第3話 さがしもの

 リコリスがアガパンサスの町に来て三週間が過ぎた。

 ブレティラの願い通り、シスターという名の虫除けの効果は絶大で、夕方の教会に以前のような過熱した集まりは見られなくなった。勿論完全になくなったわけではないのだが、神父目当てに毎日通いつめる人はおらず、夕飯にと手料理が差し入れられることもない。遠巻きに眺めることの多くなった面々は、いつも彼の傍らに居られるシスターへ羨みの目を向けていた。

 たまの優しさと料理の腕以外では幻滅し通しのリコリスは、いっそその本性をさらけ出せば女たちも失望して離れてゆくのでは、と提案してみたのだが、ブレティラは試そうともしないまま否定して、物腰柔らかな神父のままで居る。彼曰く、女を引き寄せるのは身に備わった能力のようなもので、彼の意思でどうにかできる問題ではないのだそうだ。平然と見せられた確固たる自信に、リコリスはもう呆れることも馬鹿らしくなって、そのまま言わせておくことにしたのだった。


 月が変わって八日目のこと。陽気が心地良いこの日はスーリヤ神がはじめて世に現れたとされる日で、教会では町をあげてのお祭りが行われる。中央通りには朝から露店が立ち並び、花びらを撒く子供たちの行列が町を巡って、バザーや配りものをする教会は普段にも増して賑やかになるのだ。

 これまで教会が出すものの準備をすべて婦人会に任せきりにしていたブレティラは、軽食作りとバザーを婦人会に、配りもののお菓子はシスターにと分担することにして、家で数種類の焼き菓子を用意した。実際のところ作ったのはほとんどブレティラで、リコリスはラッピングと次々にできる洗い物の片付けに終始したのだが、その方が出来が良いと確信する彼女が文句を言うことはなかった。


「このマドレーヌ美味い!」

「あ、ほんとだ」

「こっちのパウンドケーキもおいしいよ!」


 町を練り歩き終えて教会の庭に集まった子供たちがそれを頬張れば、ようやく大人たちにも配られはじめる。

 本堂への通路を挟むように置かれた婦人会のテントとリコリスがお菓子を配る長テーブル、どちらに来た人も皆笑顔になった。


「こっちのもシスターが作ったのかい?」

「サンドイッチは婦人会だよ。そりゃバーベナさんちの奥さんだな」

「うちの娘のが一番……と言いたいが、これは困った。どれも美味いな」


 前の通りに設けられた休憩スペースに集まった人々は軽食やお菓子を手に談笑する。そんな大人たちの前を、ぱたぱたと元気な足音が駆け抜けた。


「なあなあ、リコリス!」


 お菓子の袋を片手に、ふわふわの金髪頭の少年がリコリスに走り寄る。その背中を追いかけるようにして、三つ編みの小さな女の子もマドレーヌを食べながらやって来た。

 雑貨屋を営むフクシア家の孫で、よく連れだって教会へ遊びに来る兄妹。いたずら盛りの十歳の兄は、リコリスのスカートを捲ってこっぴどく追いかけ回された初対面の日以来、彼女が笑顔の下に隠している性格にも薄々勘づいている。


「これ、すっげー美味いぞ」

「そうですか、良かった。神父も頑張った甲斐がありますね」

「だな。……って、え? ブレー?」


 つい口を滑らせたリコリスの耳に、男の咳払いが届いた。しまった、と口元に手をやりながらリコリスが振り向くと、教会の中からお菓子入りの箱を抱えて出てくる神父が抗議の眼差しを向けていた。

