mortal

村崎いなだ

神父の秘密

第1話 稀有な出会い

 やっと修学を終えてひとりのシスターとして扱われるまでになり、学舎を発つ式典の後のこと。リコリスは長年世話になった人に呼び止められ、ある町の教会で働かないかと話を持ち掛けられた。

 宗の養護施設で育った彼女には門出を祝ってくれる血縁者も帰るべき場所もなく、この後の仕事も、施設に居る子供たちの面倒を見てくれればと言っていた恩師の優しさに甘えるつもりで特に探しもしていなかった、そんなところへ舞い込んだ話だ。

 恩師によると、この春からはどの教会にもシスターを最低一名は在籍させることになったのだが、アガパンサスという小さな町はまだ人が決まっていないのだという。神父と同居にはなるものの住む場所が用意されていて個人の部屋も持てる上、神父も家事ができる人で、当番制で分担するのはどうかというのだ。

 リコリスは二つ返事で話を引き受け、翌日すぐにその町へと発った。


 電車と汽車の乗り継ぎを四回、駅から二時間に一本しか出ない乗合バスを待って辿り着いた町は、言わずもがな都会から離れた静かな場所。民家は平屋が多く、都会的な商業施設のようなものは一切見当たらない。少し不便と言えば不便なのだろうが、町中に緑が溢れ、空気も申し分なく澄んでいる。施設の質素な生活に慣れた彼女にとっては、水と電気とガスが通ってさえいれば、それ以上に望むことは特になかった。

 直近の不満といえば、急な引っ越しのため業者に日時指定ができず、二日分の着替えや身の回り品を詰めたバッグが予想以上に重いことくらいだ。早々に脱いでしまったジャケットを押し込む隙間もなく、それも邪魔になっていた。

 バランスを取るため斜めになって歩くリコリスの頬を、風が優しく撫でる。真っ赤な長い髪と花柄のストールが揺れ、カーゴパンツから垂れたサスペンダーがカーキ色の生地の上を跳ねた。


 町の中央通りを抜けて到着した教会は、白い壁にエンジ色の屋根、いくらかの窓がある以外無駄な装飾は何もない、素朴な作りだ。

 丁度集まりが終わったらしく、扉は彼女が手を掛けようとするより先に開き、中から子供たちが元気よく走り出てきた。


「ばいばいブレー!」

「ほらほら、走ったら危ないですよ。気をつけて」


 開けた扉を高い位置で押さえたまま、優しい笑顔で子供たちに手を振ったのは、法服を身につけた銀髪の若い男。歳は二十代半ば頃に見える。リコリスの恩師は神父以外の人については何も言っていなかったが、年齢からして輔仕ほじという、神父の補佐にあたる人だろう。

 彼の視線を感じたリコリスは荷物を下ろし、様子を窺いながら軽く頭を下げた。


「待っていましたよ、きたるべき人」


 彼は静かにそう言い、灰紫色の瞳を細めて微笑んだ。

 整った顔が浮かべる笑みに思わず固まってしまった彼女の前へ、手が差し出される。


「えっ、と……」


 妙な言葉にリコリスは少し戸惑いながら、彼と握手を交わした。

 法服を着てはいるが、失礼ながらこの職が似合っているとは言いがたい。ミディアムウルフの襟足だけを背の中程まで伸ばして結ぶというちゃらけた髪型、視線のやり方や手つき、その声色、どれをとっても、酒絡みの店で女をはべらせているほうが様になっているような人だ。


「さあ、中へどうぞ」

「は、はい」


 通された教会の中は、質素な外観に似合わずしっかりとしていた。

 正面に立つ乳白色の神の像に窓からの陽の光が降り注ぐ様は神秘的で、リコリスの手は自然と胸の前で合わさる。


「だいぶ遠かったやろ。お疲れさん」


 彼女が感動とともに神の名を口にしかけたそのとき、気だるそうな男の声がした。

 思わず辺りを見回したリコリスの目に映ったのは、木製の長椅子に荷物を置いた銀髪の男ただひとり。子供たちに向けていた優しげな笑顔が一変、聞こえた声そのままといった表情で、後ろ髪の結びが乱れるのもお構いなしに後頭部を掻いていた。


