第2話 面倒臭い
町外れの丘の上にぽつりと佇む一軒家。玄関を入ったリコリスの前に、リビングダイニングの空間が広がった。
正面には白を基調としたカウンターキッチンとブラウンの四人掛けテーブル、その上に色とりどりのラナンキュラスが生けられている。左手の広い空間にはグレージュの大きなソファがL字に置かれているのだが、背もたれに毛布が掛かっているところを見るに、主はそこをベッド代わりに使っているらしい。
毛布がぐちゃぐちゃに垂らされていることを除けば、無駄なもののない綺麗な家だ。
「先に部屋案内するわ。二階や」
リコリスの手から紙袋を取ったブレティラはそれをダイニングテーブルに置き、空間のほぼ真ん中から伸びた階段を指す。リコリスは彼に続いてテーブルの横を通り抜け、二階へと上がった。
「あ、トイレは下だけな。階段上がらんとに奥行ったとこや、あとで見せる」
上がった先の廊下の左手は収納庫、階段からほぼ一直線で入ることのできる扉がブレティラの部屋。その右隣の扉が開け放たれた部屋に、リコリスが昨日送った荷物が積まれていた。
広さは十五平米ほど。入った正面に大きめの窓があり、ブレティラの部屋との仕切りの壁側に小さなテーブルと椅子、反対側にセミダブルのベッドが置かれていた。出入り口の扉の横にあるクロゼットも十分な広さで、部屋の真ん中に積まれた箱五つと衣装ケース二つ程度のものなら無理なく収まる。
「とりあえずここへ入れてもろうたけど、奥も空き部屋やし好きなほう使うたらえい。向こうがちょっと広いかな、けんど窓が小さい」
「べつに、ここでいい」
移動は大仕事というわけではないが、あえて移る理由もない。彼女が育った施設でも寮でも、これより狭い部屋を二人で使っていたのだ。これ以上広くなっては逆に持て余しそうだった。
その答えを聞き、彼女の荷物を衣装ケースの上へ置きながら、ブレティラが怪訝な顔で振り返る。
「隣、俺の部屋やけど?」
「だから?」
「いやほら、一応俺らアレやし、うっかり何かの間違いとか……」
こめかみから差し込んだ手でぐしゃぐしゃと髪を乱しながら、しかめ面で言葉が濁された。下心などないどころか、そんなことを想像するのは彼本人が一番嫌だろうに。
案の定勝手にげんなりしている彼に、リコリスは小さく溜め息を吐いた。
「ないだろ」
「うん。そんな面倒臭いことするわけない」
「あるなら部屋ひとつ分離れたって何の意味もないし」
リコリスは言葉を切り、軽く握った右手の甲を左手の平に打ちつけた。
「万一あんたが血迷っても、すぐに目覚まさせてやるから安心しろ」
「おお怖い」
ぱん、ぱんと弾ける音に、ブレティラの笑顔が引きつる。けれどその声色は、少しほっとしているようでもあった。
きっと彼はまた試したのだ。リコリスが本当に「安全な女」なのかを。
「で、要るもんあるか? 経費で落とすき、何でも欲しいもん言うちょけ言うちょけ」
そう言った彼の声は、先よりも少し明るい。笑みもへらりとして、緊張感など欠片も見られなかった。
「ええと……スタンドライト」
「……と?」
「それだけだ」
部屋の電気を消してしまった後、枕元に明かりがほしい。ざっと部屋を見渡し、一日の流れを想像したものの、リコリスにはそれしか思い浮かぶものがなかった。
あれこれとこだわって揃えたところで、朝は五時起き、仕事終わりは六時が定時。それから食事をして入浴を済ませればあっという間に寝る時間で、自分の部屋はベッドのためにあるようなものだ。
そんな彼女の答えに、ブレティラは不思議そうに首をかしげる。
「鏡台とかは」
「ああ、うん、そこにスタンドミラー置くから大丈夫だ」
壁際のテーブルを指差したリコリスは、ああ、と何か思い出したように声を上げたものの、すぐに難しい顔をした。
「姿見はあったら嬉しい……けど、洗面所に鏡あるだろ? なら、なくていいや」
