2-3
響華に追い付いて隣に並ぶと、彼女は足を止めて拓真を見た。
「すみません、緋織さん……」
申し訳なさそうに目線を下げる響華。
「いや、気にしてないから。大丈夫」
その言葉は真実だった。
正直に言えば。なんとなく、こんな日が来るんじゃないかと思っていた。
母親が咎人になり父親が死んで、残った海咲だけがたった一人の家族。彼女を想う、大切にし過ぎるこの感情がいつか暴走するんじゃないかと、密かに思っていた。
身内から咎人を出した人々への差別は、免罪人へのそれとは比べ物にならないほど深刻だ。過去に何度も、彼らへの差別や暴力など痛ましい事件が発生した。現在では咎人を出した家族を守る為に、その事実を隠すことが義務付けられている。
実際に緋織家も、あの事件が起こった数週間後にはその地域から引っ越した。その引っ越し先がこの綾杉市だったわけだが。当然、拓真の過去について事実は伏せられている。このことを知っているのは神田とその父親だけだ。
拓真は自分の掌をジッと見つめる。
近年ではネメシスを中心に咎人や免罪人に関する研究も進み、咎人になるかどうかは本人の問題であって、遺伝による確率の変動は全く無いと言われている。しかし身内から咎人を出した人間が、咎人になりやすいというデータもまた、覆りようのない事実だった。
詳しいことはまだ解明されてはいないが、おそらく事件の後から生じるストレス等に大きく関係していると言われている。
だから、本当に、覚悟は。していたつもりだったのだ。
「大丈夫……」
今度は自分に言い聞かせるように、力強く言葉にした。
「そう言っていただけると助かります」
響華は困ったように苦笑する。そして、それ以上はこの話題について触れなかった。
気まずい沈黙の時間が流れる。どこに視線を持っていくべきか迷って、最終的に拓真は暗い廊下の床を眺め続けた。
不意に思い付いた疑問を口にしてみる。
「響華は支部長が嫌いなの?」
「いいえ。嫌いではありません」
「そうなのか?」
スッと響華が目を細める。その態度を見て拓真は、特に何も考えずにこの質問を口にしたことを後悔した。
「はい。好きとか嫌いとか、そういう問題ではありません。……彼は敵です」
「敵?」
「はい。憎むべき、仇敵なんです」
「…………」
再び沈黙。
これ以上話すつもりは無い。といった響華の態度に、拓真は会話を諦めた。
切れかけの蛍光灯が瞬く。一瞬の暗闇の後、響華の表情は元の柔らかなそれに戻っていた。それを確認して、拓真は少し安心する。
しかし、また話題を振ると地雷を踏みそうなので、しばらく黙っておくことにした。
「…………」
「…………」
二人とも口を噤み、静かな時間が生まれる
沈黙を利用して、拓真は思考に耽ることにした。
問う。自分は、執行官になるべきだろうか。
メリットは大きいだろう。具体的な額は知らないが、ネメシスの、特に執行官ともなれば給料はとてつもない額になる。自分がそれだけ稼ぐことができれば、海咲に楽をさせてあげることも十分に可能であり、五年前に抱えた借金だって一瞬で返済できる筈だ。
それに拓真はそのネメシスに就職する為に、毎日猛勉強していた。もちろん、執行官としてではなく一般社員や管理職として、だが。
ネメシスに入るには、高校卒業後にネメシス直轄の学校に進路を進めるしかない。
その学校の試験は数ある大学の中でも最難関とされ、今の拓真の成績で合格するのはほぼ不可能に近い。拓真は早く良い職に就いて海咲を楽にさせてあげたい一心で勉学に打ち込んできた。学校のテストでトップから外れたことはほとんどない。
それでも、最近は現実的ではないことを悟り、奨学金で大学に進学することを考えていた。そんなときに転がり込んできた話である。それも、一般職よりも遥かに給料の良い執行官で、しかも試験も無いときた。これほどうまい話は無い。
では、何故この提案を二つ返事で呑まなかったのか。
なんとも情けない話だが。
きっと、自分は怖いのだ。
ずっと、海咲と共に平和に過ごすこと。それが拓真の願いだ。この願いはどちらか一方だけでも欠けてしまうと、遂げることはできない。
故に、純粋に。拓真は咎人と戦って命を落とすことが怖いのだ。
気が付けば、拓真は自嘲気味に笑っていた。響華と反対の方向に俯いて表情を隠す。響華に見られていなかったことを確認すると、また何事も無かったように振る舞った。
「そうだ……、響華」
響華に言うべきことを思い出して、拓真は珍しく自分から切り出した。
話し掛けると彼女は屈託の無い笑顔で応えてくれる。
「? なんですか?」
ふと。その屈託のない笑顔を見ながら、拓真は一つの疑問を思い浮かべた。
先ほどの芙蓉の前で見せた冷えた表情と殺気を纏った彼女。それと今目の前にいる穏やかで柔和な表情を崩さない彼女。一体どちらが本当の響華なのだろうか。しかし、本人には聞けないし、それを知る術もないのでその疑問は意識の外へ追いやることに決めた。
「緋織さん……?」
海咲を見つめたまま動かない拓真を見て、響華は心配そうに声を掛けてくる。
彼女の言葉で我に返り、拓真は自分が言うべきことを思い出した。
拓真はその大きな黒い瞳を見つめ返す。そして深々と頭を下げた。
「響華。姉さんを助けてくれてありがとう」
その態度に、響華は困惑したようで。
「助けたのは緋織さんですよ? 僕はただお二人をたまたま見かけただけで……」
「それでも、命の恩人であることには変わりないよ。本当にありがとう」
「そんな……。改まってお礼を言われると照れちゃいますよ……」
顔を上げると、頬をやや赤く染めて目を泳がせる響華の姿が目に入る。
「響華がその場に居合わせてくれて良かったよ」
「いえいえ。でも、緋織さんがお姉さんを救ったのは本当ですよ。僕は死にそうな人間をホイホイ介抱するほどお人好しではないので」
「……どういうことだ?」
響華の言葉の意味が理解できなくて、拓真は聞き返した。
「緋織さんだからこそ助けたんです」
話の流れが読めない。自分だからこそ助けた? 一体どういうことなのか。
記憶には無いが、以前響華に出会ったことがあったのだろうか。
「なんで……」
無意識に零れた疑問に、答えはすぐに返ってきた。
「とっても、綺麗だったので」
響華の表情が急変する。彼女が浮かべるのは、屈託の無い笑顔。しかし、それを見た瞬間、拓真は全身に寒気を覚えた。
「意味が分からないんだけど……」
聞き返すが、響華ははぐらかすように笑うばかり。
一見可憐に見えるその微笑みの奥で、何か醜い感情が揺らめいているような。
細められた瞼の奥から見えるのは、大きくて真っ黒な瞳。拓真はそれに取り憑かれたように、いつまでも瞳の奥の、底の見えない深い闇を見つめていた。
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