第6話 雨の来訪者

 この日は早朝から曇り空で、生ぬるい嫌な風が吹いていた。雨の気配に過敏なリコリスは起き抜けから腹痛に悩まされ、休憩のたびに控室の仮眠ベッドで縮こまっている。

 そうして彼女が午後休憩を取っている十五分ほどの間に、小さな粒が窓に落ちはじめた。


「やっぱり降りやがった」


 リコリスはのろのろと体を起こし、銀髪の神父が居る本堂へと戻る。

 ブレティラは食事を摂る以外いつも本堂の正面隅にある小さなテーブルでの読書を休憩代わりにしていて、控え室へ引っ込むことは滅多にない。それも前任者の真似事だという話だが、本当に仕事中だけは馬鹿真面目な男だ。そこまで完璧にした反動が家でのあのだらけぶりなのだとすると、もう少し自分に合ったやり方に変えた方がいいのだが。


「お腹痛い」

「何か悪いもんでも食うた?」

「お前が作った弁当なら」

「それはそれは……俺の飯にケチつける気か、いっぺん雨に打たれてこい」


 曜日に加えて天気のせいか、午前中の人の出入りはまばらで、午後に入ってからは一人も来る者がないまま数時間が過ぎた。そのために二人とも気が緩み、会話は家でのものと変わらなくなっている。


「断る。今日は着替えがない」


 答えながら、救いを求める人が居ないのは良いことなのか、それとも熱心に通って来る人は居ないのかと嘆くべきなのだろうかと考えていたリコリスは、ただし神父目当ての集まりを除く、と付け足した。


「どうかした?」


 突如、ぼんやりとブレティラを眺めていたリコリスの視界いっぱいに、彼の顔が近づいた。

 驚きのあまり呼吸も忘れて硬直したのがおかしかったのか、彼女の目の前に現れたときには心配そうにしていたブレティラの表情が、へらりとした呑気な笑みにすり替えられる。その顔は完全に、家に居るときのものだ。


「……どうもしない」


 負けじと睨みつけるリコリスの威嚇も虚しく、彼は灰紫色の瞳を細め、楽しそうに笑う。暇なときの彼はよくこうして、油断したリコリスをからかって遊んでいた。

 だらけるか、ふざけるかの二択のような人。神父としての評判はこの上ないほどに良いのだが、リコリスの中では相変わらず、料理の腕とたまの優しさ以外に評価すべき点はない。関われば関わるほどにどうしようもなく、いつもへらへらとして、人をからかって楽しむ様は子供たちと大差ない。


「雨もまだ強うなりそうなし、そうそう来るもんもおらんわ。調子悪いがやったら奥で休んじょけ」

「もう休憩終わった」

「誰か来ても俺がおる。手が足りんなったら呼ぶき」


 リコリスが心の中で悪口を並べていたとも知らず、ブレティラはそんな優しさを覗かせる。


「まあ……うん、じゃあ」


 そう答えて控室に入った二十分後、今度は退屈さに堪えかねて、リコリスは結局また本堂へと戻ってしまった。

 強い雨脚が窓を打ち、砂嵐のような音が屋内にこだまする。ブレティラは相変わらず本を広げていたのだが、その視線は入り口の扉へと注がれていた。


「どうしたんだ?」

「いんや、なんちゃない。早いやないか」

「退屈すぎる」


 勝手だなと笑って、ブレティラは本のページを捲る。朝から分厚い歴史書を読んでいたかと思えば、今度は料理本。同じ分野を読み続けるのは疲れるそうで、一冊読み終わるとまったく違う系統もので息抜きをするのが彼のやり方だった。

 それらは休みの日にまとめて図書館で借りているのだが、彼が返却のためにそこを訪れることはない。司書の女性が神父に会いがてら回収に来るのだ。時にはお薦めを携えてやって来るので、借りにさえ行かないこともある。


