上司、降臨


 考えてみると営業課の事務所には入った事がなかった。いつもは一階でタイムカードを押して、そのまま作業場に入るからだ。

 逆に赤野さんが作業場を訪れる事はある。ライン長と仕事の打ち合わせなんかをしていたのかな。


——その度に製造課の男達、……勿論、僕も含む男達は、その荒れ地に咲いた一輪の花に酔いしれていた。しかし、そんな日々も終わりだ。

 これからは赤野さんと同じ部署で働くのだから。いきなり営業と言われて戸惑いもしたけれど、それ以上に僕のテンションは上がっている。


「ここが営業課の事務所、さ、入って、高野君。」

「こ、ここですか……?」

「うん、ちょっと散らかってるけど、気にしないでね。」と、赤野さんは笑顔で言った。


 僕は営業課の事務所が何処にあるかは知らなかったのだけど……まさか、こんな場所だとは思わなかった訳で、少し驚いている、というか、かなり驚いている。会社の裏手に建てられた小さなプレハブ小屋、……そのドアを開けて、赤野さんは笑顔を見せるのだから、流石に驚かざるを得ない。


「お、お邪魔します……」


 そういえば営業課って他に誰かいたっけ? ちゃんと挨拶しないと、第一印象は大事だし。


「あれ、まだ誰も来てませんね。」


 事務所内を見回してみるが、デスクが二つ、対面で並べられているのと、資料をしまっておく棚なんかがあるだけで、人がいない。——室内はとても涼しい。空調が効きすぎるくらいの狭さ。というか、まだ三月末だというのに、もうクーラーを付けている。


「何を言ってるの、高野君? ……営業課はこの前まで二人体制でやっていたんだよ?」

「二人……体制?」

「そう、二人体制。つまり、今日から私と二人っきりって事ね。さ、そこが高野君のデスクね。パソコンは使える?」

「はい……使えます……って…? 二人!?」


 この狭いプレハブ小屋で赤野さんと二人っきりで仕事するのか? ……そんなの、仕事にならないぞ!


「……私と二人じゃ……駄目?」

「あ、いえ……! そんな事ありません! 寧ろ嬉しいというか何というか……って、な、何を言ってるんでしょうね僕は。……あの、まだ営業の事はわからない事ばかりですけど、よ、宜しくお願いします。」

 慌てて訳の分からない事を口走る僕に赤野さんは優しく微笑んだ。


「うん、宜しくね。……営業課の仕事って言っても大してやる事ないから、基本的にはここで電話対応って感じ。外回りをする時もあるけれど、今日は一日ここで暇潰しかな。」


 営業課ってそんなものなのか? もっと忙しいと思ってた。……とりあえず僕はデスクに腰掛ける。少し古い型のノートパソコンが、閉じた状態でデスクの上に置かれている。

 赤野さんはドアを閉め、何故か鍵をかけた。わざわざ鍵をかける必要なんてあるのかな? ……と、考えを巡らせていると、僕の対面に赤野さんが座る。

 特にパーテーションがある訳でもないので、少し目線を上げると、赤野さんと目が合ってしまう。

 ——すると、赤野さんは上体を起こして僕のデスクに肘をつくような体勢になり、

「……聞いたよ? 高野君、好きなんだよね?」と、囁いた。


「え!?」


 突然投げかけられた言葉の威力は凄まじい。好きって、……いったい何の事だ?

 赤野さんは、クスッと笑い、こう続けた。


「ほら、アニメとか見るんでしょ? 髪野専務から聞いたの。」


 そ、そういう事か……


「はい、まぁ…そこそこ、好きですかね。」

「そうなんだ、私も大好きなんだよね〜! 私達、意外と気が合うかもね。アニメも好きだし、それに小説も好きかな!」

「小説、ですか?」

「うんっ! ……と、言ってもライトノベルね。」


 まただ、……またライトノベル。僕が思っている以上にラノベは人気があるのだろうか? 確かに読みやすいし、内容もしっかりしていて、ジャンルも多岐にわたる。

 確か、四葉ちゃんが恋愛、ラブコメ、夏菜ことナツナツが異世界チート、ハーレム物、……因みにこれは僕も好きな部類で、ナツナツとは話が合いそう。


「ラノベなら、最近僕も妹に勧められて読んでます。まだ初心者なんで、右も左もわからないんですけどね。」


 僕の言葉に「はっ! やっぱりそうか!」と反応した赤野さんは、急に立ち上がって資料棚からいくつかの本を取り出し、デスクの上に置いた。……入った時から違和感はあったのだけど、やはりあの棚に置いてあるのは、資料ではなかったようだ。

