテルマンが、奥の棚から大きな段ボール箱を取り出し郁美に手渡した。ずしっとした手応えがあるが思ったよりも重くはない。中身は衣服か何かのようだ。

 凱旋試合用の新しいコスチュームかな? と、中身を想像しながらバッグと段ボール箱を手に、途中エレベーター搭乗に苦労しながらも部屋へと辿り着く。肉体的な疲労と気疲れで困憊気味の郁美は、部屋へ入るや室内照明も付けず、そのままベッドへ仰向けになり、全身を包む眠気に誘われるがまま深い深い闇へと落ちていった。

 メキシコから帰国して早々団体内のに巻き込まれ――というか、散々な目に遭ってしまった郁美。頭の中で情報整理が追い付かず爆発寸前だった彼女は、心の防衛システムが作動し眠る事で落ち着きを取り戻そうとしたようだ。


 ――――――――

 

 三時間後に目が覚めた郁美。

 目を腫らす程いっぱい泣いて熟睡して、どうにか冷静さを取り戻す事ができた。だが深夜帯に起きてしまったので部屋の中は真っ暗、彼女は暗がりの中で戸惑いながら照明のスイッチを探し部屋の照明を灯した。

 柔らかい青白色のLED照明に照らされる、棚に置かれた横長の液晶テレビに小さな冷蔵庫。更にユニットバスも完備されていて必要最低限の設備が整った仮の住居。メキシコ時代に住んでいた下宿と比べればずっと衛生環境もよく都会的に思えた。

 ぽつんと床に放置されている、段ボール箱に郁美の視線が留まる。

「会社からのお届け物――と言ってたけど、いったい何だったんだろう?」

 荷物をベッドの上に置き、まじまじと箱を眺める。当たり前だが特に変わった様子はない。宅配業者のシール式伝票を丁寧に剥がすと、下からアルファベット文字で記載された国際郵便の伝票が現れた。送り先は――メキシコシティからだった。太平洋女子かいしゃは郁美宛てに届いた荷物をそのまま送っただけで、中身には何も関係していないという事らしい。

 ガチガチに貼られたガムテープを苦労して剥がし、いよいよ謎の荷物が開封された。箱の中には紙製の衣装ケースとメッセージカードが入っていた。

 郁美はカードを手に取り、スペイン語で書かれたメッセージを読んだ。


《イクミ、オーダーしていた品物が出来たのでそちらへ送ります。どうしても助けが必要になった時これを着けるといい。きっとアステカの神が力を貸してくれると思うから――親愛なるアポカリプシス》


 メキシコの友人からの心強いメッセージ――たぶん帰る数日前に送ったのだろう――に、郁美は感激し再び瞳から涙が溢れ出そうになるが、我慢、我慢と言い聞かせぐっと堪えた。今はまだ泣く時じゃない。復讐を遂行できるその日までは涙を流さないと決めたのだ。

 ふぅーっと深呼吸をし、郁美は衣装ケースの蓋を開ける。

 箱の中にはピンク色のエナメル素材で作成された、彼女の大好きなウサギをモチーフにした覆面が数枚、それと付属するようにコーディネートされたセパレート型のリングコスチュームやレガース、リストカバーなどが入っていた。

 さっそく郁美は下着一枚になり、洗面台にある鏡の前で覆面や衣装などを実際に身体に装着してみる――友人アポカリプシスが、馴染のマスク工房へ試合用マスクを頼みに行く際に連れて行ってもらい、実際に寸法を測り作成された世界にただひとつの、郁美にしか着られない特注のコスチュームだ。


 もうワクワクが止まんないよ!――


 ウサギマスクの秘められた力なのか、コスチュームをフル装備し気分が高揚してきた郁美は自然と腕や脚が空を切り、いろいろなポーズをとっては悦に浸っていた。鍵を閉め切った部屋――絶対にからこそできる行為だ。最後に締めとばかりにその場でトンボを切り着地を決めると、幸福感が身体の隅々にまで行き渡り何とも言えない気分に包まれた。


 よし、今日から成瀬郁美は新しく生まれ変わり、この兎仮面……そうだ、孤高の女戦士《MAXマックスバニー》となってあの美獣軍団ベッラ・ベスティアと闘うんだ。超燃えるシチュエーションじゃん、これって!――


 兎の覆面を外し、鏡に映る汗まみれの自分の顔を見つめる郁美。しばらくはこの顔ともおさらばだ――そう思うと、幼い頃から憧れてきたヒーローになれた喜びで、全身の血は滾り拳に力が入るのであった。

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