相部屋の頃、ルームメイトが全身映せる鏡を買っていて、リコリスも毎日活用してはいた。けれど絶対に必要かと言われればそうでもない。胸から上が映り込みさえすればいいのだから、洗面所にあるならそれで十分だ。
「一応あるけど。けんど大きいやつも、あったら使いたいがやろ」
「うん、まあ……」
「よし、ほんなら明日早速買いに行こう」
煮え切らない返事をするリコリスを無視して、ぱん、と手が叩かれた。
勿体ないから構わない、と言おうとした彼女はブレティラの言葉を思い返し、瞬きした。すぐに面倒臭いと言う人が、わざわざ他人の買い物に同行しようというのだ。
「え、一緒に?」
「紹介も兼ねてな。俺が一緒やったら手っ取り早いわ」
田舎町をなめるなよ、と笑った彼の、困ったような表情。それが何を意味するのか、リコリスにはわからなかった。
「んで、飯も明日美味いもん買うとして……とりあえず今日は簡単に済ますか」
「ああ、じゃあ私が作ろうか。今日は来ただけで何もしてないし」
困り顔の余韻を残したままへらりとして見せたブレティラは今にも「面倒臭いし」と付け足しそうで、リコリスは反射的に申し出た。
彼女も慣れない長旅をして疲れてはいたが、相手は朝早くから働いて、とどめにファンクラブに囲まれて消耗しきった身だ。
「かまんかまん。用意は済ましちゃあるき、あとは焼くだけ盛るだけや」
何も問題はない、と手を振った彼の言葉を鵜呑みにして家中を見て回っていたリコリスは、二十分後、テーブルの上を見て硬直した。
てっきり温め直した貰い物のおかずと極簡単な炒めものの類が出てくると思い込んでいたその場所には、温野菜を添えた鱈のムニエルにトマトリゾットにポタージュスープと、内容も盛り付けも飲食店さながらの食事が用意されていたのだ。
シャンパングラスを持ってきた銀髪男は法服を脱いだだけの肌シャツ姿、ズボンも何日同じものを履いたのかというほどシワだらけで、テーブルのきらびやかさに不釣り合い極まりないのだが、それを差し引いても料理への驚きが勝っている。
「言うても最初やしな。ちょっとだけ、えい格好や。びっくりした?」
「……うん」
良い格好をする気があるのなら、せめて身なりをもう少しきちんとすればいいものを。という言葉が、リコリスの声になることはなかった。
「えらい大人しいやないか。まあ、冷めんうちに食え食え」
先に座ったブレティラは捲り上げたシャツの袖を直しながら気の抜けた笑みを浮かべ、向かいの席を指してリコリスにも座るよう促す。
戸惑いながらも椅子に腰掛けたリコリスは、ふう、と息をひとつ吐いて胸の前で手を合わせた。
「我、今幸いに、この食を受く。スーリヤの恵みを喜び……ありがたく、いただきます」
そして一口目を頬張ったまま、また、硬直。
「…………美味しい」
ぽつりと吐息混じりに呟いた彼女の反応にブレティラは安堵の息を吐き、食器の触れ合う音と静かな咀嚼の音だけの時間が流れた。
リコリスはソースの滴ひとつ残すことなく食事を終え、ブレティラは皿を下げながらその気持ちの良い食べっぷりに感心していた。多めに作っておくべきだったか、と独り言を漏らした彼の視界の端に無言で頷くリコリスの姿が映り、彼もまた、声を出さないまま笑った。
「あの……さ、家事って、当番制なんだよな」
「そのつもりやけど」
紅茶のティーバッグをカップから上げながら、リコリスが神妙な面持ちで口を開いた。
洗い物を終えたブレティラもマグカップを片手に彼女の後ろを通り過ぎ、リビングのソファへと腰を下ろす。
「食事も……?」
「掃除洗濯炊事全部や。ただし先に言うちょく、俺は掃除ができん。面倒臭い」
「だろうな。そんな気はしてた」
自信満々といった様子で言ってのけたブレティラの態度が、リコリスの溜め息を誘う。
彼女も覗くつもりはなかったのだが、家の中をうろついているとき、開きっぱなしの扉から彼の部屋の様子を見てしまっていた。大きめの旅行鞄が広げられたベッドは掛け布団が半分以上床に落ち、脱いだ後らしい服が何着もバスケットに入りかけたまま倒れて散乱していたりと、そこは散々な有り様だったのだ。
