カケルはアイ

「いい意味で、いい意味で明日が来なければいいのに」

 と、悪い意味の明日しか想像できない僕は言った。


「そうかなぁ、ウチは今日なんて退屈な日が一日も早く過ぎ去ってしまえばいいのに、なんて思うのだけれど」

 退屈そうに教室の窓の外に広がる夕暮れ時を眺めるMは言葉を返した。

 その台詞は『一見』すると、否『一聞』すると僕とは全くの正反対の意見の様でいて其の実、脳内で彼女の台詞を何度なぞってみても、その内容のどこにも『明日』が全く含まれていないという点においては僕の意見と同じなのではないだろうか。

「それって、僕が言った事とほとんど大差ないと思うんだけどなぁ」

「個人的な尺度でA君とウチをまるで近似値みたいに一括りにするのは、控えて頂戴」

「ごめん」

 オレンジ色の光は、窓のふちを超える事が出来ずに、この部屋全体が大きな影の中だった。

そのせいで、Mの色素の薄い髪が何の色艶いろつやもなくそこにポツンと存在感だけを示している。


「でもさ、今日も退屈で昨日も退屈で、そしたら明日も退屈だって思う訳じゃん。それって結局は僕の意見の前倒しみたいなもんだと思うんだけど」

「不誠実なA君はそう思うのかも知れないけれど,私みたいな誠実な人間はそうじゃないの。何度も言うようだけれど本当に気分が悪くなるから一緒にするのは、控えて頂戴」

 僕の目の前にある数学の教科書はテスト範囲の最初のページを開いてから一時間ほど経っていた。

 テスト前の最後の金曜日も僕は教室で居残り自習をしていた。

Mと僕は普段はあまり話す方ではなかったが、ここ一週間の間は毎日この時間を共にしていた。

 僕は得意科目の数学を、Mは得意科目の英語の教科書を開いては一番遅くに出るバスの時間まで教室の自分の席で時間を潰していた。

 月曜日には少し気まずい雰囲気もあったが、互いに図書室に行く気はなく、家では教科書も開かないような性格なので気付けば金曜日になっていた。今では僕の方から会話を持ちかけられるほどに打ち解けていると感じていた。


「本当に誠実な人は、人と話をする時には相手の眼を見て話すものだって事くらいは、不誠実な僕にでも分かる事なんだけれど」

「確かに。でもこれは会話じゃなくて、ただA君の独り言に付き合って上げているだけだもの。言うならばウチの優しさね。それ以上の要求となると何かしらの対価を要求することになるわ」

