1-5

 甲高い発砲音が、拓真の意識を現実へと引き戻した。

 首だけ動かして音のした方に目を向ける。

「な……!?」

 そこにはどうしようもなく震える手で拳銃を握り締め、肩で息をする海咲の姿だった。

 咎人の注意が彼女に向く。

 どうして戻ってきた、と叫ぼうとするが、声が出ない。

 咎人は既に動かない拓真から意識を外し、海咲に向かってゆっくりと近づいた。

 やめろ、逃げろ。と叫ぼうとするが言葉にならない。必死に身体を動かそうとするが微動だにしない。それでも拓真は立ち上がることを諦めなかった。

 凶刃が海咲に迫る様子がやけにスローモーションで映る。

 咎人が一歩を刻むたびに、海咲の死が刻一刻と迫る。

 ダメだ……。それだけは、絶対に。

 己の身体を死にもの狂いで動かそうとする。

 奥歯が砕けるくらいに強く歯を食いしばった。

 動け、動け動け!

 しかし、いくら脳が命令しても身体は無反応。一向に動く気配は無い。

 血走った眼で、拓真は海咲の姿を見つめる。お願いだから、早く逃げてくれと訴えた。

 しかし、その願いは届かない。瀕死の拓真に想いを届ける術は無かった。

 海咲には生きていてほしかった。彼女を死んでしまっては、自分は一体何の為に生きてきたのか。その存在意義が失われる。五年間の努力が、想いが、全て無駄になる。

 どうか、生きてほしい。せめて最期くらいは守らせてほしい。自分が死んでも、最期の最期に大事な人を守れたと胸を張らせてほしい。笑ってその生を全うしてほしい。

 海咲と一緒に居たいという願いを犠牲にしてまで、自分の命を捧げたのだ。

 こんな結末は認めない。もうこれ以上、大切なものを奪われたくない。これでは、死んでも死にきれない。

 死神の鎌が海咲の命を刈り取ろうとする。

 途方もない恐怖が押し寄せ、全身に戦慄が走った。

 手を伸ばす。

 やめろ、やめてくれ。逃げてくれ、頼む……。逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ。お願いだから……。やめてくれ、やめろやめろやめろ、やめろやめろやめろやめろやめろ――。

「――やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」

 その掌は空を掴んだ。

 拓真の視線に気が付いた海咲が泣き笑いのような表情を浮かべ――。

 振るわれる咎人の無慈悲な一撃は海咲の小柄な身体をゴミ屑のように弾き飛ばした。

 宙を舞う海咲の姿が嫌なくらい脳裏に焼き付いた。



 五年前、両親を失ったとき拓真は何を思ったか。彼自身、己の気持ちをきちんと整理できていなかったのか。それとも、気が付かないようにしていたのか。

 唯一の、たった一人の肉親である海咲を守ること。拓真はそう解釈していたが、実際はそんなに美しい感情ではなかった。

 その奥の、光の届かない根底には――。

 拓真はあの事故の後、「大事なものを、もう絶対に失いたくない』と渇望した。

 それは明らかな私欲だった。

 心の奥底で密かに、されど確かな熱を持って、それは存在していた。

 少年は持ち合わせていた。

 たとえ他の全てを滅ぼしてでも己の卑しい欲望を叶えようとする、その覚悟を。



 拓真の視界が真っ赤に染まる。同時に様々な感情が沸騰した。

「――ッッ!!」

 これが何なのか、拓真には分からなかった。

 憤怒? 怨嗟? 憎悪? 幽愁? それとも、絶望?

 ただ一つ確かなのは、途方もない殺意の矛先が咎人に向いているという事実だった。

 人間一人には抱えきれない量の情動が、ドス黒い負の感情が人間という器から溢れ、ドロドロと混ざり合って混沌と化す。それに身を浸したとき、拓真は人間ではなくなった。

 頭が割れるような頭痛と込み上がってくる嘔気。

 全身を這い回る怖気と凍えるような寒さ。

 そして――。

 大気を激震させる霹靂に匹敵する咆哮。獣の絶叫が夜空を支配する闇に轟いた。

 その獣の咆哮は自分が発したものだと、拓真には理解できない。

 何故、急に立ち上がって動けるようになったのか、拓真には分からない。

 ただ、彼は。咎人を葬るべく、既に地を蹴っていた。その足運びで地面を砕き、細かくなったアスファルトが土煙と混ざって噴煙の如く舞い上がる。

 拓真はたった一歩で劇的な加速を見せた。神速の踏み込みで咎人の前に躍り出る。

 仇敵の顔面に拓真は拳を叩き込んだ。

 何の工夫もない、ただ力任せの拳打。しかし、その一撃は戦車の主砲をも凌ぐ威力。規格外の推進力と拳の堅牢さを以って、咎人の鼻頭を穿った。

 咎人の頭のてっぺんから尾の先まで衝撃波が駆け抜け。刹那、暴力的な力で引っ張られたようにその巨体が真後ろに高速で吹き飛んだ。その馬鹿でかい図体に似合わず、その咎人は街灯をいくつもへし折りながら面白いくらい転がって、地面にぐったりと横たわった。

