寂しげな雨
もきの
寂しげな雨
□
5分毎にリズミカルな音楽を大音量で流すスマートフォン。アラーム機能が起きる時間であることを告げ続けていた。
寝相が悪いせいで体に張り付いた夏用のタオルケットを剥がし、体を起こす。正直、まだ眠りたかった。懸命に閉じようとする瞼を擦り、大きなあくびを1つしてから、ベッドを離れる。
カーテンを開け、窓から外を見ると雨が降っていた。昨日見た天気予報通りだ。
着替えてからリビングに向かうと、家族は出掛けたようで、家には自分しか居なかった。
もう昼になろうかという時間だが、とりあえずやるべきことはやらなければならない。洗濯機を回し、家の掃除を軽くしてから、朝食も兼ねた昼食を取る。寝起きは食欲がないので、簡単なもので済ます。
後片付けも終わらせ、洗濯物を干して一段落。手持ち無沙汰になって、リビングの2人掛けソファで何も考えずにぼーっと座っていると、インターホンが鳴った。「来客」ということに気付き、インターホンの受話器へ急ぐ。
「はい」
少し上ずった声で出てしまったことに恥ずかしさを覚えたのだが、それよりも相手からの返事がないことが気になった。
ただの屍か、なんてつまらないことを考えながらドアに向かい、開けた。
そこに誰も立っていなければ、よくあるホラーかいたずら話の類だろうが、そうではなかった。
少女が1人、そこに立っていた。俺の顔を見るなり、少しだけ首を傾げながら、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「来たのか」
「来たよ」
「まあ入りたまえ」
「おじゃまします」
彼女は、勝手知ったる、というような感じで傘立てに傘を入れて、靴は揃えて置き、俺の後をついてリビングに来た。
彼女が勝手知ったるのは、彼女がこの家にもう何度も来ているからだ。座る位置は、決まって2人掛けソファの向かって右側。左腕に肘掛けが来る方。今日も真っ先にそこに座った。
「なにか飲む?」
「冷たいお茶、ある?」
「ほうじ茶でもいい?」
「うん、ありがとう」
彼女とは、小学校の頃からこうして二人でいることがある。数え切れないほど、というわけではないけど、それなりにたくさん。会うときは必ず二人きり。意識してそうしたわけではない。お付き合いをしているわけでもない。
けれど、気づくと何故か、いつも二人きりだった。
作り置きしていたほうじ茶のピッチャーを冷蔵庫からだし、二つのコップに注ぐ。作り置きの残りは半分ほど。ピッチャーを冷蔵庫に戻し、コップを二つ持ってソファへ戻る。
「はいよ」
「うん、ありがとう」
さっきと同じセリフ、と思いつつ、コップを一つ彼女に渡す。自分もソファに座って、ほうじ
茶を一口のんだ。
「なんか、今日は一段と寂しそうだね」
と、彼女は俺の顔を見ずに言った。
「そう?」
「うん」
彼女はいつも、俺の気持ちを知っている。
「あ、そうだ」
彼女は突然立ち上がり、コップをテーブルに置いてから隣の和室へ入っていった。
何も言わずにほうじ茶を飲んでいると、しばらくしてから彼女は線香の悲しげな香りをまとって、リビングに戻ってきた。
「別にわざわざそんな事しなくていいのに」
彼女は俺の言葉を無視した。
「忘れちゃうところだった」
「……ありがとな」
「ううん」
今度は無視されなかった。
彼女が入った和室には仏壇があり、その前には、二人の写真が別々の写真立てに入って置いてある。彼女曰く、どちらの写真も俺には似ていないらしい。その二人とは、俺の父さんと母さんだ。
片方の写真には、白髪交じりの父さんが写っていて、俺と彼女が知り合う以前からそこに置いてあって、彼女は初めて家に来たときから、家に上がると必ず写真の前で手を合わせてくれた。
数ヶ月前、彼女はもはや当然のように和室へ入ると、写真が一枚増えていることに気付いた。その写真は、俺の母さんの写真だ。
彼女はその写真を見つけて、見たことがないほど嗚咽を漏らし、涙を流し始めた。
その時は俺もひどく動揺したが、とにかくティッシュ箱を持って彼女の元へ行き、隣りに座って、彼女が泣き止むまで背中を擦ってやるくらいしか出来なかった。
未だに、なぜ彼女があの時あんなに涙を流したのかがわからない。もしかしたら、分かろうともしていないのかもしれない。
彼女はもといたソファに座ると、一口ほうじ茶を飲んで、またコップをテーブルに置いた。
それから、沈黙……。
緊張、などではない。俺も彼女も、こういった静かな時間が好きなのだ。
最初の頃は、何か話さなきゃと思って、その日の天気とか当たり障りの無いことをあれこれ聞いていた。