「あれ、神父様は……?」


 いくら見渡せども、リコリスが思い描いていたような神父の姿はない。居るのは、女好きする顔の銀髪男だけだ。

 この日は一日教会に居ると聞いていたというのに、そんな人は現れず、招き入れてくれた彼からの不在の断りも未だない。


「え、俺やけど?」

「うそ」

「ほんまや」


 この町には年配の神父が居るのだと、彼女は誰に聞くでもなく思い込んでいた。こんないかにも軽そうな若い男と知っていれば、簡単に引き受けたりしなかったものを。


「ジジイ想像してた。かなり年代モノの」

「俺も、こんなド派手な頭のが来るとは思わなんだ。それに口も悪い……叩き直すにも時間がかかりそうや」

「っさいな、自分だって猫被ってるくせに」


 呟いた言葉に対する男の反応に、リコリスは初対面にもかかわらず、遠慮なく本音をさらけ出した。

 彼女は昔から足も手も傷だらけにして走り回るような子供で、施設でもよく男の子を泣かしてはシスターに叱られていた。厳しい寮生活の中でも生来の元気すぎる性格は矯正されることなく、シスターとしての慎みは覚えたものの、娘盛りの年頃になっても変化があったのは身体的なものだけ。口元のホクロに似合うような色気や、ましてや淑やかさなど備わるはずもなかった。いっそ男に生まれていたかった彼女にとって、年々豊かに膨らんだ乳房も、毎月襲いかかる腹の痛みも、煩わしいものでしかない。

 そんな性分だと知っているからこそ恩師もさほど気にせず話を持ってきたのかもしれないが、さすがにこれは無い。貞操がどうのという意味ではなく、これは見た目からして、リコリスが生理的に好かない類の人間だ。


「まあ俺も、気は遣わんでよさそうやな。神父のブレティラ・シレネや、今日からよろしゅう」


 けれどどれだけ嫌と思っても、今更どうしようもない。一度町を見に行ってから決めてはどうかと勧めてくれた恩師に従わず、書類はすべて昨日のうちに宗の中枢機関にあたる教化伝導協会の窓口へ提出してしまった。協会が設立した登録所の規定では、派遣された神父及びシスターは特別な理由がない限り、着任から半年経たなければ転属が認められない。

 その日を心待ちにしつつ、この町で、この神父とともに過ごす以外に道はなかった。


「リコリス・パシフローラだ」


 もう一度握手にと差し出された彼の手に触れたリコリスは、その次の瞬間、信じがたい光景を目の当たりにした。彼女の手は持ち上げられ、その手首に軽く、彼の唇が押し当てられていたのだ。


「っ、……!?」

「リコリスか。髪の色にもよう似合う名前やな」


 解放されることを待つまでもなく振り払い、触れられた箇所の皮膚が熱を持つほど強く服に擦りつけながら、リコリスは彼を睨みつける。

 この扱いは、仕事のパートナーではなく女に対してするものだ。


「何するんだ、気色悪い」

「ただの挨拶や。気にせんでえい」

「そういうのは女相手にするもんだろ」

「ほう。女やないシスターか、聞いたことがないな」


 意地悪く向けられた彼の笑みに、リコリスの神経が逆撫でされる。

 視線は淫靡、笑みは嫌味。初対面から彼の何もかもが気に入らない。


「私……は、シスターじゃない。そう、手伝いだ、手伝い」

「俺が探しよったがはシスターや。違うがなら、お引き取り願おうか」


 ブレティラは手の先に荷物を引っかけ、リコリスの胸元へ押しつけるように突き出す。

 リコリスははっとして言葉を失い、渋々諦めた。一時の感情でここを飛び出しても行く場所はなく、自分で負うと決めた責任を今更身勝手に放棄するわけにもいかない。


「……シスターだ。それでいい。けど、二度と馬鹿な真似しないって誓え。今この場所でだ」

「俺に命令するか。こりゃあ頼もしいこと」


 凄むリコリスを鼻で笑い、神父は新人シスターの荷物を奥へと運びはじめる。


「控え室はこっちや。面倒なことになるき、早う着替えちょってくれ」

「えっ……明日からって話だろ」

「お前が自分で着替えんつもりなら、俺が無理にでも着替えさせるぞ」

「ああ、もう! 何なんだよ!!」


 定時まで残すところ一時間半、もう今日の集まりの類は終わっている。あとは来るか来ないかもわからない誰かを待ちながら過ごして、最後に少し掃除をするだけのはずだ。

 これまでは相手が多少横暴でも大らかな気持ちで受け流してこられたというのに、どうしたことかこの男には無駄なほど苛立ち、それをさらけ出さずにはいられない。リコリスはやりきれない思いでストールを握りしめた。