「じゃき、俺がせんでかまんように思いっきりやってくれ」
「なら私も、料理は……」
これ幸いと無茶を言いかけたリコリスに、ブレティラはマグカップを運んでいた手を止め、軽く眉根を寄せて彼女を見やる。
「もしかして作れんがか」
「違う。できるけど」
「んならやってくれや」
「こんな上手い奴に、何出せって言うんだ」
自分は掃除を拒否したくせに、と言いたい思いを紅茶と一緒に飲み込んで、別の言葉での応戦。どう言っても彼が聞き入れてくれないだろうということは、リコリスも内心わかってはいた。
「俺も一人やったらトマトかじるだけとか、パンだけで済ますわ。今日はたまたま作ってみただけや。毎日毎日こんなもん作れるか、面倒臭い」
「でも、ちゃんと作ったら上手いんじゃないか」
「ちゃんと作らしたかったら飯も当番制じゃ」
「掃除は私にだけさせる気のくせに」
「掃除は一回したら何日でもいけるやろ。飯は日に三回やぞ、三回」
口論を経て、結局食事は日替わりの交代制、ただしブレティラも手を抜くことはあっても真面目に調理することを条件に、掃除の件をリコリスがのまされる形で決着した。
損していると感じながらも、相手は上司で年上、置くも追い出すも彼の意思ひとつという関係上、リコリスも対等を望むわけにはいかなかった。
入浴後に部屋の整理を進めながら、リコリスははたと気付いた。
掃除はできない、面倒だと言いながら、彼女があてがわれた部屋は綿埃ひとつ落ちていないし、布団も陽に当てていた香りがする。料理は凝っていたし、後の洗い物もきっちり済ませて、風呂場も綺麗なものだった。女嫌いの件も然り、言っていることと実際にしていることが噛み合わない、ブレティラとはどうにも奇妙な男だ。
ソファに転がって本を読む彼に一声かけたリコリスは、窓から差し込む月明かりの中、ぼんやりと天井を眺めながら眠りについた。
そして、翌日。
洗濯を済ませ、ブレティラとともに買い物に出た彼女は、彼が見せた苦笑いの意味を存分に思い知ることとなった。
神父様ファンクラブと称された女たちに話した内容は一夜にして町中に広まり、会う人会う人が「噂の人」としてリコリスに興味の眼差しを向けたのだ。中には、浮いた話ひとつ立たない神父にもついに春が来るかと冗談めかして笑う人もあった。
話によるとアガパンサスの神父は二代続けて独身で女っ気がなく、町の人が見合いを世話しようとするも断り続けてきたのだという。いつまでも独り者で居させてはなるまいと奮闘していた年配層は、ブレティラが女の同居人を持ったことを喜んでいた。宗の教会の中には神父とシスターが夫婦関係という例も実際にあるため、あわよくば、という思いが強いようだ。
そんな彼らの笑顔を当たり障りなくかわしながら、二人は目的の店へと向かう。
「ああ、シスター。そこじゃなくて」
「え?」
町の人と会話した流れのまま声をかけられ、リコリスは一瞬戸惑った。そして心の中で、ああ、と合点した。
ブレティラが振る舞いを切り替えるのは、誰と居るかではなく、どこに居るかなのだ。だから昨夜も、町を抜けて人気がなくなるまで彼本来の話し方を避けて、口を開かなかったのだろう。
「家具屋はここですよ?」
「あちらのほうが、女性の好みに合うものが選べるかと」
彼が指差したのは、二軒隣の雑貨屋。入り口周りに可愛らしいウサギやリスのオーナメントが飾られて、佇まいからして子供や若い女が好きそうだ。
あれこれと欲しいものを見つけてしまいそうで、リコリスとしては家具屋のほうが誘惑も少なくて済んだのだが。
「可愛らしいお店……ですね」
「可愛いものは嫌いですか?」
「……好き、ですけど」
柔らかく問いかけながら、笑みには微妙に、リコリスへのからかいが含まされている。そんなブレティラに強く反発もできないまま、彼女は店内へと誘われた。