だけどいつの日か、彼女とは無理に話さなくても良い、むしろ話さないほうが良いのだということがわかってから、二人で静かな時間を過ごすようになった。
かなり長い間、何もしないでいたような気がした。
そう思って時計を見ると、たった十分しか経っていなかった。
新しくお茶を入れ直してこようかと考えていたら、足に軽い衝撃があった。
反射的に下を向くと、彼女は横になっていて、頭が俺の太ももに乗っていた。そのまま黙ってじっとしていると、彼女はぽつりとつぶやいた。
「ねえ、寂しい?」
「わかってるくせに」
俺は彼女の頭を撫で始めた。
彼女は、少しくすぐったそうに首をすくめる。
「うん……いや、分かんないよ」
「本当に?」
「大体のことしか分かんない」
大体なら分かるのか。
と思ったが、口には出さなかった。
突然、彼女は太ももに頭を載せたままゆっくり仰向けになり、俺の事を見つめてきた。
俺は撫でるのをやめ、負けじと見つめ返す。
かわいい。キスしたい。
と思ったら、彼女の視線が外れた。
彼女は、視線をさまよわせながら言った。
「ねえ、キス、する?」
「……なんで?」
「……寂しい、から?」
「そっか」
そう言うと、彼女は仰向けのまま、瞼を閉じた。待っているのだ。
それにしても、なんとも可愛い顔である。写真を撮りたいところだが、過去に彼女の寝顔を撮ろうとしたら、彼女が偶然その瞬間に起きて、これ以上ないほど怒られたことがあるので、やめておいた。
俺は上半身を屈ませて、嬉しいような、悲しいような気持ちで、ほんの一瞬だけ、彼女と唇を合わせた。
みるみる彼女の耳が赤くなっていく。なんてかわいいんだろう。
彼女が目を開いた。目が合うと、流れるようにそっぽを向いてしまい、体も向こうに向けて、仰向けになる前の状態に戻ってしまった。耳を真っ赤に染めたまま。
俺はまた、彼女の頭を撫で始めた。
急に触れたせいか、彼女はくすぐったそうに首を少しだけ動かした。
窓の外を見ると、雨は止んでいた。
□
いつの間にか、俺も彼女も寝てしまったらしい。
時計を見ると、記憶に残っている時間から一時間以上経っていた。彼女はまだスースー寝息を立てている。また、彼女の頭を撫で始めた。
彼女のサラサラの髪の毛に触れた途端、彼女は目を覚ました。
体を起こして、もともと座っていた場所に座り直し、手ぐしで乱れた髪の毛を直している。その姿を見ているだけで和む。非常に。
俺の視線に気づいた彼女は一度俺の方を見て、また正面に向き直った。
「ごめん、足、痛くない?」
「なんで?」
「ずっと頭預けてたから……」
「慣れたものです」
「そう……ごめんね」
「構いませんよお嬢様」
「やめて」
「ごめんごめん」
彼女に謝りながら、コップを二つ取って立ち上がった。
「またお茶で良い?」
「あ、うん、ありがとう」
今度は「あ」が付いたか、と考えながらキッチンへ向かった。
半分残っているほうじ茶のピッチャーを再び冷蔵庫から取り出して、コップへ注ぐ。ピッチャーに入っている残りは四分の一になった。
「はいよ」
「うん、ありがとう」
いつも通りのやり取り。安心感がある。
「そうだ、この後買い物に行こうと思うんだけど、来る?」
「うん、行く」
「了解、じゃあ準備するからちょっと待ってて」
「わかった」
俺はほうじ茶を一気に飲み干して、自分のコップをキッチンの流しに置いてから、着替えるために自分の部屋に向かった。
着替えてリビングに戻ると、彼女の姿はなかった。
キッチンを覗くと、居た。流しのそばでなにかやっている。キッチンに入ると、彼女が念入りにコップを拭いていた。かなり近付いても彼女は俺に気付かず、コップを拭くのに集中していた。
なんとなく、後ろから彼女を抱きしめた。
彼女は少し体を震わせて、全身を強張らせていたが、やがて彼女は力を抜いて、体をこちらに預けてきた。
ちょうど眼の前にある彼女の髪の毛から、シャンプーだかリンスだかのいい匂いが鼻を抜けていく。
暫くの間、そんな時間が続いた。
満足して彼女を開放すると、彼女は一瞬、俺の顔を見て、すぐにまたコップを拭き始めた。
「そんなに念入りにやらなくていいよ」
「……うん」
彼女は二つのコップを、食器棚の空いている場所に置いた。
「悪いな、洗ってもらっちゃって」
「ううん、それより、準備終ったの?」
「あ、まだ終わってないや」
そう、と少し呆れたように、彼女はソファに定位置に戻っていった。
急いで準備を終わらせて、彼女と家を出た。
初夏の雨上がり。思ったより涼しい。時折、少し冷たい風が二人の体を撫でていく。こんな気温の日が続けばいいのに。