「神よ。スーリヤよ。どうしてあんな者の下へ私をお導きになったのですか」


 胸にもやもやを抱えたまま、頭から被った紺色のワンピースに袖を通し、カーゴパンツを脱いでタイツに履き替えて、鏡に向かう。装飾のないコームで髪をまとめ上げ、後れ毛は目立たない色みのピンで留めて、唇には艶の出ないリップクリームを塗り直した。

 ひどいしかめ面をしていることを除けば、きちんとしたシスターの出来上がりだ。


「試練……そう、試練だ。きっと」


 誰にでも平等に、と教えられて育ったはずなのに、嫌悪を剥き出しにして接してしまった。それもこれから上司になる人に向けてだ。自分でも呆れるほど醜い顔で楯突いたというのに、怒って追い出さなかったあの神父は、実はとても出来た人なのかもしれない。

 きっと神は、あえてこの場所を与えたのだ。未熟さを思い知らせ、改めさせるために。この出会いも、きっと何かの縁なのだ。そう思うことにして、リコリスは本堂へ戻る扉を開けた。

 そしてすぐ、一瞬でも神父を「出来た人」かと思ったことを後悔した。


「神父様、今日のお夕食は決まってらっしゃいますか? まだでしたらこちらを……」

「クッキーを焼きすぎてしまって、よろしければもらってやって下さいな」

「このご本、とても勉強になりました。またお借りしてもよろしいですか?」

「美味しいハーブティーが手に入りましたの。是非神父様にもと思って」


 五、六人の女に囲まれて、まんざらでもない様子の銀髪男。先程ぐちゃぐちゃに掻いた髪は、綺麗に結び直されている。

 中に居るのも、開かれた扉の向こうにちらほら見えるのも、すべて女性。そしてどの人も、教会や神父に用がある様子ではない。彼女たちの目的は、ブレティラという一人の男だ。

 そしてブレティラを囲んでいる中の一人が彼の姿越しにリコリスを見つけ、まあ、と大きな声を上げた。


「やだ、恥ずかしい。シスターがいらっしゃったのですね」


 その言葉で全員が水を打ったように静まり、一斉にリコリスへと視線を向けた。

 同じく彼女の側を見たブレティラは一瞬不満げに眉根を寄せたのだが、腹の前で小さく手招きをして、すぐに元へ向き直った。


「新しく来てくれることになったシスターです。本当は明日からなんですが、せっかくなので皆さんに紹介しておこうと思いまして」


 リコリスが一歩後ろに立つ頃には、彼はそう言い終わっていた。

 少し前に彼女が話したときと違って、特徴的な言葉遣いはなく、発音も標準語と何ら変わりない。子供たちを見送り、リコリスと初めて言葉を交わしたときの、物腰柔らかい“神父様”の話し方だ。


「リコリス・パシフローラです。よろしくお願いします」


 戸惑いの色を浮かべる女たちに笑顔で挨拶しながら、リコリスは内心、人を猫被りと言える立場ではないなと自身を笑った。ただ、ブレティラのそれはあまりに理想的すぎて、穏やかであろうとしているというより別人を演じているように見えるが。


「あの……シスターは、その、お住まいはどちらに?」

「同じ派遣の身ですから、私と同じですよ」

「丘の上のお家ですの?」


 リコリスが口を開くより先にブレティラが答え、すぐまた別の女が問いを繋ぐ。


「ええ。以前もネモフィラと住んでいましたし、それと何ら変わりません」

「っ、そう……ですか……」


 あっさり答えた彼の言葉に、ある者は手で口を覆い、またある者は呆然とリコリスを見つめ、それぞれに落胆をあらわにする。若い神父とシスターがひとつ屋根の下で暮らすということは、リコリスが感じた以上に、彼女たちにとっては一大事だった。

 本人は意識していないが、リコリスの容姿もそれなりに整っている。珍しい赤髪に澄んだブラウンの瞳、白く艶やかな肌。唇の少し下にある小さなホクロがまた人の目をひく。ブレティラの横で穏やかに微笑む姿は、彼女の意思はどうであれ、絵になっていた。

 女たちは消沈しつつも新人への挨拶という名目であれこれと話をして、あっという間に定時を知らせる鐘が鳴る頃になった。


「……はあ」


 そうして一通りの調査を終えた女たちが去った後、より大きな溜め息を吐いたのはブレティラのほうだった。長椅子へ掻きつくようにして床にへたり込む姿は、疲れを表すにしても随分と芝居がかっている。