 数秒前まで僕は会話をしていると思っていたが、どうやら会話では無かったようだ。

確かにMは僕が話し始めてから今の今まで常に頬杖をついたままで中庭を眺めているばかりだった。

 もしかすると窓の外には思わず目も心も釘付けになってしまう様な何か、があるのかもしれないと思っていたのだが、僕の席からでは中庭の様子は知れない。

でも何となく、窓の外は彼女の嫌いな退屈で満ち満ちていることは容易に想像できた。

そんな退屈を相手にしても、僕の存在は見向きもされない程度のものなのだとしたら、とても悲しい一週間だった。


「対価。現金とか?」

「本当にA君は不誠実の擬人化の様な人ね」

 確かに僕は不誠実な人間かもしれなかった。

 そして、いくらその事を悔やんだところで、僕の中にある『対価=お金』の図式が変わることは無かった。

 なので、ある意味では誠実なのかもしれないと、都合の良い解釈にたどり着いたところで、急いで思考を切り替えることにした。

「そもそも、いい意味で明日が来ないなんてありえないと思うのだけれど。具体例を聞かせてくれる?」

「そんなのは僕にだって想像もつかないけれど」

「でしょうね。明日が来ないなんて、バッドエンド以外の何ものでもないもの。そうでしょう?」

 僕が言いだした事なのに、Mの質問に対する答えを何一つ持ち合わせてはいなかった。二つ目の質問に至っては、問いかけではなく否定の意味を持つ言葉だった。

 Mと僕の間には共通の友人がいないので、話す時はいつも二人きりだった。

 そのせいか、いつもどこか見透かされたような気分になってしまう。ただ不思議なことに、そう感じることに対して、全くの不快感は無かった。


「もしも、本当にA君が言う様に明日が来ないとして、幸や不幸に関係なく今日を生きていた人達はどうなるの?」

「さぁ。みんな消えてなくなっちゃうんじゃない」

「はぁ。A君みたいに生きる意味も価値も意義も持たない様な人はそれでもいいかもしれないけれど、朝の電車が毎日のように混んでいるのを見ると、A君は少数派みたいね」

 何だか散々な言われようだ。もしかすると僕は、見透かされているのではなく、ただ単に見下されているだけなのかもしれなかった。

 そうなのだとすると、その事を見透かされていると感じてしまった僕は、何だかとても惨めな奴みたいじゃないか。


「どんなに恨まれるような人でも、その人がいなくなったら悲しむ人がいるもんでさ。だったら、一斉に消えて無くなっちゃった方が案外みんなハッピーだと思うんだけど」

「A君の今言った事が本当にハッピーなのだとして、誰もいないんじゃその幸せを噛み締める人もいないじゃない」

 自分のフォローをするような事を言ってしまったと思ったが,その事には一切触れられず、世間一般の幸福論の様な事を言われてしまった。

 今日の僕は、何だか心の中で独り相撲を取りがちである。

「幸せになりたい、ただし生死は問わない。みたいな?」

「何その不毛なデッド・オア・アライブは、行き過ぎた現代っ子みたいな思想ね」

 上手いことを言おうと思ったが、上手い返しをされてしまった。しかし今のは流石に会話をしていると言っても過言ではないだろう。

 いや、待てよ。ここまで言葉を交わしているのに、過言もクソもあるか。

 あれ、過言の対義語ってなんだろう?


「度を越えないまでも現代っ子ですから、自分」

「ふふ、実際のところ明日に怯えている人ってのは、本当の意味で明日を見据えている人のことを言うのかもしれないわね」

「別におびえてないもん」

「A君の事じゃないから安心して」

 不意に聞こえた微笑みの声からは、おおよその感情を図ることもできなかった。

 そして、僕は明日を考えた上で、逃避していると思っていたがどうやら違ったらしい。

 否、自分がそう思っていたのならそうなのではないだろうか。思わず自分が他人に否定されたことを肯定して結果的に過程を入れ替えてしまう所だった、危ない。

「A君は明日に怯えているんじゃなくて、逃げてるだけ。全然違うわ、全然」

「そうかもだけど、逃げたくなるのってソレが怖いからじゃないの?」

「そうね。案外、A君以外の私も含めた現代っ子は明日の事なんてこれっぽっちも考えちゃいないもの」

 果敢かかんにも言葉で立ち向かったが、あっさりと肯定されてしまった。独り相撲と言うよりは、Mが僕の言葉をのらりくらりとかわしている様だった、危うい。


「T先生と四組のYちゃん」

「それがどうかしたの?」

 Mはぷつんと何かイトでも切れたかの様に言った。

 僕はその急激な温度の変化に瞬時に反応することが出来なかった。

「今そこで、接吻せっぷんをしてたわ」

「そこって、中庭?」

「A君がくだらない事を言ってる間にどこかに行ってしまったけれども」

 あまりに突然な話だったので思わず、Mがキスのことを接吻と言った事を隅に置いてしまった。

 それにしても、くだらない事と言うのはどれの事を指しているのか?

 もしかすると、『独り相撲取りがち』の部分だろうか?

 いや、心の中で思ったのみで、声にはしていないはずだ。

 だとすると、『不毛なデッド・オア・アライブ』の方か?

 いや、これは、Mが言った事だった。

 だとすると、僕には皆目見当もつかなかった。

「T先生ね、感心するよ。Yの奴よく好きになれるなぁ」

「そうでもないと思うけれど。恋は相手を選ばないものよ」

 僕がたった今、感心すると言ったのはT先生の様な年の離れた人を好きになる事についてなのだけれど。

 Mが言った言葉は果たして、T先生を異性として見ているという事なのかそれともただ、歳の差の許容範囲内だと言う事なのだろうか。

「A君は恋の対義語って何だと思う」

「知らん」

 そんな事を考えてしまっている僕は、いつの間にかMを異性として見てしまっているのかもしれないと思った。

 だけど僕は心の中で、そんなどうでもいい事を急な話題転換にほだされただけだとくだらない理由で否定した。

「ウチは、愛だと思うんだ」

「恋は相手を選ぶ、愛は相手を選ばない。みたいな?何だかまるで数学Aみたいだな」

「ふふ、それだと恋も愛も変わらないじゃん」

 今度は上手いことを言えた様な、ただ水を差しているだけの様な、無意識の拒絶からくる逃避的な言葉もMは笑って否定した。


 しばらく沈黙が続いた。

 もうすっかり日が沈んでしまって、中庭の向こう側の校舎に夕日が沈んで隠れてしまった。教室の中は暗く、目の前の教科書の文字はすっかり闇に沈んで全く見えない。それでも二人はただバスの時間を待つのみだった。

 僕の頭の中では、次の話題を探すので思考が持ち切りになっていた。

 黒板の上の白く光る文字盤を見る。

 最後のバスまではまだ一時間はあるだろうか。

 次のバスなら十分後には出るだろう。しかし、ここでいきなり僕が帰ってしまうと、土日を挟んだ月曜日に何だか顔を合わせるのが気まずくなってしまう様な気がする。

 Mはこの異様な雰囲気が平気なのだろうか?そう思った僕は、ふと視線をMへと移した。

 するとMはこちらを全く意識せずに、「んっ」と背もたれから背中を浮かせて軽く伸びをした。

 そして、そのまま僕の方を見た。

 不意に目を合わせてしまった僕からは、何の言葉も出なかった。

 それを見て君はまた笑って




「愛はもとめないんだよ」

 

 そう言って、席を立ってしまった。

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褪せぬ、馳せない。 [鶴鍵 奇譚] [猪目 五月] @eNDRabo123

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