店主とその夫人に挨拶した後、姿見はすんなりと決まったのだが、スタンドライトの前で随分と時間を費やした。はじめは一緒に眺めていたブレティラも途中からふらりと居なくなり、ぬいぐるみやらパペットやらを持ってきてはリコリスの邪魔をしていた。
「両方買ってしまったらどうですか」
「そんな無駄遣いできません。あの部屋に二つもは……」
「ひとつはリビングに置けばいいんですよ。ねえ、フクシアさん」
「ええ、ええ。いつもお世話になっていますから、お安くしておきますよ」
声を掛けられた店主は奥からいそいそと現れて、何か書き付けたメモをブレティラに見せた。ペン先が二台のスタンドライトを交互に指してはまたメモに何かを書き、二人してリコリスを見て、にこりと笑う。
「なら、ご厚意に甘えて両方お願いしましょうか」
「はいはい! ありがとうございます。まとめて夕方のお届けで構いませんかね?」
「ああ、そうしてもらえると助かります」
懐が痛まないからといって浪費するわけにはいかないというのに、リコリスを置き去りにしたまま話がまとまり、ついには会計まで終わってしまった。
いたたまれない思いで背中を見つめる彼女を振り返り、ブレティラはにこりと笑った。
「ひとつは私からのお祝いですから、気にしないように」
「それはそれで、あの……」
「いやいやシスター、せっかくなんだ、甘えておきなさいな。ありがとうって笑って受け取ってくれるほうが男は嬉しいもんだよ」
店主が二枚の領収をブレティラに手渡しながら、躊躇するリコリスの言葉を遮る。
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
ふわりと微笑んだブレティラの表情は何の曇りもなく優しげで、リコリスにはそれがどうしようもなくむず痒かった。
不意打ちの贈り物に、何の見返りも求めない笑顔。口を開けば面倒だ邪魔臭いと言って、家を出る直前まで髪も服もぐちゃぐちゃのままソファに転がっていた男とはまるで別人だ。
「ブレー神父は優しいからね、町の娘はみんなこの人に惚れてるよ」
「またまた、ご冗談を」
「毎日大変だろうと思うんだけどねぇ、邪魔しちゃあ悪いし、あの子らが集まる時間には年寄り連中は遠慮してるんですよ」
二人のやりとりを聞きながら、リコリスは胸の中で、無理もないことだろうと相槌を打った。もしもこの男の本性を知らないままだったなら、今の笑顔と心遣いで、リコリスの心も少しは揺れていたかもしれない。好きになりはしなくても、好印象ではある。
ぼんやりと二人を眺めていると、店主がリコリスのほうを見て、にこりと笑った。
「色々と大変でしょうが、頑張りなさいよ。応援してるから」
「え、ええ。頑張り……ます」
店主の意図との食い違いを感じながら、リコリスはとりあえず笑顔で応え、困り顔で会釈したブレティラに続いて店を出た。
「何を頑張るんでしょうね」
二軒分ほど離れた頃、ブレティラが声色はそのままに、やれやれといった様子で笑った。
「忍耐、でしょうか」
「ああ。それは確かに骨が折れそうですね」
「自分で言ってしまいます?」
「それはもう、あの通りですから」
それも自分で言うのかと思いながら、リコリスは彼の背中に向けて小さく溜め息を吐いた。
遅めの昼食で店に入った後にも何軒か挨拶回りをして、食糧の買い出しをする間や家に帰る道々でも会う人会う人に同じ言葉を繰り返し、丘の坂道に差し掛かる頃には陽が傾きはじめていた。
「帰り着いて一息つきよったら、丁度えい頃合いやろう」
その言葉通り、買ってきた食材を冷蔵庫や棚に仕分け終わって飲み物を注いだ頃に呼鈴が鳴り、雑貨屋からの荷物が届いた。
先に姿見だけをブレティラが持って上がり、リコリスは二つのスタンドライトを箱から出してリビングに並べる。
ひとつは花をかたどったもので、リコリスの背ほどの高さまである濃い深緑色の茎が頭を垂らし、優しいオレンジ色の明かりを咲かせる。もうひとつはそれよりも少し白みの強いランプを吊るした形で、黒い支柱のカーブ上に同じ色の小鳥が三羽とまっているもの。どちらを部屋に置くかで、また彼女を悩ませた。