「腹は」

「大丈夫」


 ぼんやりと返事をするリコリスの視線の先には、夏野菜と厚切りベーコンがふんだんに使われたパスタの写真。


「読む?」

「食べる」

「はいはい」


 苦笑いで応えたブレティラが、ふと、入り口の扉を見た。すぐに灰紫色の瞳が細められ、眉間には軽くシワが寄る。無言のままそこを見つめ続ける彼の雰囲気はぴりりとして、リコリスは疑問に思いながらも声をかけられずに居た。

 そうして静かな呼吸が何度か繰り返された頃、ゆっくりと、扉が動いた。


「あの……かまいませんか?」


 現れたのは、ずぶ濡れの女。この町では見ない顔の人で、ひどく濡れていてわかりにくいが、装いはどこか別の宗のシスターにも見える。

 かまうも何も、この場所に人の訪れを拒む理由はない。ましてやそんな有り様とくれば、すぐに入れてやるべきだ。


「どうぞ」


 リコリスが返事をするよりも先に、神父の声が応えた。

 たった一言だったが、声は冷たく、嫌悪のようなものが含まされていた。法服を纏っているときは誰にでも優しく微笑む人だというのに、その笑みもない。


「急な雨に降られてどうしようかと思っていたら、この教会が見えたのです。あなた方の神のお導きでしょうか……ありがとうございます」


 べったりと顔に張りついた髪を梳き分け、女は柔和な微笑みを浮かべた。あなた方の、ということは、やはり別の信仰の人なのだろう。

 長い濃紺の髪の美しい人は床を汚してしまうことを気にしてか、扉に背を向けて立ったまま足を進めようとしない。どれだけの間雨に打たれていたのだろう、肌は青白く、唇も色を失っていた。


「そうですか、それはそれは。お役に立てて良かった」


 タオルを持って駆け寄るリコリスの背の向こうで、神父はそう答え、読んでいた本を閉じる。外から届く雨音に紛らされた溜め息が、穏やかだった時間をその人に邪魔されたとでも言いたげで、リコリスは内心気が気でなかった。

 いつも自分の苦手を押し殺してでも微笑んでいるというのに、様子がおかしい。


「ところで……ここへ来る途中の道で、蛇を見ませんでしたか?」

「いいえ? 蛇が、どうかなさいました?」

「いえ、居たような気がしたもので」


 タオルを頬にあてる女に近づいた神父は、黒いワンピースが張りついた体を上から下まで舐め回すように視線を這わせた。

 そうして振り返り、いやらしげに女へ注いだばかりの視線を、奥から追加のタオルを持って戻ったリコリスへと向ける。


「どうされました? 神父」

「着替えは、どこにありましたっけ」

「それが、今ここには……」


 戸惑う視線を横へ流しながら口元へ手をやるリコリスの仕草はしおらしく、少し前までの横柄な態度が嘘のようだった。彼女は神父とずぶ濡れの女を交互に見、扉の横にある傘置きへと手を伸ばす。


「私、取りに行ってきます。すぐに戻りますので」

「そうですね、そうして頂けると助かります」


 申し訳なさげな表情と声色に似合わず、リコリスをまっすぐに見つめたブレティラの目には「早く行け」と含まされていた。

 面倒事に関して人使いが荒いのはいつものことで、彼女ももう慣れていたのだが、彼の対応は刺々しくしながらもその人と二人になろうとしているようにも思えて、丘の家へと急ぐリコリスの呼吸は大袈裟に荒々しくなった。


「──どうしましょう」


 真っ赤な髪のシスターがそこを出た後、女は一言口にして、髪を拭いていたタオルを神父へと差し出した。彼女が気にしたのは、シスターを行かせてしまったことではなく、そのタオルの置場所だ。

 受け取ろうとしない神父の視線が足元に注がれていることに気づいた彼女は、しゃがみ込み、ざっと撫でるように床を拭く。


「今日は懺悔ざんげに来たのです」

「我々の神に、ですか」

「ええ」


 ゆっくりと立ち上がった女は、水を滴らせるタオルを足元へ放り、神父の首の後ろへと腕を回した。距離はぐっと縮まって、息がブレティラの耳を撫でる。

 嫌悪感は別として、女に突然そんな行動を起こされることにはブレティラも慣れていた。たとえ相手が女でないとしても、ヒトですらなかったとしても、彼が表向きの対応に差を持たせることはない。

