第4話 悪魔かもしれない

 三ヶ月後のある日。

 用があると言って先に教会を出た神父が嫌がらせのように雑務の山を残していたため、帰りが遅くなることを覚悟していたリコリスに更に追い打ちをかけるように、子供たちが宿題を見てほしいとやって来た。

 彼らはすぐ手を止めては色々な話をして、たった五問程度の宿題を終わらせるのに一時間以上かかったのだが、その中にはリコリスの興味をひくものもあった。ブレティラが恩人と仰ぐ人の話だ。


 町の人々が言うように、前任のネモフィラ神父はブレティラとそっくりの顔立ちと振る舞いで、いつも優しく微笑んでいる人だったという。ただ、ブレティラと違って、憧れを抱く人はあれども、あからさまにきゃあきゃあと取り囲まれることはなかったという。物腰は柔らかく、誰からも慕われる人柄でありながら、越えてはいけない線を感じさせる人。それに比べてブレーはオーラが足りないからあんなことになるんだ、とレーフィアルは言い、ジブリールやハミエルも確かにと頷いた。

 ブレティラには年頃の娘だけでなく小学校の女子たちも皆ぞっこんで、同級生なんて子供は相手にならないと一蹴されるのだそうだ。このままだと自分たちは結婚できない、ブレティラはああ見えて実は町を滅亡させに来た悪魔なのかもしれないと真顔で悩みはじめた少年たちの様子に、リコリスは思わず笑ってしまった。

 また、彼らによるとネモフィラ神父は余命数ヵ月の病を患っていて、町を去る前には生前葬をしたのだという。その後は生まれ故郷に帰ったという話だが、詳しい場所はブレティラも知らない様子で、誰が聞いても決まって「もし私を偲んで下さる方があるなら教会へ」と、その人が遺した言葉を口にするのだそうだ。

 皆がブレティラを慕うのは、勿論本人の人望もあるが、十数年もの間アガパンサスの人々に寄り添った前任者の面影を重ねている部分も少なからずあるだろうと、子供たちは鋭く分析していた。


 そうしてつい興味を持って話相手をしてしまったがために、リコリスは薄暗い夜道を歩くことになってしまった。

 丘を登る息遣いの合間に、腹の虫が何度も声を上げる。先に切り上げる代わりに夕飯はブレティラが作ることで話がついていたのだが、この様子では二人前でも足りるか怪しい。


「……はあ」


 やっと辿り着いた家の扉を前に、彼女は小さく溜息を吐いた。

 そこを開ければいつも、入ってすぐの場所に彼が居る。キッチンに立っていても、椅子に掛けてコーヒーを飲んでいても、リビングのソファに居たとしても、リコリスが玄関を開ければ彼は必ず顔を上げ、決まってこう言う。


『おかえり』


 逆の立場なら同じようにかけているはずの言葉も、受ける側に立った彼女にはむず痒いものだった。兄のような、悪友のような人が、言葉とともに優しい微笑みを向ける。それを前にしたリコリスは同じ言葉で応えることが妙に気恥ずかしく、「ああ」だとか「うん」だとか言って誤魔化していた。

 帰りを待ってくれる特定の人を持った生活は彼女を少しずつ変えていたのだが、彼女も、そしてブレティラも、それを変化として受け止めてはいない。


「た、だい……ま……」


 けれどこの日は、そこにいつもある光景がなかった。ブラウンのテーブルには赤いアンスリウムを生けた花瓶と彼が好んで使うマグカップがあるだけで、灯りは点いているものの、キッチンにもリビングのソファにも姿がない。

 普段と違う状況は、彼女に居心地の悪ささえ起こさせた。


「ブレー……?」

「あ? どうした?」


 返事があったのはリビングの側。リコリスが一歩足を進めると、ソファの向こうで出窓に寄り掛かったブレティラが新聞を広げ、戸惑う彼女にきょとんとした目を向けていた。

 シワだらけのシャツに、裾を踏まれた部屋着のズボン、結びを解いた後ろ髪はどれだけ掻きむしったのか乱れきっている。これが本当に、いつも教会に居る清潔感溢れる神父様と同じ人なのだろうかと疑いたくなるほど、まったくの別人だ。


