専務、降臨


 僕は四葉ちゃんを起こさないように、そっと家を出て、いつものように徒歩で会社へと向かう。——ふと背中に視線を感じた気がした僕は振り返るけれど、……どうやら気のせいだったみたいだ。


 ……魚、……あれはさばかな? ……鯖を咥えた茶トラ猫が凄い形相で走り抜けたのを見送り、僕は再び歩みを進めた。すると、


「あ、咲良兄さんっ! おはよーございます、です!」


 この声は、——やっぱり、そうだ。ラノベを読み漁る強者つわものJS三年生、フレッシュガール夏菜ちゃんこと、ナツナツがそこにいた。

 ナツナツが笑うと、可愛らしいツインテールがピョンと跳ねた。よく見ると、今日はメイド服なんだけど、ナツナツはコスプレ好きなのかな? だとしたら、まだ小学生なのに、趣味が完全にアレだな。


「お仕事ですか? ……頑張れなのです!」


 キャラなのか、素なのかは知らないけれど、やっぱり語尾に、です、を付けるナツナツは僕を追い越して、くるりんっと一回転、そして再び最高の笑顔を浴びせてくる。

 ——もしかして、誘惑しているのか?


「……あの、顔が極めて不審な感じに歪みきってるんですが……」と、JSメイドが一歩後ずさる。

「そ、そんな事はないよ……? あ、急がないと遅刻だ、またな、ナツナツ!」


「あっ、……が、我慢出来なくなったらわたしがいますから、他の小学生に手を出してはいけませんよー?」


 ナツナツ……そんな大声で恥ずかしい事を叫ぶのはやめていただきたいのだけど。——しかも、思いっ切り手まで振って、可愛いけども。

 ——というか、ナツナツならいいのか?


 気を取り直し坂道を越え、住宅地の駄菓子屋を通り越したら、いよいよ僕の職場、夢咲梱包株式会社が見えてくる。古びた看板は端の方が錆びてしまっていて文字が良く見えない。

 そんな古めかしい会社ではあるけれど、働く人は気の良い人達ばかりで、久しぶりに入社した新入社員の僕を可愛がってくれている。三十人程の人数だけど、アットホームな職場で僕も気に入っている。


「おはようございまーす。」


 僕がタイムカードを通していると、たぷんたぷん、とお腹を揺らしながら、ハンカチ片手に近付いてくる人物が。……うちの専務だ。

 張り裂けんばかりのシャツのボタンは悲鳴をあげているけれど、当の本人はジャストサイズだと言い張っている。……ジャスト過ぎやしないか、とは思うけれど、そこは本人の意思を尊重する。

 すると、専務が肉という肉を震わせながら、そして頭のバーコードをテカらせながら、僕に言った。


「高野ちゃん、おはよん! ……仕事は順調かしらん?」

「お、おはようございます……髪野かみの専務、仕事は順調ですよ? それよりも、今日もバッチリ決まってますね、髪!」

「そうでしょ〜、んもう、高野ちゃんったらお世辞がお上手、ね! ん〜、まっ!」


 彼の名は髪野不佐夫かみのふさお、うちの専務。完全に名前負けしているけれど、本人は全く気付いてないので、そこには触れない。——触れてはいけない。

 それよりもインパクトのある特徴がもう一つ、そう、聞いての通り……オネェキャラということ。面接時、即採用された僕は、とんでもない事になった、と怯えていたものだ。……それも、もう一年前の話。


 今となれば慣れたもので、冗談を交わし合うほどに。僕と髪野専務には共通の趣味がある。——専務は生粋のアニメオタクである。特にロボット系、女の子×メカ系の知識は常軌を逸している。

 僕なんて、足元にも及ばないくらいの強者で、僕は専務の事を仕事以外では師匠と呼んで慕っている。


 すると髪野専務、……僕の師匠である髪野不佐夫専務の口から、思ってもない言葉が飛び出した。


「そうそう、高野ちゃんに相談、というか〜提案があるのだけれど〜?」


 太くも艶っぽいオネェ口調で僕に迫る巨漢は、全身のお肉を震わせながら、こう続けた。


「……高野ちゃん、うちの営業、してみない〜?」

「え、営業、ですか!? 僕が?」

「そうなのよ〜、ほら、先月に一人退社しちゃったでしょ? それで、今営業課の人数が足りないのよ〜、高野ちゃんは人当たりも良いし、適任だと思って。どうかしらん?」


 僕が営業……そんな急に言われても。しかし、目の前から押し寄せる圧、……肉厚な肉圧が僕に拒否権を与えてくれそうにない。

「……そ、そうゆう事なら……」

 思わず流されてしまった。

「高野ちゃんならそう言ってくれると思ったわ〜ん、実はもう異動も完了しちゃってるのよ、早速今日から営業課で働いてもらうわね! ……赤野ちゃ〜ん、赤野朱里あかのあかりちゅぁ〜ん!」


 髪野専務は全身を小刻みに震わせながら、赤野さんをこちらへ呼んだ。赤野朱里さん、彼女は僕の会社で働く上司の一人で営業課。——スタイル抜群、切れ目のまとまった顔立ち、艶やかな黒髪を一つ括りにした、スーツの似合うキャリアウーマンを絵に描いたような女性だ。

 歳は二十三歳、会社でも不動の人気を誇る絶対的美女の赤野さんが、スラリと伸びた綺麗な腕を腰に当てながらパリコレばりのモデル歩きで専務の横まで歩いて来た。

 ——専務と並べると、同じ生き物とは思えない。


「髪野専務? ……何かご用ですか?」


 声も可愛い……というか、美しいよ。赤野さん!


「いや〜ね、先週話していたの忘れちゃった? ……ほら、製造課の高野ちゃん、今日から営業課で働いてもらうから、赤野ちゃんが手取り足取り、○○取り、教えて、あ、げ、てん!」

「そ、そういえばそんな話でしたね。……わかりました、私が高野君を教えればいいのですね、専務。……あ、高野君、宜しくね。」


 こ、これは夢か! ……まさか、赤野さんと共に仕事する日が来るなんて、思ってもなかった訳で、僕の心臓はこの上ない激しさで脈を打ち、今にも飛び出してしまいそうだ。


「あ、は、はいっ! ……宜しくお願いしますっ!」

「ふふっ、そんな固くならないで?」

「は、はひっ!」


 こうして僕は営業課へ異動となった。


















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