 その横には、食べ物の入ったタッパーが三つ、お菓子や紅茶類が五袋、本が二冊とガーベラが三輪。この神父様は毎日こうして差し入れをもらうのだそうだ。


「もうちょっと早う出てきてくれや……いやまあ、出てきたら出てきたで面倒臭かったけど」

「楽しそうだったじゃないか」


 リコリスは一言だけ返し、彼をその場に残したまま掃除道具を取りに奥へと向かう。ついでにと抱えた差し入れの山は、見た目よりも重く感じた。

 水を張ったバケツを置いて、雑巾とモップを提げて戻ってもまだ、ブレティラは行き倒れたように片腕を伸ばして長椅子に伏せ込んだまま。


「ありゃ拷問や、楽しいわけがない」


 一言漏らして力なく体を起こした男は、顔にかかった髪を手櫛で大きく掻き上げた。

 灰紫色の瞳を持った切れ長の目に、形の良い眉、くすみひとつない肌、そこにかかる銀色の髪。人の美醜に興味のないリコリスでも、それが「綺麗」と表現するに相応しいものとわかる。悪く言えば、女好きする、とも。

 そんな美貌の男が、女と関わることを拷問と言ってのけたのだ。


「……その顔で」


 リコリスが小さくそう呟いて雑巾を絞っていると、どういう意味だ、と言いながら床にモップがかけられはじめた。

 何をどうするという指示もないまま、それぞれが作業を進めてゆく。


「んならお前、苦手なもんに毎日集まられて喜べるか? そりゃあ、クソ神父、とか言うて石投げられるよりはマシかもしれんけどやな」

「ていうかほんとに苦手なのか、女」

「むしろ嫌いや。生理的に無理ってよう言うやろ、ほんまそれ。近くにおるだけで頭痛はするわ目眩はするわ……とにかく無理や」


 その言葉を聞いて、リコリスははたと手を止めた。

 今彼はそうとまで言ってしまうものと同じ空間で、不調を訴えるでもなく過ごしているではないか。話の辻褄が合わない。


「じゃあ今は。まだここに居るぞ、女」

「それや。俺もびっくりした。お前ほんまに女か?」

「失礼な奴だな」


 失礼なのは発言だけではない。長椅子を拭くリコリスの体に上から下まで視線を這わせた後、よりによって胸を、目を細めてまで凝視したのだ。

 リコリスが睨みつけると、彼は誤魔化すようにへらりと笑ってモップがけを再開した。


「年上に向かってそんな口のきき方する奴が、失礼とかよう言えるな」

「そう、あんたいくつなんだ?」

「24や。えいか、6つやぞ、6つも上」

「男が24にもなって、ごちゃごちゃうるさいな」

「はあ? 俺がうるさい? うるさいやと?」

「うるさいうるさい。ほんっとにうるさい」


 洗った雑巾を力任せに絞ったリコリスが立ち上がり、丁度モップを押して戻ってきたブレティラと向き合う。

 ブレティラは眉間にシワを寄せ、灰紫色の目を片方だけ細めて、口元はまさに喧嘩を買ってやろうという形に歪めていた。せっかくの整った顔立ちが台無しになっているのだが、可笑しいのはそれよりも、リコリスの顔にも同じように力が入っていたということだ。