「……もうちょっとマシな格好しろよ」

「家におるときばぁ、かまんやないか」


 ばさりと音を立てて閉じられた新聞紙は、いつものごとく、折り目を無視した酷い有り様。


「誰か来たらどうするんだ」

「そのためのお前やろ」

「そうやってすぐ人を使う」


 手元へ注がれる視線に気づいたブレティラは彼女の頭に乗せるようにそれを押しつけ、キッチンへと向かう。出窓に置いていたもうひとつのマグカップを提げて行ったのだが、それからはココアの香りがした。飲みかけを放置して別のカップを使うことはよくあるが、ココアは珍しい。

 リコリスはどこまでもだらしない彼の様子に溜息をひとつ、できるだけ綺麗に折り直した新聞紙を花瓶の横に置いて、階段へと足を進める。


「今日の夕飯、何?」

「チキンソテーのラタトゥイユソースと……そうやな、適当にスープとか付けるわ。もうちょっと待っちょって」

「できてないのか。先に帰ったくせに」


 ふう、と溜め息を吐きながら、リコリスの冷めた視線がブレティラの手元に向けられる。フライパンには缶詰のホールトマトが入れられたばかりで、出来上がるまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。


「しゃあないやろ、用事あったがやし。パン?」

「米」

「やと思うた」

「今日は疲れたから二人前がいい」

「そりゃあ普段一人前で済む奴の台詞や」


 言葉を交わしながら踏みしめた階段、その足下の木が軋む音に紛れて、リコリスの耳に誰かの笑い声のような音が聞こえた。

 丘には他に民家もなく、もう陽も落ちてしまって、誰かが訪ねてくるとすれば何か一大事があったときくらいのものだ。そんな騒がしさはないのだから、きっと空耳かブレティラの独り言だろうと一人結論付けて、彼女は部屋の扉を閉じた。


「……あいつ、そんなすげー食うんだ」


 リコリスの気配が消えて間もなくのこと、つい先程までブレティラが居た出窓の外から、一人の少年が身を乗り出した。

 巻き癖の強い真っ黒な髪をふんわりと後ろで結んだ、十四、五歳頃の少年。顔の横に垂れた髪をいじりながら二階の様子を窺うように屋内を覗き込む彼は、鎖骨から下の肌が黒く、窓に掛けている手に至っては鳥の足のような奇妙な形をしている。


「胸のでかいあれ、養分タンクか何か?」

「まだおったか。もう帰れと言うたやろ」


 キッチンで鶏肉の下処理をしながら、ブレティラは静かに溜息を吐いた。異形の少年を気味悪がっている様子はなく、さも当然のように料理が続けられる。

 少年も彼のそんな対応には慣れているようで、呆れ気味に睨まれてもまったく気にもとめていない。


「実物見てみたかったんだ、なんか変わった奴だって聞いたから」

「ほんならもう気も済んだやろ。はよう帰れ」

「ココア。もう一杯くれたら」


 窓の側へ歩みを進めたブレティラは、大きく広げた右手を少年の巻き毛の上に置く。


「お前もソテーにされたいか」

「いってぇ!!」


 髪を掴み込まれた少年が大声を上げるが早いか、その口へ叩きつけるように、ブレティラのもう片手が押し当てられた。洗っていない手のひらが、べちゃりと嫌な音を立てる。

 牙が人差し指の付け根に食い込んだのをいいことに、少年は反撃とばかり、彼の手に噛みついた。


「やかましい。ついでに痛い」

「そんな思いっきり掴まないでよ、こっちだって痛いんだから」


 歯が立てられた場所から、黒みがかった血が滲む。鶏肉の汁混じりのそれを舐めてしまった少年は顔をしかめ、ぺっと吐き出すように舌を出した。


「まっずい」

「当たり前や」

「けど、さっきの奴はまだ美味いよね。お土産にしようかな」


 少年の口から舌が覗き、口の端を舐めた。

 異形の少年は雑食で、人間の肉も躊躇なく食べられる。中でも生娘の肉は特に柔らかく雑味がないため、ヒトを食べる者には特に好まれていて、リコリスはその条件にあてはまる御馳走だ。痩せぎず、肥えすぎず、年齢的にも丁度良い頃合いに差しかかっている。