 様子を察知した婦人会の若い面々が、テントの奥でざわつく。


「なんだ、ブレーって料理できるんだ。いっつもおかず貰って帰ってたから、できないんだと思ってた」


 場の緊張を知ってか知らずか、少年は穏やかに保つべき水面へ石を投げ込むようなことをさらりと言う。

 どう返そうかと唾を飲むリコリスのすぐ横で、長テーブルの脚が軋んだ。


「独りだと頑張るのも億劫で、何も食べないこともよくありましたから。差し入れは本当に助かっていたんですよ」


 箱を台に置いたブレティラは少年に笑顔を見せながら、向かいのテントにも聞こえるように、優しくはっきりと答えた。

 リコリスは彼の顔を見ないよう、そそくさと箱のお菓子を並べる作業に移る。少年について来た小さな妹も、何も言わないままシスターの手伝いをはじめた。


「じゃあ今は頑張ってんの?」

「頑張らされていますねぇ。シスターは……ほら、怖い人ですから」

「ああ、うん。それわかる」


 長テーブルをはさんで話していた少年と神父が、二人してちらりとリコリスを見て、苦笑いを浮かべる。


「何か言いました?」


 溜め息混じりに彼女が答えると、少年はくるりと向きを変え、元居た場所へと走り出した。


「なあなあ、ジブリール! リコリスの今日のパンツ、水色なんだって!」

「っ、レーフィアル! またそんなことを!」


 はしゃぐ少年につられて、リコリスもつい大きな声を上げてしまった。前の休憩スペースに居る人々からどっと笑いが起こり、それ以上怒れなくなったリコリスは、もう、と大きく息を吐いて通りに背を向ける。

 不満一杯に口を尖らせたままお菓子を並べる彼女の様子に、ブレティラはまた苦笑いするしかなかった。


「あれだとまるで私が教えたみたいじゃありませんか……ねえ、ミシェル」

「ブレーは言ってないよ?」


 一人残された妹のミシェルはリコリスの顔を覗き込み、ブレティラを見て、兄の向かって行ったほうを眺め、またリコリスを見つめる。

 五歳の少女にそうも不安がられては、リコリスも笑顔を作るしかなかった。


「わかっていますよ」

「うん……ごめんね、お兄ちゃんが」

「ミシェルが気にすることじゃありませんよ」

「そうそう。男の子はみんなあんなものですよ。ほら、ジブリールもハミエルも」


 教会の前の通りではしゃぐ少年たちを見て笑うブレティラに、少女の不思議そうな目が向けられる。


「ブレーも?」

「私は、そんなに若くはありませんねぇ」


 その答えにリコリスが軽く笑いを漏らし、つられてミシェルも笑ったのだが、二人の笑いの意味は少し違っていた。

 ブレティラは彼女たち以外の視線を感じながら、人差し指を立て、顔の横でくるくると円を描く。


「目の前で振り回されたって、何の興味も湧きません」


 やんわりと、けれどここぞと主張する彼の様子にリコリスはくすくすと笑い、少し離れたテントからはいくらかの溜め息が起こった。落胆からのものもあり、シスターに対して興味はないと発言されたことに安堵したようなものもあった。

 周りの動揺をよそに、ブレティラは空になった箱をたたみ、金髪の少女の高さまで目線を下げて微笑む。


「ありがとう、ミシェル。お礼にこれを」


 並べ終えた中からピンク色のリボンがかかった袋がひとつ差し出されると、少女は反射的に伸ばしかけた手を慌てて下ろし、神父とシスターを交互に見つめた。


「ひとりいっこ……でしょ?」

「お手伝いしてくれたお礼です。気にしないで」

「頑張って作ったから、美味しいって言ってもらえて神父も嬉しいんですよ」


 二人に促されて受け取った少女の顔を、ぱあっと明るい笑みが彩る。


「ありがとう、ブレー、リコリス」

「いいえ。こちらこそ」

「お兄ちゃんにもあげてくる!」


 言い終わるが早いか、少女は袋から包みを取り出しながら走って行った。そうして自分の手元には一番気に入ったマドレーヌだけを残して、兄と連れだっている友達にも分け与えたのだった。


「良い子ですね」

「ええ。ここの子たちはみんな、良い子ばかりです」


 少女を見つめるリコリスは初めてこの町の丘から夜景を見たときのように幸せそうで、ブレティラもまた、その日と同じ優しい笑みで応えた。


 お祭りは夕方には終わって、片付けの後には婦人会や町内会の面々と打ち上げを兼ねた食事会が催された。酔った町内会の男性陣はなかなか手強く、料理ができることを黙っていた神父をいじり、シスターには何かと水色を絡めて、そのことでもまた神父をからかい、女性陣はその度に笑顔を引きつらせていた。