 ただ、ずぶ濡れのまま擦り寄られるのは勘弁してほしいとは思っていた。明らかに抱き合ったとわかる水染みを残されては、席を外したシスターが妙な勘繰りをしかねない。

 リコリスは女性の乱れを極端に嫌う性格だ。神父として居る場所でこんな行為を受け入れたとなれば、どんな当り方をされるか、考えただけでも面倒だった。


「私には止められなかった人が居ます。私が彼を行かせてしまったがために、彼に……」


 女は体を離し、冷たい手をブレティラの頬に添える。


「お前に良くない兆しが見えはじめたんだ、オクス」


 柔和な女を思わせたそれの声色が一変、低く冷めきったものへと変わった。

 鼻先が触れ合いそうな距離で見つめる蛇の眼。不気味と言う以外に形容しがたいそれを突き放し、ブレティラは溜め息を吐いた。


「言いたいことは色々あるけんど、お前に女装趣味があるとは知らなんだ」

「偽物でも一応、神父殿に会いに来るんだ。こういうのも面白いだろう? あの人間も俺を女だと思い込んだようだな」


 蛇はその妖艶な顔に、気味が悪いほど感情のない笑みを浮かべる。彼がここまで完璧に人間の姿に化けたところを見たのは、同族であるブレティラも初めてのことだった。


「どうでもえいけんど、そろそろ離れろ」


 頬に触れる手を引きはがそうと上げた腕が逆に掴まれ、掴み下ろされてしまった。

 ブレティラが視線を合わせると、女のようななりをした蛇の口元にあった笑みが含みを持たせたものにすり替えられる。彼がそんな風に笑うときは、大抵がろくでもないことを考えているときだ。

 捕らえられた手に蛇の冷たい指が絡み、首に回されたままのもう一方の腕が二人の距離をまた縮める。


「はあ。人間の体は厄介なものだな。例えばこの程度で簡単に……」

「おい、ヴァイパー」


 蛇は神父の耳元へと顔を寄せ、平たい舌を耳朶に這わせる。凹凸のないそれはぬめりを帯びて、皮膚同士が触れ合うよりも吸い付きが良い。

 一通りそこを舐め回した舌が項に這い下り、肌を吸い上げたかと思えば、すかさず噛みついた。


「簡単に痕がつく。柔らかすぎて気持ち悪い肌だ」

「お前と絡む趣味はないわけやが」

「俺にも無いな。ただ、こうしておくと後々が面白そうだ」


 やっと神父から体を離した彼は、法服の濡れ具合を眺め、満足げに笑みを浮かべた。


「お前のこんな有り様を見て、あの人間はどんな反応をするかな。神父殿に失望するか、それとも……男のお前を軽蔑するか」


 ブレティラが仲間たちの元を離れてからこれまでの間、烏の少年はともかく、この蛇が直接干渉してくることは一度もなかった。それが突然現れて、上手く行っている生活に波風立てるようなことをしでかす意図が読めず、ブレティラは眉を寄せる。


「ありゃあ他のがと違うて、俺を何とも思うちゃあせん。……そんなことのために来たがか」

「そう、あれの件でお前に言っておきたいことがあったんだ」


 彼に腰掛けられた長椅子は、雨をたっぷり含んだ服のおかげで木目伝いに濃い筋が伸びた。

 床に放っていたタオルを拾い上げ、蛇は自らの膝の上でそれを絞る。びしゃびしゃと音を立ててスカートに落ちた水は彼の足を伝い下り、また床へと広がった。


「あの人間は危険だ」


 何を危険と言うよりも、今ブレティラが一番困るのはこの蛇の行動だ。女のような装いで現れ、首には歯形を付けた上、床も長椅子もお構いなしに汚されては迷惑極まりない。木に付いた染みの跡は、乾いてももう元通りにはならないだろう。


「意味がわからん」

「流石の俺も未来は見られないから、予感でしかないが」


 かたく絞られたタオルが、ブレティラに向けて投げられる。受け止めたそれはからからに渇いていて、水気を吸い尽くされたよう。みるみるうちに繊維が崩れ、ブレティラの手からくずがこぼれ落ちた。