「そんな難しい顔せいでも、日替わりにしたらえいやないか」
「毎日持って上がったり下りたりするのか?」
「……ああ、うん、面倒臭いな」
溜め息とともに納得したブレティラが手を伸ばしたのは、鳥とランプの側。
「とりあえず今はこっちかな」
「なんであんたが決めてるんだ」
「どうせ決めれいで悩み続けるやろ、とりあえず置いてみいや」
そう言ってあっさりと、二階へ持って上がりはじめてしまう。リコリスが後に続こうと階段の下に立った頃には、彼はもうそこを上りきっていた。
その後ろ姿を見るリコリスの脳裏に、ひとつはプレゼントだと言ったときの彼の笑顔が浮かぶ。実際どちらがそうというわけでもないが、そうして買ってもらったものを部屋に置くのは少し気恥ずかしいような、妙な気分だ。
彼女が自室に入ると、ブレティラはそれをベッドの横に置き、コンセントを差して明かりを調節していた。
「あんた、誰にでもああなのか?」
「ああって?」
「これ、買っ……てくれた……だろ」
リコリスの声が途中で極端に小さくなったことで、きょとんとしていたブレティラが小さく笑った。
それきり目を逸らしてしまった彼女に背を向け、セッティングが続けられる。
「お前やし特別や。早々に出て行かれんように賄賂やと思うちょけ」
普通なら女に贈り物なんて、後が怖くてできたものじゃない。そう独り言のように笑った彼がふと手を止め、恐る恐るといった様子で振り向いた。
何かまずいものを見るように横目でリコリスを視界に入れるその口元が、軽く引きつっている。
「もしかして……惚れた?」
「なわけないだろ」
最悪と感じた初対面から後、好印象な面も少しずつ見つけはしたものの、あくまでただの上司、ただの同居人。この男に恋愛感情を持つ自分、という姿が、リコリスには想像もつかない。
彼女が間髪いれず冷めた声を返すと、横顔の緊張が解け、ふう、と息が吐かれた。
「よかった。惚れそうになったら言うてくれよ、すぐ逃げんといかん」
冗談めかして笑ってはいるが、先に見せた表情はどう見ても本気だった。まるでこれまで関わった女すべてが例外なく彼に恋して、彼を悩ませてきたかのようだ。
いくら毎日囲まれてちやほやされている事実があるとはいえ、その間違った自信の持ちようにはリコリスも呆れるしかなかった。
「まあ……誰にでもあんな風にしてて女嫌いだとか言ってたら、本気で馬鹿だよな」
「辛辣なお言葉で」
溜め息とともに吐き出された彼女の呆れ声には、苦笑いが応えた。
「……よし、こんなもんか」
ブレティラが数歩下がってスタンドライトを眺め、大きく頷く。ベッドのためだけにあった殺風景な部屋が、それひとつ置いただけで随分と印象が変わった。
ベッドに腰を下ろして眺めるうち、リコリスの顔が無意識にほころぶ。彼女が視線を感じて振り向くと、腕を組んだブレティラが優しい微笑みでその様子を見つめていた。
「なんだよ」
「そんな顔もできるがやなーと思うて」
目が合うとすぐに、へらりとしたものにすり替えられて、元の残念な男の顔が戻ってくる。
「惚れるなよ。あんたとか有り得ないから」
「俺に惚れさすとか、どんな自信や」
「それ、私もさっき同じこと思った」
一瞬きょとんとしたブレティラは、ああ、と一言漏らして、はにかみ気味に手を振った。
わかったならいい、と含ませて頷き、リコリスはまたライトを眺める。いくら見ていても飽きないのは嬉しい反面、寝る前に点けておくものとしては少し困るかもしれない。
「あんたも女嫌いさえなきゃ、人生すごく楽しんでたんだろうな」
「ああ、まあ……そうかなぁ」
「致命的だよな。前世でどんな悪人だったんだか」
「そりゃもう、とんでもないクソ野郎やったって話やけど」
まるで知っているかのような口ぶり。思わず振り返ったリコリスの視界の端に、一瞬、苦い顔をした彼が居た。
「昔、水鏡持った奴に言われたわ」
「なんだそれ、胡散臭い」
