第5話 毒林檎

 一面の天を分厚い雲に覆われた世界は薄暗く、光の射さない大地には雑草一つ生えていない。かつてこの地にも人間の世界と同じような陽の光があったのか、それともどこかから調達してきたのか、朽ちた木の幹に体をあずけて過ごす異形の変わり者がそこに居た。


「ね、ヴァイパー」


 黒い翼を生やした少年はそれの名を呼び、読んでいる本との間に無理矢理頭を突っ込んだ。


「なんだい、クロウ」


 それは特に驚くでもなく、すぐに微笑みを浮かべ、少年の頭を撫でる。


 蛇の名を持つ彼は人間嫌いで、食糧にしかならない弱い生物だと見下しているのだが、その主張とは裏腹にヒトを真似た姿で過ごしている。

 首から上だけを見れば、艶の良い濃紺の長髪を上半分だけ後ろで結わえた、妖艶な顔立ちの男。それより下は二足歩行の形ではあるものの、青白い皮膚の所々に土色の鱗が残され、トカゲのような手足に鋭い爪が生えて、人間とも魔物ともつかない奇妙な姿だ。本来は島をも一呑みにするほど巨大な蛇の怪物なのだが、連れの魔物が元々ヒトの形をしているため、彼もそれに合わせてヒト型をとるのが当たり前になっている。そして何より、お気に入りの朽ち木のチェアーに腰掛けるにはヒトと同じくらいの大きさで居るのが丁度良いのだ。

 彼に育てられた異形の少年クロウもそれにならい、顔は持って生まれた烏の双頭でなく人間の少年に、体も羽根を残しつつヒト型をとっていた。


「はやくどかないと、はさむよ」


 笑みを浮かべていることが多いそれの眼は、ヒトの姿を真似ているときでも瞳孔が細い。一度視線を合わせてしまうと動けなくなるような不気味さを含んでいて、彼の優しさを知っているクロウでさえ、真っ直ぐ見つめられるのは苦手だった。

 結構痛いんだよ、と彼が笑った一瞬の隙にそれから逃れ、少年は朽ち木のチェアーの天辺に肘を掛ける。


「聞いてよ。オクスがおかしいんだ」


 少年が腕を置いた箇所は丁度弱っていたらしく、大きめの木片がぱらぱらと、蛇が開く本の上に落ちた。

 濃紺の髪を垂らした内側で浮かべられる笑みに、わずかながら苛立ちが混じる。そうして徐々に崩れてゆく朽ち木のくずが、鱗まみれの足の周りにいくつも散らばっていた。

 ヴァイパーは本の上に降ったくずを払い落とし、小さく音を立ててそれを閉じる。


「なんか、今までのオクスと違う感じがするんだよね」

「へえ、それは面白いね。やっと答えが見つかりそうなんじゃないかい?」


 微笑む蛇の眼が見上げた少年の顔は、ひどく不愉快な色を浮かべていた。


 オクスというのは彼らの仲間で、人間の生活、その中でも特に愛や幸福というものに興味を示す、風変わりな魔物だった。ヴァイパーがこしらえた水鏡から人間界を眺め、目を付けた人間の命が尽きるまで観察を続ける、良く言えば熱心な、悪く言えば暇な奴。飽き性の面倒臭がりで何でもすぐ放り出してしまうくせに、その観察だけは何百年経っても意欲的に続けていた。

 選ばれた人間はどれも彼が思うような幸福とはほど遠い最期を迎えていたのだが、それでも彼は幻想を追いやめず、三百年ほど水鏡越しに眺めていたかと思えばとうとう自ら人間の世界へと降りてしまっていた。


「幸せなんかないって言ってたよ。だから前の奴もオレにくれたんだ」

「違うかもしれない次の可能性を試しているんだよ。一緒に過ごすのはまだ二人目だからね」


 ヴァイパーは溜め息を吐きながら、そこから少し離れた場所に突き立った一本の杭を眺めた。


「どうせまた飽きてこっちへ寄越すんだろうに」

「だと思う」

「全く、いい迷惑だよ。シャイターンから隠す俺の身にもなってみろ」


 少し前にオクスが手放した人間は、今彼が化けている姿によく似た顔の男だった。クロウの手に渡ったときには病に冒されていて、ヴァイパーがヒトに合わせた環境を整え、色々な肝や皮を煎じた薬を与えてやったにも関わらずたった二ヶ月足らずで命尽きてしまった、呆気ない奴。ヴァイパーとしては海にでも放って始末したかったのだが、クロウが拒んだために、亡骸は魔物たちが棲むこの地に埋めてある。

 オクスとそっくりな顔をした人間の死は、クロウを憔悴させるには十分すぎた。魔物として生きるには人間の死ひとつで動揺するようではいけないのだが、彼はまだまだ子供で、気に入った者への執着心が種族の線引きを甘くさせたのだ。その人間に関しては特別に近くへ置くことを許したヴァイパーも、二度目はないようしっかりと教育するつもりでいた。