 そこにあるのは全て、ライトノベル文庫である。……この人、ちゃんと仕事してるのかな?


「これ、私のオススメなんだ。」


 こ、これは……タイトルが凄いことになっている。


「これは、ジャンルで言うと……?」


 赤野さんは頬を真っ赤に染め、一瞬口ごもり、身体をよじらせながら言った。


「官能小説、かな。」

 と、……確かに言った。赤野さんの口から、まさかの単語が飛び出した。


「官能小説ですか〜、いいですね。一度は読んでみたいと思ってたんですよね〜、ははは……」


 つい、思ってもない事を口走ってしまった。

 否定出来なかった。いや、この状況で否定は不可能だ。そもそも官能って、どんなものだ? ……僕の中では、色々と危ない感じのジャンルって認識しかないのだけど。


 すると、ぱぁっ! と表情を明るくした赤野さんは更にこう続けた。

「良かった〜、同じ趣味だった! そんな気はしてたんだよね〜! 高野君、むっつりっぽいし! あ、こっちは百合物で所謂GLね。私は女の子が好きだから基本は百合系かな、他のも読むよ! エロいやつなら何でも! あ、こんなのもあるんだけどさ!」


 サラッと、とんでもない事をカミングアウトした赤野さんは、タガが外れたように語り始めた。——赤野さんの表情は、今まで見た事もないような表情だった。何というか、とても楽しそうだ。

 少し頬を赤らめながら、好きな物を語る時の表情、……四葉ちゃんがラノベを語ってた時の事を思い出すな。あの時の表情もこんな風にキラキラしていた。女の子が好き……赤野さん的にはどちらなんだろうか、男役か、女役か。


 少し癖のある趣味だけど、最近はこの手のジャンルを読む女性も珍しくはないのかも知れないな。赤野さんの話を聞いていると、百合物に限らず、基本的にエロい小説が好きなんだと、僕の中でキャラがまとまった訳だけど、


「うむ! 君なら私の素を見せても大丈夫みたいだな! ……さ、仕事なんていいから、とりあえず読んでみてくれ! 何から挑戦する? ……あ、まずはノーマルなSMからにする? それともいきなり百合っちゃう?」


 SMはノーマルなのか? 百合っちゃう? って普通は言わないよ赤野さん……というか、素が出すぎてキャラが完全に変わってしまっているのだけど。

 口調まで変わって、まるで別人だ。しかし、見た目はめちゃくちゃ美人なんだから、とんでもないギャップである。……そのギャップに萌えるかどうかは別として。


「じ、じゃぁ、まずはノーマルなやつから。」

「SMだな!? そうかそうか! 高野君はそっちかSMか〜、それならこれがオススメだな!

『狂気の女上司〜狂おしくも可憐な肉欲の園〜』…このくらいからにするか。」


 初心者向けとは思えないタイトルだよ!


「凄いタイトルっすね、赤野さん。」

「あー、もう! 赤野さんなんて他人行儀な! ……私のことは朱里って呼びたまえ! 呼び捨てでな! ……ふふ、ふふっ……歳下の部下に呼び捨てで呼ばれる……うむ、悪くないっ! 何なら縛ってくれても構わないぞ! それとも縛ってあげようか高野君!」


 完全にキャラ崩壊です。でも、これはこれで面白いかも知れない。こんな赤野さん……いや、朱里さんを知っているのは、もしかしたら僕だけかも知れないし、優越感がないと言えば嘘になる。


 これから共に仕事をするのだから、少しは共通の話題があった方がいい。仕事の一環として、ノーマルなSMから挑戦してみるか。





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