 明日のこともあるため二次会には参加しなかったものの、二人が帰宅したのは午後九時過ぎ。疲れ果てたブレティラは、玄関を入るなりリビングのソファに倒れ込んだ。


「はあー、だれた。ほんまにだれた」


 クッションに顔をうずめたままもごもごと口にされた言葉は普段にも増して癖が強く、リコリスはキッチンで手を洗いながらしばらく意味を考え、そして首をかしげた。


「だれ……た?」

「疲れた、や」


 一言答えたブレティラは顔を上げ、クッションを抱えて仰向けに向き直る。

 リコリスが二人分のレモンジュースを用意して行くと、ストローをさしたほうのグラスに手が伸ばされた。


「今までひとつも聞き返されんかったき、てっきり分かりゆうもんと思いよったわ」

「似たような話し方の子が施設に居たんだ。けど、そういう地方特有の言葉は分からない」


 彼は寝転がったまま目を閉じて、半分ほど飲んだグラスの置き場を求めて宙を泳がす。リコリスはすぐさまそれを受け取り、テーブルに置いた。

 L字に配置されたソファの長い辺はブレティラが占拠するため、リコリスはいつも狭い側、彼が枕にしている大きなクッションの横が定位置になっている。そこに居るとブレティラに手の代わりを要求されることも少なくはなく、飲み物やつまみの受け渡しをしたり、片付けてある毛布を取ってきて掛けたりと、何かと世話を焼くことになるのだが、好きに散らかされて後で掃除するよりはと諦めていた。

 そして早くもそれは日常化してしまって、互いに何をどうするといった言葉もないままにやりとりを済ませてしまうという熟練ぶりだ。


「西のほうの生まれなのか?」

「ああ。とっと西のほうじゃ」

「……とっと」

「ずっと」

「ああ」


 これまでは語尾や区切りの辺りに少し特徴がある程度だったのだが、今日はやけに癖が強い。素をさらけ出していたようで、まだ配慮がされていたらしい。

 疲れを取るためにもすぐに風呂の用意をして寝たほうがいいのだが、初めて自分のことを話す彼に興味が湧き、リコリスはもう少しだけそこに座っておくことにした。


「そんな遠くで生まれて、どうしてこっちに居るんだ?」

「ちょっと探し物に来て、そのまま居座ったようなもんかな」

「探し物?」


 問うと、ブレティラは目を開け、リコリスのほうへ視線を向けてふわりと微笑んだ。


「愛と幸福を探しに」


 細められた灰紫色の瞳は息をのむほど綺麗だったものの、語られた内容があまりに寒々しく、リコリスは思わず眉根を寄せてしまう。


「なんだそれ。気持ち悪い」

「言うと思うた」

「冗談にしても、もうちょっと面白いのあるだろ」


 はは、と声を上げたブレティラはいつも通りの気の抜けた笑顔に戻って、抱えていたクッションを腰の下へ敷いた。

 もぞもぞと寝る形を微調整している辺り、今日はこのまま寝てしまうつもりなのだろう。食事会の前に私服に着替えていなければ、法服を脱ぎついでにシャワーくらいは浴びたのかもしれないが。


「まあ、あれよ。帰らんままおるがは、前の神父に世話になったしやな」


 ブレティラの前に派遣されていた人は十数年もの間ここの神父を続けたそうで、町の人の話によると、親子と言われても不思議には思わないほど顔も性格も彼とよく似ていたのだという。彼に神職のいろはを教えた、師匠とも言える人。その人が居なければ今の自分はなかった、とまで言わしめる恩人で、神父ブレティラの振る舞いもその人の模倣なのだそうだ。

 極度の面倒臭がりを留まらせるほど、前任者の存在は大きいものらしい。


「忙しくてろくに帰れないんじゃ、家族も寂しがってるだろ」

「いや、おらんし。気ままな独り身や」

「あ……」


 グラスを持ったリコリスの手がぴくりと揺れ、中の氷が音を立てた。


「ごめん」


 少し間を置いての呟きは弱々しく、表情も曇っている。身寄りがないことの寂しさをよく知る彼女は、それを気ままなものだと言えるまで彼がどれだけの思いを経てきたのかを考え、自分のそれと重ねて、言葉を失った。

 二人で居るときはいつも図太く構えている彼女が、突然大人しくなったどころか、そのしかめ面は下手をすると泣き出してしまいそうにも見えて、ブレティラは思わず体を起こす。


「何、どうした」

「家族の……話、とか」

「べつに。お前も独りやろ」

「まあ、うん」


 俯いたままの表情は、変わらず、苦い。

 またすぐ寝転ぶには気が引けたブレティラは、ソファに座り直し、どう話を逸らすべきか迷いながら首の後ろへ手をやった。そのまま指の背で後ろ髪に手櫛をかけ、ヘアゴムを外して指先に遊ばせる。