「このままあれと共に過ごせば、恐らくお前は破滅する」


 丁度そのタオルみたいなものだ、と言った蛇の目は、気持ち悪くなるほど真剣なもの。


「……馬鹿げちゅう」

「馬鹿げているのはお前のほうだ。三百年以上探し続けて見つからない時点で答えはもう出ているんだ、いい加減諦めて戻れ」


 ヴァイパーの考えることは、彼が一番可愛がっている烏の少年にも、それより付き合いの長いブレティラにも、そう簡単にわかるものではなかった。こうして迫真の素振りで話した後で、すべて冗談だと言って笑うことも十分に有り得るのだ。

 けれど彼は表情ひとつ変えず、更に言葉を続ける。


「そもそもお前は、そんなものの存在を探してどうしたいんだ?」

「ただの暇潰しに決まっちゅう。今更別のネタ探すがも面倒臭いき続けゆうだけじゃ」


 ブレティラが彼の隣に腰を下ろすと、人間の真似事をしているものが二人並んで人間が崇める神の像と向き合うという、何とも奇妙な光景が出来上がった。

 もし本当にこの像が人々の言うような神の力を宿しているなら、ヴァイパーの言うように破滅していたかもしれない。スーリヤと呼ばれるここの神は空想上のものでしかないのか、それとも底抜けに寛容なのか、ブレティラの身にはこれまで一度として異変はなく、こうして魔物の数が増えた今も何かが起こる気配はなかった。


「お前の身が危ぶまれるとしても、まだ続けるのか」

「何かあるとも限らんし、あったらあったで、どうせお前も面白がるやろう? 俺は俺の好きにする、それでお前も面白いもんが見れるかもしれん……何の不都合があるがな」


 ブレティラがそう言った後に起こったのは、蛇の溜め息。


梃子てこでも動かないつもりか。つくづく呆れ果てた奴だ」


 もういい、と吐き捨てて、彼は濃紺色の髪を掻き上げる。手櫛で流した前髪が後ろでまとめて結び直されたのだが、何のこだわりがあるのか、やはり耳の高さより下の毛は肩に掛かったまま残された。


「折角出て来たというのに、土産話のひとつも無しに帰るんじゃ面白くないな」

「こればぁやられりゃ十分じゃ」


 ブレティラは首に手を掛け、付けられた歯形を握り込んだ。

 尖った歯先が食い込んだ痕は普通の歯形よりもたちが悪く、ぷつぷつと腫れてしばらくは残りそうだ。点が描く楕円の真ん中には、明らかに吸い付かれたとわかる痕もある。後ろ髪を下ろすくらいのことでは隠しきれない絶妙な位置で、絆創膏を貼れば悪目立ちしてしまう。


「そう遠慮するな。最後に……そうだな」


 ヴァイパーが真っ直ぐに腕を上げると、大きく広げた手のひらから水が生まれ、渦を巻きながら塊を成してゆく。今日の雨と同じ匂いのそれは天井の光を受けてきらきらと輝きながら、徐々に、膨れ上がる。

 次はどんな面倒事をしでかしてくれるのかと眺めていたブレティラは、水の塊を持つ蛇の手首が前へ向けてしなる寸前に意図を察し、その腕を掴み下ろした。

 床に叩きつけられた塊は飛沫を上げ、周りの長椅子ごと辺りをずぶ濡れにする。座ったままそれを浴びたブレティラもまた、とても屋内に居たとは思えない有り様になってしまった。


「何するつもりやった」


 天井が抜けたかのような水溜まり、広範囲に渡る長椅子の濡れ、そして頭から水を被った神父の姿。あと少しすればリコリスが戻ってくるというのに、不審な被害は増すばかりで、ブレティラは誤魔化し方を考えるのも面倒になっていた。