 ブレティラは眉を寄せ、不快感をあらわにする。


「……怖い顔。どうかした?」


 明らかに表情を変えた彼に、少年はわざとらしく小首をかしげて笑みを浮かべた。


「あれは俺の観察用や。勝手なことはするな」

「でもどうせ飽きたらオレにくれるんでしょ? 前みたいに」

「やらん」


 ブレティラは少年を追い払うように手を振り、まだ少年の上体があることにも構わず、窓に手を掛けた。

 無理にでも追い出されると感じた少年は、挟まれる前にそこから離れる。外の暗闇に浮いた少年の背から、ばさりとひとつ、羽ばたきの音がした。


「へえ、気に入ってるんだ? まあ珍しいよね。平気だっていうの本当だったんだ」


 遠ざかりながら言葉を続ける少年の顔から、さっと笑みが消える。


「けど観察だけにしといてよ? 試しにそれ以上なんて気色悪いこと……」

「アホか。考えただけでも吐き気がする」


 ブレティラは独り言のように答えて窓を閉め合わせかけたのだが、あっ、と何かに気付いたような少年の声を聞き、もう一度そこを開けた。

 忙しなく羽ばたいて戻った少年が、大声を出したことを詫びる代わり、軽くはにかむ。


「リルから伝言あったんだ」


 少年はまた窓枠に掻きついて、ブレティラの体の陰から階段の側を覗き見る。鶏肉臭い手が遮れなかった今回の大声のせいで、リコリスが下りてくるのも時間の問題かもしれない。


「もう死んでるって。これだけ言えばわかるって言ってたけど」

「……ああ」


 訝しげに眉を寄せたブレティラは、少し考え、一声漏らした。

 伝言の主は、しばらく前にブレティラがリコリスとの会話の中であげた、人探しの出来そうな知人。彼女が探すと言わなかったためはっきりと依頼はしなかったのだが、どうやら勝手に調べていたようだ。

 そしてその結果は、残念なものだったらしい。


「そうだ、あと……」


 少年が告げたのは、女の名前。

 それを伝えるとすぐに彼は闇に消え、ほどなくして、二階からリコリスが下りてきた。

 焼き上がった鶏肉にラタトゥイユソースをかける絶妙のタイミングで現れた彼女は、盛り付け終わったそれをテーブルに運び、二人分の麦茶をグラスに注ぐ。


「そう。さっきなんか大きな声出したか?」

「いんや? ああ、フライパンの蓋落としかけたときかな」


 ブレティラの返事を疑うことなく、彼女はそうか、とだけ呟いて、それ以上の詮索はしなかった。そして、彼がどんな用のために仕事を途中で放り出したのかも聞かないまま。

 リコリスはいつでも、自分に直接関係のないことを追及しようとはしない。彼女自身、あまり人には触れられたくないものを抱えていて、それをあれこれと尋ねられれば煩わしく思うからだろう。

 食事を摂りながら、ブレティラは異形の少年が伝えて行った件をどうするか考え続け、フォークの先で何度も鶏肉をつついては行儀が悪いと言って睨まれた。


「……なあ」


 食後のコーヒーを飲みながら、ブレティラはやっと心を決め、言葉を切り出した。


「ちょっと、怒らんと聞けよ」

「何だよ急に。内容によっては怒るけど」


 向かいの席に座ったリコリスが、アイスティーのグラス越しに眉をしかめる。

 ブレティラは視線のやり場に迷い、マグカップの中の黒に向けて話した。


「余計なことかもしれんけど、探してもろうた」

「っ、……」


 ひゅ、と音を立ててリコリスの息が吸われた後、しばらくはどちらもが言葉を発することはなかった。


「見つかっ……た、のか……?」


 微かに震えた声が、ブレティラの耳に届く。彼は一度視線を上げ、揺れるブラウンの瞳を見つめた。


「泣かんとに聞けよ」

「…………そう、か」


 できればその結論を言葉にしてしまわずに。そう願い苦々しく目を細めた彼の様子に、リコリスは答えを悟り、浅くなっていた息をゆっくりと深く吐き出した。

 そうしてまた、しばらくの沈黙。それぞれが手元のマグカップとグラスを見つめたまま、静かな呼吸の音だけが続いた。


「これでもう、もしかしたらとか、いつか……とか、思わなくていいんだな」


 絞り出された声には気丈を装おうと笑いが混じり、それを取り繕うようにまた言葉数が増える。


「私は独りだ。最初から独りで、これからも……ずっと、独りだ」

「お前。それ聞いたら、今までお前を大事に思うてきた奴らが泣くぞ。いや、わからんではないけど」


 ブレティラは顔を上げ、眉をしかめた。

 気の済むまで思いを吐露すればと黙ってはいたものの、このまま言わせておけば彼女はひとりでずぶずぶと沼に落ちて行って、必要以上に自分を傷つけてしまう。彼も職業柄そんな人の対応に不慣れなわけではないが、彼女が目の前でそうなっていく様をただ見ているわけにはいかなかった。