 何百年経っても人間への興味を捨てない異端児はオクスだけでいいのだ。


「せっかく、もうすぐ帰ってくると思ったのに」

「俺が止めるのも聞かずに行くような頑固者だ、そう簡単に動きはしないさ」


 彼が本を置きに立った拍子、朽ち木が揺れ、少年が腕を掛ける場所の一部が大きくこぼれてしまった。

 これ以上崩せば、今度こそ叱られてしまう。そう感じた少年は翼を広げ、ゆっくりと地に降りた。


「ああ、あっちはまた朝か」


 ヴァイパーは手の平から湧き出した水を古い木の器に注ぎながら、小さな水面を覗いて笑みを浮かべる。そこには、少し前にクロウが訪れた丘の家の様子が映し出されていた。


「いつの間に、こんなのでも見れるようにしたの」

「このほうが移動もできて便利だろう? そう見ることもないけどね」


 爪の先でつつかれた水面の景色が揺れ、家の中の様子に変わる。

 この水鏡のように、ヴァイパーは退屈しのぎに奇妙なものを作ることがあった。クロウに人間を飼わせるための特殊な檻や生活様式に合わせた身の回り品の用意ができたのも、その風変わりな趣味の賜物だろう。

 ヴァイパーはもの作り、オクスは人間観察。そしてクロウはそんな二人の元を行き来して邪魔をしたり、同じことをして遊ぶのが好きだった。


「それにしても、オクスの奴はまだ神父なんて遊びをしているのかい? 神に仕えるなんて冗談が過ぎるよ」


 呆れたように言いながらも、ヴァイパーはその様子を楽しんでいる。一度は止めたものの、行ってしまえばそれはそれ、オクスの理解不能な行動も今や暇潰しのひとつだ。

 そんな彼は、オクスの側を忙しなく動き回る赤いものを見て目を丸くした。


「驚いた。今度のは女かい?」

「そう」

「よく一緒に居られたものだ」

「うん。オレもリルから聞いて、嘘だと思って見に行ったんだ」


 真っ赤な髪の女は、キッチンで朝食を作っていた。そのすぐ前のテーブルに、コーヒーをすすり、新聞を広げ、当然のように人間臭く生活しているオクスの姿がある。

 彼の女嫌いは筋金入りで矯正のしようもないはずだというのに、どうしたことか平然としているという、奇妙な光景。オクスをよく知るヴァイパーには違和感の塊だった。


「ふん……どの道すぐに音を上げるだろうね。まあ、今度のは押し付けられても食ってしまえばいいか」

「うん」

「しかしあれだな。どうも、髪の色が気に食わない」


 理解できないオクスの行動を面白く思い、また、その女を美味そうな食糧として見られたのも束の間のこと。ヴァイパーの胸に、嫌な感覚が起こった。

 彼らは神が清浄しょうじょうなるものとして創った人間に害悪を植え付ける存在で、オクスは怠惰と堕落を与える魔。その堕落は女に強く作用するはずだというのに、共に居る赤いものは傍らに置かれながらも平然と過ごしている。幼子ならいざ知らず、女として機能できる身でのそれは明らかに特異だ。


「ああ。そうだ。林檎の色か」


 忌々しげな彼の声に、クロウは首をかしげる。

 リンゴはクロウが好きなもののひとつで、オクスの元へ遊びに向かった際にはよく食べさせてもらっている。いつだったか、土産にと持ち帰ったものを食べたヴァイパーも気に入って、二人で種を蒔いてみたりもした果物だ。それがどうして悪いもののように言われるのか、少年には理解ができなかった。


「リンゴ?」

「人間の世界の童話に出てくる。悪い魔法使いが毒をたっぷり孕ませた林檎……一口食えばたちまち永遠の眠りだ」


 蛇の目は険しく、水鏡の向こう側を睨みつける。若い人間の生娘は彼にとって一番の御馳走だというのに、その様子はまるで仇を見るようだ。


「お前、オクスが変わったと言ったね?」

「うん。なんか、はっきりどこがとは言えないんだけど。なんか違う感じがするんだ」

「危ないな」


 ヴァイパーはそう呟くと器の水を捨て、口元に拳をあてながら眉をしかめた。その眉間にはシワが、少年がこれまで見たこともないほど深く刻まれている。

 何かしらのとばっちりを食らいそうな気がした少年は静かに翼を広げ、彼から少しだけ離れておくことにした。


「なんで?」

「あのオクスが平気で居られることがそもそも妙なんだ。それにリルまで行って、なのにこの赤い女は何食わぬ顔じゃないか。これは意外だとか、面白いとか、そんな悠長に構えていられる話じゃない」


 珍しく語気を強めた彼は少年を振り返ることなく朽ち木のチェアーに向かって足を進め、渇ききったそれに手を触れる。


「この女は“細工物”だ」


 爪を立てられた幹が、彼の呟きに応えるように小さく音を立た。

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