 ただ、迷惑を承知で場を引っ掻き回して面白がるこの蛇は、これ以上何かされる前に追い返さなければならない。


「ちょっとした整形だ。そう睨むな」


 掴むブレティラの手を払いのけ、蛇の眼はまた、正面に立つ乳白色の像を見つめる。


「神や魔に勝手な名前を付けるのは人間の癖だ、それは構わないが、如何せん面が柔和すぎる。本物の神どもはもっと、っ……」


 言葉の途中で、蛇の息が止まる。強引に彼の頭を掴み寄せたブレティラがそこを唇で塞いだのだ。

 がっちりと後頭部を押さえられた彼はもがき、無理矢理差し込まれたヒトの厚い舌を噛み千切ろうとするも、自身の平たい舌を絡め取られて思うように抵抗できないまま。喉の奥から起こる呻き声と粗い鼻息がしばらく続き、倒された体が腰掛けへ完全に寝かされた頃、ブレティラはようやく彼から離れた。


「……何をする」


 蛇はとんでもなく汚いものに触れてしまったと言いたげに表情を歪め、手の甲で唇を擦りながら体を起こす。

 ふう、と大息を吐いたブレティラも同じように、しかめ面で口を拭った。


「こうでもせんと、腹の虫が治まらん」

「眺め続けて目だけは肥えたか。人間の前戯なんて気色悪い芸を覚えおって」


 ヴァイパーは人間嫌いで、食べる目的以外で人間に触れること、そして触れられることを何より嫌う。ブレティラが考えうる中で彼が一番嫌がることは、人間の姿になった者に執拗に触れられることだ。

 とはいえ、そんな趣味もないのに絡みつくのはブレティラとしても当然気乗りすることではなく、した後の不快感はなかなかのもので、嫌がらせのためでも一度きりで懲りごりだった。


「女にでも化けちょりゃあ、もうちっとそれなりに相手もしたけどな」


 額に張りつく前髪を掻き上げながらのブレティラの言葉に、蛇の呆れきった溜め息が応える。


「よく言う。女嫌いに何ができるものか」

「なんじゃ、バレちょったか」

「誰がお前を作ったと思っているんだ」


 怠惰と堕落の魔物には女の陰欲を誘う力も備わっていて、彼は本能のまま雌になり下がるその生き物が嫌いだった。ヒトに化けた後も力の作用は変わらず、更にはヒトの姿になったことで女たちの欲望は彼自身へと向けられるようになった。日々色情の香る視線を浴びながら、彼は神父として笑顔でそれを受け流し、胸の内ではいつも吐き気を堪えて過ごしている。

 女のような装いをして現れたヴァイパーが執拗に絡みついて見せたのも、そんな彼をからかうためだった。


「そのお前が、あの赤い奴のことは平気ときた。妙だとは思わないのか」

「そら思うたわ。けんどありゃあ俺を何とも思いやせんで平気な顔しちょってな、それやきかしらん、俺もべつに嫌やない……面白いやないか」

「いつ他の奴のように化けるかもわからないというのに」

「いつからそんな用心深うなったがな。あんなもん見つけたら真っ先に面白がるがはお前やろ」


 及び腰な物言いはヴァイパーにしては極めて稀で、ブレティラにはリコリスの可能性よりもそちらの方が気持ち悪かった。何が彼をそこまで危惧させるのか、どうにかして二人を引き離そうとしているようだ。


「俺は俺の好きにする。何遍も言わすな」


 リコリスという女性はどうしたことか他の女のように酔うことはなく、それどころか喧嘩腰ですらある。男を知らないから、というのは他の者の例からして可能性は薄く、何か別の仕掛けがあるのかと観察してみてはいるものの、四ヶ月過ぎた今も、彼は納得できる理由を見つけられないままだった。

 愛とは、幸福とは、という疑問を抱いて降りてきたこの世界で見つけた、それと同じくらいに興味をそそる人間。いつか彼女も他の女のようになってしまうのか、それとも今のまま一生を終えるのか、そしてその人生に幸福はあるのか。

 良い観察対象に出会えたことで彼の生活はこれまでで一番と言えるほど充実していて、ヴァイパーの根拠のない不安のために手放すのは惜しかった。


「……はあ。もういい、好きにしろ」


 立ち上がった蛇の足下で、水溜まりがざわりと動く。床に広がった溜まりも、長椅子に染み込んでいたものも、扉へと足を進める彼の体にみるみる吸い寄せられて、木目に残ると思われた染み跡まで綺麗に消えてしまった。