「私は、名前と誕生日が刺繍された産着に包まれて、教会の前に置かれてたって話だ」


 リコリスはそう語って、溶けた氷の上澄みに口をつけた。人の傷に触れた分、自分の傷も見せるべきだと考えたのだろう。


「探したりは。せんかったがか」


 ブレティラは彼女の思いを察しながら、あえてそこに触れることを選んだ。

 同居までしていればそのうち彼女にも他の女と同じような変化があるか、あるいは彼のほうに拒否反応が出るのが先かと思いつつ過ごした三週間。互いに何の変化もないままというのは彼にとって不可解で仕方なく、彼女のことを知れば、その謎も解けるかもしれないと考えたのだ。


「一応は……けど、ずっと前にやめた」

「やめた?」

「リコリス・パシフローラ。この名前が唯一の手掛かりだったんだ。なのに、私が生まれた頃に子供を産んだらしい人は見つからなかった」


 それが一応という程度の探し方でないことは、当時を知らないブレティラにもよくわかった。そして、疑問を解きたいがために軽々しく触れたことをすぐに後悔した。

 リコリスは彼の相槌を待たないまま、また息を吸う。視線は手にしたグラスに落とされて、ぼんやりとしていた。


「けど、施設では何不自由なく育ててもらったし、きっと母親もそのために私を手離したんだろうって思っ……」


 もうそこまででいい。そう言葉にする代わり、ブレティラは赤い髪に手を伸ばした。

 ぽん、ぽん、と軽く触れてゆっくり撫で下ろすと、からかったときに向けられるものと同じしかめ面が赤の隙間から覗く。


「……なんだよ」


 呟いたリコリスの声色は、いつもの調子に戻っていた。


「ちょっと、撫でてみとうなっただけや」


 無言のまま睨みをきかせる彼女にいつも通りの飄々とした笑みを返して、ブレティラは静かに手を離す。指先に一筋の赤が掛かって、はらりと彼女の頬を打った。

 目を伏せたリコリスは頬を撫でたばかりのそれに触れ、すう、と毛先まで指を滑らせる。その表情は、無意識に口数が増えていた自分を振り返り、戸惑っているようだった。


「今も会いたいやったら、探してもろうちゃろか? その方面に強い知り合いおるけど」

「ううん、いい」

「そうか」

「うん」


 それから視線は交わされないまま、少しの沈黙。

 ブレティラはソファに転がり直してぼんやりと天井を眺め、リコリスはグラスの外に付いた水滴を少しずつ指先でなぞっていた。


「…………なあ」


 やがて滴を落としきったリコリスが、静かに口を開く。

 ん、と返事を鼻に抜けさせたブレティラがそちらに目をやると、顔は彼の側に向けながらも視線を逸らす、ばつの悪そうな彼女が居た。


「その……ありがと」

「なっちゃあ気にするによばん。けんどづつのうてしゃあないき、その時ゃあほんまに言えよ」


 ブレティラが答えると、リコリスの視線は彼に注がれ、眉根が寄せられる。


「何だよそれ、全然分からない。わざとだろ」

「さて、何のことやら」


 へらりと笑った銀髪男はグラスに手を伸ばし、寝転がったまま、すっかり薄くなってしまったレモンジュースを飲み干した。ストローの先が、ずず、と小さく音を立てるが早いか、不機嫌面のリコリスがそれを奪う。同じように眉がしかめられていても、その表情に先のような苦しげな色は見られない。

 リコリスは彼がわざとそうしていつも通りのやりとりへ引き戻そうとしていることを感じながら、それ以上は何も言わずキッチンへと立った。

 程なくしてソファから寝息が聞こえはじめ、リコリスが毛布を出した頃にはもう、彼は叩いても揺すっても起きそうにないほど熟睡していた。垂れた片腕を胸に上げ、今にも落ちそうなクッションを頭の下に敷き直しても、ブレティラは呼吸ひとつ乱すことなく眠りこけている。


「おやすみ」


 リコリスはリビングの隅に置いた花のスタンドライトを点け、階段を上がったところで部屋の明かりを落とした。

 ふんわりと、どこかから甘い花の香りが漂ってくる。思い出話で珍しく取り乱してしまった彼女の心を落ち着かせるにも丁度良い、ジャスミンの香りだ。


「──聞いた通りや。お前やったら、すんぐに探せるやろ」


 ブレティラの小さな寝言に、誰かの笑い声が応えた。

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