 その様子を、一騎の漆黒の騎士がはたと見つめる。

 身に纏うのは頭部を含め全身を包む甲冑。その色は一点の穢れすらも許さない漆黒。全体的に鋭角が取り入れられ、禍々しさの漂う外見は鎧武者や戦士というより、竜騎士に近いそれであった。兜の奥からは真っ黒な闇の中に二つの紅点が覗く。

 漆黒の騎士がその場に存在するだけで周囲の空気は冷え、瘴気が漂う。数多の物音はその息を潜め、まるで彼の存在を畏怖しているようだった。

 咎人が起き上がる。

 圧倒的な力を見せつけられて尚、その黄ばんだ瞳からは殺意以外汲み取れず、そこに怖れなど入り込む余地はない。身を低くし、唸り声を上げて臨戦態勢。

 対する騎士も両腕を上げ、その拳を構えた。

 両者の視線が絡み合う。

 寸刻、世界から音が消えて静寂に支配される。嵐の前の静けさ。

 分厚い雲に覆われていた月がようやく顔を出し、雲の隙間から月光が零れ落ちる。その淡い光が一騎と一匹の姿をぼんやりと照らし出し。

「――ッッ! ガァアアアアアアアアッッ!!」

 狂ったような絶叫と共に漆黒の騎士は大地を蹴る。

 その疾駆は誰の視認も許さなかった。

 的に向かって一直線に飛ぶ矢のように駆け、瞬きすら許さぬ速度で間合いを走破する。

 咎人に反応する時間も与えず、懐に潜り込んだ騎士は咎人の腹部を全力で蹴り上げた。その想像を絶する威力に数トンある巨体が浮き上がる。知らぬ間に宙に打ち上げられた咎人は四肢をバタつかせるが、当然空中では身動きは取れない。

 そして次の瞬間には、騎士は咎人よりも高い位置まで跳躍していた。拳を握り締め、バネを縮めるように力を溜めて身体の脇まで引く。

 一瞬、空中で咎人と目が合った。

 漆黒の騎士は確かに、奴の目に恐怖が混じるのを確認した。嗤う。

 解放。爆速の拳打が繰り出され、その一撃は鉄槌の如し。

 咎人の頭を撃ち抜き、脳髄を陥没させた。咎人の身体が地球に引かれる力よりも遥かに強い力で大地に叩き付けられる。

 既に虫の息の咎人へ、さらに騎士の追撃。彼は空中で身体を大きく捻じり上げ、その反動で身体を回転させ、咎人に向かって急降下。その勢いに回転による遠心力を上乗せして、甲冑に武装された足部で踵蹴りを繰り出した。

 隕石の如き一撃が、ぐったりと横たわった咎人の腹部に突き刺さる。その衝撃で咎人を中心とした地面を中心に亀裂が走り、次の瞬間にはまとめて崩れ落ちて陥没する。

 剛堅な踵は分厚い皮膚をいとも簡単に突き破っていた。噴水のように鮮血が噴き出し、騎士はその甲冑を真っ赤に染める。

 これにはいくら咎人といえども耐えられる筈もなく。

 今まで聞いたことのない、悪寒が走るような断末魔を残して事切れる。

 最期のその絶叫はまるで鬼哭だった。


 咎人の命の灯が消えたのを確認したと同時に、漆黒の騎士は幻だったかのように跡形も無く消え失せ、そこに残っていたのは全身血塗れの拓真だけだった。

 彼が自分の存在を再び認識した瞬間。全身の力が全て抜け落ち、拓真は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

 血の海に沈んだことにより、身体が血に塗れた不快感と、濃い鉄の臭いが鼻を衝く。喉の奥から温かいものが込み上げてきて、黒い血塊を吐いた。視界が霞む。

 しかし拓真は自分の心配など、これっぽっちもしていなかった。

 悲鳴を上げる身体に鞭を打って、彼は生まれたての小鹿のように立ち上がる。ひどく酔っぱらったように視界が歪む中、拓真は一歩ずつ鉛のように重い足を踏み出した。

 既に限り無く死に肉薄し、寒さで凍えそうになりながらも、先ほどの戦闘で荒れ果てた街路で拓真は姉の姿を探す。その様子は未練を残して現世を彷徨う亡霊さながら。

 ふらふらとした足取りで数メートル歩いたところで。足がもつれ、拓真は地面に無様に転がった。再び起き上がろうと試みるが、いよいよ身体はピクリとも動かない。

 不意に拓真は微睡みを覚えた。

 数秒後、急激な眠気と寒さが巨大な波となって襲い掛かってくる。そして、その勢いに抗えるだけの体力と精神を、拓真は既に持ち合わせておらず。

 いとも簡単にその流れに呑み込まれた。

「姉さん……」

 そう口にした後。

 電源の切れたモニターのように、拓真の意識はぶつりと音を立てて途切れた。


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