「これまで渇ききると妙だろう。あとでお前が拭いておくといい」


 扉の前に立った彼は、足元の水溜まりを指して笑みを浮かべる。

 入り口のもの以外は水滴の一つに至るまで吸い上げられ、雨の中現れた“異教のシスターらしき人”はそこから一歩も動いていないかのような状態になっていた。


「そうや、クロウは。お前が来る言うに来んかったがか」

「今日は命日とかいうやつだ。お前がやった、あの人間のな」


 ヴァイパーからの返事は、ブレティラの予想していないものだった。

 ここをよく訪れるクロウは、彼の知る限りそんな性格ではない。人間に対して興味がないわけではないが、死を悼むほど好きなものでもないはずだ。


「あいつが、人間の墓参りか」

「気に入った玩具が壊れれば子供は哀しむ。極普通のことだが……あの人間は特別だ」


 彼がクロウにやった人間というのは、この場所で神父をしていた男だった。

 踏み込むのは簡単だったものの、人間に化けることにもこの世界の空気にも慣れていなかったオクスは、教会の近くで倒れていたところを神父ネモフィラに助けられた。その人は底なしに慈悲深く、オクスがヒトでないと気づきながらも共に暮らして世話をし、人間らしい振る舞いを教えた。それはオクスが人間に興味を持っただけの存在で、害がないものだと知ってのことだったのだが、あまりにも分け隔てをしない彼の人の良さは、オクスには理解しがたかった。

 他人へ思いを向けるあまり自らを労ってやらなかった彼は病魔に蝕まれ、気づいたときにはもう手の施しようがなく、ただ死の訪れを待つしかない身になっていた。


「あれはお前のその面とよく似ていたから、クロウもお前の代わりにして懐いていたんだ。それが目の前で死んでみろ、子供にはこたえるぞ」


 クロウとともに去ることになったネモフィラは、オクスにこの場所に残れと言い残した。

 魔物であるオクスにとって、神に近い場所に居ることは苦痛かもしれない。けれどオクスが求める答えに一番近い場所もここだろうと、彼は言っていた。そして、魔物にそんなことを勧めるような人間だからお仕置きを受けたのだろうと、病の身を笑っていた。その笑顔はすべてを受け入れているようで、我が身の不幸を悲観している様子など微塵も感じられず、それもまたオクスには理解しがたいものだった。


「思い入れのある者の死は、心に傷を残す。……それが同族であれ、人間であれ、変わりはないようだ」


 蛇は溜め息をひとつ、ブレティラへと笑みを向ける。


「まあ、面倒事ではあったが、お前には感謝もしているよ。トラウマを作ってくれたお陰で、あの子は前よりずっと人間を嫌えるようになった。その点ではお前より出来の良い魔になるだろうね」


 そう言った後、彼は静かに扉を押し開けた。

 ねっとりと絡みつくような湿気と生臭いような匂いが、建物の中になだれ込む。雨は土砂降りに変わり、景色もよくわからないほど霞まされていた。


「ああ、ヴァイパー」


 ブレティラは雨の中去ってゆく彼を追いかけ、その背にもう一度声をかける。土砂降りの雨に打たれるのはあまり気持ち良いものではなかったが、彼にされた迷惑な行為の数々を誤魔化すには丁度良かった。


「そろそろこの雨、止ませてくれんか」


 声は届いたのか、届いていないのか、雨の中に佇む蛇は顔をしかめたまま、返事までにはかなりの間があった。


「……あの人間のためか?」

「一応な。それと、お前の降らせる雨は生臭うてしゃあない」

「失礼な奴だ」


 渋い顔をしていた彼の口元に、薄く笑みが作られる。

 そうしてまた背を向けて歩きはじめた偽物のシスターは、姿を消す寸前、振り向かないまま軽く手を振った。


「達者で暮らせよ。もぐりの神父殿」


 女のような彼は地に崩れ落ちて小さな蛇に姿を変え、雨の中を泳いで行った。

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