「けんど当たってそうやろ?」
「自分で言うか」
どこの占い師か、こんな外見とはいえ仮にも神父に向かってそんな表現をするとは随分と勇気がある。話を聞いたリコリスも、もしかすると有り得るのかもと思ってしまう辺り、その人物と同じくらいに失礼なのかもしれないが。
「さて。そんなクソ野郎とやけど、一緒に飯食うてくれる?」
「あんた、なんだかんだで楽しんでるだろ」
「そうやないとやってられんやろ。クソ野郎やぞ、クソ野郎」
夕食は滅多にない贅沢だと言って、仕出し屋のオードブル・デザートの盛り合わせとパエリアに、二種類のスープが添えられた。
話題は専ら、昼間会った人たちのこと。花屋のフローラ氏は女性たちが神父へ贈る花の一輪一輪に気を遣ってくれる人で、昨日受け取ったガーベラも、すでに生けてあったラナンキュラスとよく合っている。雑貨屋のフクシア夫婦には孫が二人居て、その兄妹は毎日のように教会へ遊びに来るのだという。
リコリスが食事の片付けをしている間にブレティラが風呂の用意を済ませて、入る順番はリコリスが先と決められていた。
「ああ、そうや。入浴剤も好きに使えよ」
「入浴剤? どこに?」
「脱衣所の棚の隅にあるやろ」
指された場所には、口を縛られた白いビニル袋が二つ。リコリスが昨日、何が入っているのか気になりながらも確認することを避けた代物だった。
「もうちょっとマシな置き方しろよ」
「脱衣所に置いちゃあるだけマシと思うてくれや」
袋の中にはラベンダーやセージ、カモミール、ペパーミントにオレンジと、ブランドも小袋の大きさも様々な入浴剤がごちゃ混ぜに詰め込まれている。彼が買って集めたとは思えない、となると、リコリスに思い当たる節はひとつしかなかった。
「これって、もしかして」
「捨てるわけにもいかいで、たまに使いゆうけど増えるばっかりや。毎日でもかまん、適当に選んで使うてくれ」
「……やっぱりか」
くじを引くようにして中を見ないまま彼女が手に取ったのは、ピンク色の薔薇が描かれた小袋。それ以外にも、女の趣味のものが混じっている。
きっと送り主の中には、彼から自分と同じ香りが漂うのを楽しみにしている者もあるのだろう。
「なんか悪いな。私が使うの」
「その後に俺が入りゃあ、おんなじことや」
女たちの淡い期待にブレティラは気づいているのか、いないのか。あえて気分を下げさせることもないだろうと、リコリスはそれ以上何も言わず、脱衣所の扉を閉めた。
そうして小袋を浴槽の隅に置いたまま髪も体も洗い終えてしまった彼女は、ついに人の恋心にあれこれ配慮することが面倒になり、溜め息とともに封を切って湯船に溶いた。
「なんか……やな奴だな、私」
彼女たちの恋路を邪魔する気など毛頭ない。好きならば勝手に好きでいればいいし、あからさまなアプローチがふしだらに見えようと、それでブレティラがどんな思いをしようと、自分には関係のない話なのだからどうでもいい。この入浴剤も、持ち主が自由に使っていいと言うから使っているのだ。
人を思いやる心を大切に、と教わって育ったというのに、それを面倒だと感じた上に頭の中であれこれ言い訳まで考えてしまう自分に苛立ちを感じながら、リコリスは薄桃色の湯の中でぶくぶくと息を吐いた。
そうして始まった共同生活。ブレティラは自分が平気なのをいいことに、よくリコリスをからかった。あるときは壁に手をついて逃げ道を奪い、またあるときは不意に至近距離まで顔を寄せて笑い、彼女がどんな顔をしていても一瞬で不機嫌をあらわにする様をいちいち楽しんで、まるで新しいオモチャを見つけた子供のようだった。
そのふざけ方や普段のだらけぶりがあまりにも酷かったため、リコリスの彼に対する呼び掛けに名前が混じりはじめた一方で、「あんた」だった指し言葉はより近しくも乱暴に「お前」へと変わってしまっていた。
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