瞬間、私は泣いたっ


 三月二十六日、火曜日、朝七時半を少し過ぎたくらいの時間、

 僕は眠る四葉ちゃんに、行ってきますと心の中で告げ部屋を後にした。——児童に優しい自動販売機、今日はナツナツはいないみたい。振り返ると僕の住むアパートと、隣町、尾姐咲町おねさきちょうの町並みが見える。いつもと変わらない景色。


 今日も天気は良い。雲一つない、……とまではいかないけれど、青い空が清々しいほどで気温も高め。こんなに気持ちの良い朝なのに、四葉ちゃんは部屋から一歩も出ないのだから、なんだか勿体ないなと思う。——と、そんな事を考えながら商店街の入り口付近に到着した僕は、背中に刺さる視線を感じ、咄嗟に振り返る。


「……あれ、気のせい、か?」


 ……誰もいない。いや、いるっちゃいるが、猫だ。いつもの茶トラ猫。茶トラ猫は、プイッと横を向いて、プリプリとケツを振り去ってしまった。

 人を見るなり横を向くとは、失礼な猫だ。

 少しばかり急いでいるのもあり、僕は坂道をいつもより速いペースで越えて、その先にある夢咲梱包株式会社へ向かった。


 間も無く到着、すぐにタイムカードを押し、会社の敷地、その裏手に位置する営業課のプレハブ小屋を目指す。


 そして、プレハブ小屋のドアを開けた僕は、そっとドアを閉めた。


 ……心臓が飛び出すのではないかと思った、あんなの朝一から見せられると、健全な男子なら誰でも同じ気持ちになる筈。——少なくとも、僕は息をのんだ。正直、今の一瞬で脳裏に焼き付いてしまった。

 高鳴る鼓動を抑えようと深呼吸をする僕のピュアな気持ちをよそに、プレハブ小屋の小窓が開いた。言うまでもなく、そこから顔を出したのは朱里さん。


「……おう、すまんな。ちょうど着替えていたところなんだ、気にせず入ってくれ。もう下着は付けたから安心してくれ。」


 お願いだから全部着てから僕を呼んでください、朱里さん。……まさか事務所で着替えていたとは思いもしなかった。確かに朱里さん、いつも行き帰りは私服だった。

 ——なんというか、素晴らしいプロポーションだったな。……全裸の国……こんな感じなのかな。


 ちょっとしたハプニング、いや、とんでもないの間違いか、……が、あったにも関わらず、朱里さんは平然としている。多分、この人はあれくらいの事、微塵も気にしていないのだろう。

 僕は僕で、平然を装いながら、昨日読み終えた本を朱里さんに返した。……全裸の国、を朱里さんに返した。


「高野君、もう読んだのか? ……やはり君は見込みがあるな。ふふふ……どうだった? 全裸の国! 面白かっただろう?」


 ヤバい、既にスイッチは入っているみたいだ。僕は率直な感想を述べてみる。すると朱里さんは、うんうん、と満足そうに頷き、

「私もこの話は好きでね、全裸の国、登場人物全てが全裸という……なんというか、素晴らしい! だって、女の子の裸を見放題で、しかも罪にならないのだから!」


「逆に服を着ている主人公が犯罪者扱いですもんね。……異彩を放ち過ぎでしたよ。」

「最後、主人公が全裸になる瞬間、私は泣いた!」


 いや、僕は噴き出したけど、あれは完全にネタだと思って読んでた。——人それぞれ、感じ方が違うのだろうけど、朱里さんのは特例だろう。

 あのシーンは、笑うところで、間違っても泣く場面ではないのだから。


 こうして何の問題もなく終業時刻、午後五時が訪れ、今日が終わる。午前中は官能小説を……

『妹に監禁されたのですが、これから拷問が始まるそうです。』を読み、午後は真面目に書類の山と向き合った。ほぼ事務員扱いなんだけど、まぁ、現場より楽だしいいか。

 ……チャイムが、某ロボットアニメのエンディング曲が鳴り響く。


「赤野さん、お疲れ様です。」

「……。」


「朱里さん?」

「…………?」


「……………………えっと、朱里?」

「お、おう! お疲れ様! また明日高野君。……あ、そうだ、今日と同じくらいの時間に来てくれれば、ちょうど全裸だから!」


 その情報は別にいいですよ、朱里さん。

 こうして僕は、呼び捨て以外は受け付けない上に、明日の全裸予告まで意気揚々と告げる上司に挨拶をして、夢咲梱包株式会社を後にした。

 ——いつもの帰り道を歩いて帰る。いつもの小学生達、猫、そんな、当たり前を通り過ぎ、アパートへ到着。——変わったのは、帰った先に妹の四葉ちゃんがいるって事くらいかな。

 ——それも、あと少しか。春休みなんて、あっという間に終わってしまうんだから。


 ……ッ! ——ポケットの中のスマホが、一瞬、激しくバイブした。

 母さんからの、ラインだ。




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