「っ、ぷ……ふふっ」

「ははっ」


 互いの顔を鏡のように見た二人は我に返り、同時に笑い声を上げた。


「さて、帰るか。お前の荷物もあるはずや」


 ブレティラはリコリスの手から雑巾を取り上げ、バケツを提げて奥の洗い場へ引っ込んでしまう。

 リコリスも後に続いてそこへ向かったのだが、手伝いは構わないと断られたため、後片付けする彼の姿をぼんやり眺めるしかなかった。


「届いたんだ? 今日は厳しいって言ってたのに」

「それでか。昼間わざわざ言いに寄ってくれたき、鍵だけ渡して運び込んでもろうたわ」


 控え室でそれぞれの荷物をまとめ、リコリスの大きな鞄はブレティラの手に、ブレティラへの贈り物入りの紙袋だけがリコリスの手に持たれ、教会の明かりが落とされた。

 民家の明かる通りを抜け、月とたまの街灯が照らす緩やかな登り坂に差し掛かった頃、教会を出て以来黙りこくっていたブレティラが口を開いた。


「同居が無理やったら、空き家借りるなり、どっかに間借りするなりしたらえいわ。言うてくれたらすぐ手配するき」


 先の片付けや荷物持ちといい、意外にも、ふとしたことに気を配る人なのだなとリコリスは感じた。

 面倒臭げにしたり、ぶっきらぼうな物言いをしてはいるが、根が優しいのだろう。見てくれだけで生理的に好かない類だと評したことは取り下げるべきかもしれない。


「私よりあんたが出て行きたくなるんじゃないか?」

「はは。ほんま、今晩夜逃げするつもりで荷物しかけちょったけど」

「夜逃げって」


 そこまで嫌だったのか、と呆れの溜め息を吐いたリコリスを振り返り、ブレティラはへらりと気の抜けた笑みを浮かべる。


「ま、男同士みたいなもんやし、俺は大丈夫かな」

「……失礼な奴」


 リコリスが睨み返すも、そんなことはまったく気にしないどころか、更に煽るように小首まで傾げて見せるのだ。

 根が優しいと感じたことを早速撤回したくなりながら、彼女はふと、彼がした意味深な行動を思い出した。夜逃げを考えるほど生理的に無理だというのに、なぜわざわざあんなことをしたのか。考えながら、視線は無意識に手首へと向いていた。


「ああ、あれか」


 それに気づいたブレティラは軽く笑い声を上げ、また登り坂を進みはじめる。


「あれはちょっとした入社試験や」

「なんだそれ」

「顔が赤うなったら不合格、殴ってきたら合格」

「殴ってないだろ、私は」


 緩やかだった傾斜は徐々にきつくなり、まばらに道を照らしていた街灯も終いにはなくなった。それでもまだ、誰かが言っていた丘の上の家なるものは見えてこない。

 月に向かう道は、まだまだ続く。


「そうそう、殴るなんてもんやなかったな。ぶち殺すぞ、みたいな目しちょった」

「してない」

「しちょったしちょった。まあ、それやし俺としては合格。あとはお前や。どうせ、仕事するにも住むにもこんな奴と一緒とか冗談やないと思うたやろ」

「…………」


 坂道のせいで起こった息切れで誤魔化して、リコリスは何も答えなかった。

 あの瞬間、確かに冗談ではないと思ったし、この男を心底気に入らないと感じた。瞬きのうちに半年が過ぎてくれればどんなに嬉しいだろうと思いさえした。

 ブレティラは足を止めることなく、丘の道を上り続ける。


「半年我慢せんでも適当に理由付けて書類は書けるし、他へ行きたかったら言えよ。まあ……このまま残ってもらえたら助かるけど」


 そして突然振り向き、リコリスの目を見つめたままふわりと微笑んだ。


「俺にはお前が必要や」

「っ、え……?」


 不意の言葉とはにかんだような表情に、リコリスの心臓が不覚にもどきりと鳴った。ときめきではなく驚きという意味での高鳴りだったが、ばつが悪くなった彼女は顔を背け、灰紫色の瞳から逃れる。


「手っ取り早い虫除けや。お目付役のシスターがおったら、神父様ファンクラブも大人しゅうなるやろ。面倒事がのうなるし、是非とも残ってほしいなぁ」


 リコリスがよそ見をしているうちにブレティラは一気に上りきり、声の遠さに気づいた彼女が見上げた頃にはもう、家を背に手を振っていた。


「やっぱり最低だな、あいつ」


 聞こえないよう呟いて、リコリスもそこへ向かう。心なしか足がふらついた。旅路の疲れを差し引いても、この道を毎日上り下りするのは結構な運動になりそうだ。


「お疲れさん」


 溜め息だけで応えたリコリスを笑いながら、ブレティラは彼女に後ろを見るよう促した。そうして振り返ったリコリスは、眼前に広がる光景に声を上げる。

 丘の上から一望したアガパンサスの町には星を散りばめたように民家の明かりが灯り、そのほぼ中央に位置する教会がライトに照らされていた。そこを後にするとき、敷地内の所々で光る電球が気にはなっていたのだが、このためのものとは思いもよらなかった。

 ライトアップは、いつも教会が見えるようにと町の人々から提案があったのだという。


「……神父。転属のお願い、多分しないと思います。私、この町の人たちと暮らしたい」


 暖かな色の夜景を見つめながら、リコリスは明るい声でそう告げた。


「そう。それはよかった」


 隣に立ったブレティラは彼女の呼びかけに応え、柔らかな声で微笑む。


「スーリヤの導きに、稀なる出遇であいに感謝を……やな。アガパンサスへようこそ、シスター」

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