そう思いながら、彼女と何を話すでもなく、並んで歩く。
少しモヤモヤした銀色の空が、二人の好きな雰囲気を作り出してくれていた。
十分ほど歩くと、駅前の商店街に着いた。
この商店街には、大きめのスーパーもあれば、百円ショップもある。ドラッグストアもある。とりあえずここに来れば、大体のものは揃えることができる。
買うものはすでに決まっていたので、店を廻りながら手早く買い物を済ませた。
「帰り、ちょっと遠回りしても良い?」
「別にいいけど……」
買い物が終わり、彼女は当然このまま帰ると思っていたらしく、少し戸惑っているようだった。
商店街を、来たときとは反対の方から出ると、すぐそばに広い公園がある。野球場があったり、テニスコートがあったりとかなり広い。散歩にも最適だ。
彼女とその公園に入り、しばらく歩く。
雨上がりということもあってか、公園内に人はほとんど居なかった。テニスコートのそばを通り抜けるとすぐに広場に出る。その真ん中には円形の花壇があり、春にはとてもキレイな、色とりどりの花がたくさん咲く。
「ちょっと休んでいこうか」
「うん」
俺と彼女は、広場のベンチに腰掛けようとして、止まった。
雨が上がって時間が経っているとはいえ、木陰の古びた木製のベンチはまだ濡れていた。他のベンチもきっとそうなっている。
さすがにそのまま座るわけにはいかないので、
「……帰ろうか」
「……うん」
ということになる。
俺と彼女は広場を通り抜け、自宅の方に向かって歩き始めた。
公園からの帰り道、珍しく彼女の方から話をしてきた。
「あの公園、懐かしいね」
「そうだな。そういえば最近、行かなくなったな」
「どうして今日は行こうと思ったの?」
「なんでだろう、分かんない」
「そっか」
「うん」
それからは、再び沈黙に戻った。
家に着くと同時に、また雨が降り出した。ぎりぎり濡れずに済んだ。
買ってきたものを一通り片付け、出掛ける前と同じように、彼女とソファに座った。
「お茶、飲む?」
「んー、いいや」
「そうか」
少し歩き回って疲れたのか、彼女は欠伸をした。そしてそのまま、俺の肩に頭を乗せてきた。
今日は雨が降ったり止んだりか……。
土砂降りの雨は嫌いだけど、しとしとと降る雨は好きだ。自分が好きな、少し寂しげな雰囲気を作り出してくれるから。今がまさにそうだった。
「また寂しくなってる」
彼女は、俺の肩に頭を乗せたままそう言った。
「……うん」
「寂しがり屋さんだ」
「……一つ、聞いていいか?」
「ん?いいよ」
「あの時、なんであんなに泣いてたんだ?」
「あの時って?」
「和室の写真が二枚に増えた時」
「ああ、そんなことあったねえ」
「あの時君は、何を思って泣いてたんだ?」
「うーん……」
彼女は迷っているのか、言葉を選んでいるのか、少し考えていた。
「……あれは、君のことだよ」
「……俺?」
「そう」
「どうしてまた俺のことなんか」
「どうせ君のことだから、お母さんとのお別れの時でも泣けなかったんでしょう?だから、私がその分泣いてあげたの」
たしかに俺は、母さんの事で一切涙を流せなかった。
なぜなのかは全くわからない。とにかく、泣けなかった。
何も思わなかったわけではない。悲しかったし、絶望感もあった。ただ、涙は一滴も出てこなかった。
「あの涙は、君の分の涙だよ」
「……そうか、ありがとな」
「ううん、いいよ」
「君は、優しいんだね」
「もちろん。だって私は、君のためにいるんだから」
それから会話はなく、突然彼女は「もう帰るね」と言って、雨の中帰ってしまった。
□
彼女が帰った直後、出掛けていた家族が帰ってきた。一人で買い物に行っていたらしい。
「おかえり」
「ただいまー……。何かあったの?」
「え?いや、何もないけど」
「そう……」
「あのさ、変なこと聞くけど、家の近くで俺と同じ年くらいの女の子とすれ違わなかった?」
「んー、誰も居なかったはずだけど」
「そっか、ありがとう」
「うん……?」
家族は不思議そうな顔をして、どこで買ってきたのか大量の荷物を持って、自分の部屋に戻っていった。
さっきまで一緒に居たはずなのに、もう彼女のことが懐かしくなっている。彼女に会いたくなっている。
しかし、今は彼女は現れない。
彼女はいつだって、俺が一人で寂しくしていると、少し恥ずかしそうな微笑みをしながら現れてくれる。
□
寂しげな雨 もきの @mkn_ss
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