「ああ、うん、そういう意味じゃ……ないんだけど」

「あと俺も泣くぞ」

「なんでだよ」


 つい口にしてしまった言葉をどう説明したものかと戸惑っていたリコリスは、ブレティラが大袈裟な不満顔で付け足したその一言で、昂っていた気持ちを一気に冷まされた。


「一緒に住んじょって空気扱いとか心外や。こんなに毎日煩わしちゃりゆうに空気扱いされるとか、お前の神経図太すぎて逆に俺が泣くわ」

「煩わしてる自覚あったのか」

「あるけど改める気はない。面倒臭い」


 少し前まで神妙な面持ちで彼女と向き合っていたはずのブレティラが、突然横柄とも言える口振りで胸を張る。その振る舞いは、数ヵ月前に彼女が初めて身の上を語った日と同じく、彼なりの気遣いだ。そして彼女はまたまんまとその策にはまって、彼との“いつも通り”に引っ張り戻された。

 リコリスはアイスティーを大きく一口飲み下し、悔し紛れの溜め息を吐く。彼を見ていると感情的になるにも疲れはじめて、この悲しい報せももう仕方のないこととして終わらせてしまおうかという思いさえ起こった。


「なあ」

「ん?」


 ただひとつだけ、その前に、リコリスには知っておきたいことがある。


「名前。わかったんだろ?」

「ああ、うん」


 ブレティラが告げた女性の名は、アイリス・プリムローズ。リコリスが自分の名前を手掛かりにどれだけ探しても、見つかるはずのない人だった。


「パシフローラじゃ……なかったんだ」

「そうみたいやな」

「なんで、って思うけど、そんなのもう誰にもわからないか」

「そうやな」


 リコリスが思いを口にして一呼吸置くそのときに、うん、と柔らかなブレティラの声が応える。


「リコリス・プリム……ああ、やっぱりパシフローラのほうが似合ってる」

「そうやな」


 馴染みのない名前を途中で言いやめたリコリスは、そこにきてやっと、彼がいつもの彼らしくないことに気づいた。

 穏やかに、けして相手の言葉を遮ることなく、ただ話を聞いて頷く人。リコリスはそんな彼が居る場所を知っている。そしてそれに気づいた瞬間、その人と向き合っていることに居心地の悪さを感じた。


「さっきからそれしか言わないな」

「俺も一応気は遣えるわ。仕事柄」

「そうだった、こんなんでも神父だった」

「こんなん言うな」


 彼女がいつもの調子に戻ったことでブレティラの対応も元に戻り、後頭部の髪を掻き乱しながら大きく溜め息が吐かれる。不満一杯のしかめ面が、マグカップとともにきゅっと天井を仰いだ。


「まあ、とりあえず、お前は独りやないきな。他の奴らはどうでもえいけど俺を空気扱いするなや。今度言うたらほんまに泣くぞ」

「良い歳した男が泣く泣く言うな、鬱陶しい」


 最後は日常的な言い合いをして、互いに溜め息を吐いて、この話題はきっとこれきりになる。

 立ち上がったブレティラはリコリスの空のグラスもさっと取り上げて流しへ向かったのだが、その表情は先の不機嫌な物言いが嘘のようにけろりとしていた。そしてリコリスも、胸のつかえがいつの間にか取れて、すっきりとした気分だった。


「ああ、風呂の用意がまだやった」

「出してくる」

「洗うてないわ」

「わかってる」


 この日の風呂には、ブレティラの独断でプルメリアの入浴剤が使われた。数ある癒しの香りの中から選ばれたその花は、ある地方では儀式にもよく用いられるもので、棺の中へ手向けられたり、墓地や寺院にも好んで植えられる。

 甘い香りの湯船に浸かったリコリスは、心穏やかに、想い続けた亡き人へ手を合わせた。

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