1-4
心地良い静寂を突き破る、甲高い警報音。
その音を聞いた瞬間。拓真の全身を怖気が駆け抜けた。
「ん、なに? パトカー?」
西空の向こうに太陽が消え、夜が訪れた綾杉市。思わず耳を塞ぎたくなるようなサイレンの音が静かな夜の訪れを妨害する。
「この音は……」
忘れる筈もない。薄気味悪く、どこか寒気のする号笛。
これを耳にする度に五年前のあの記憶が呼び起こされる。全身が総毛立つのを感じて、拓真はなんとか冷静になろうと努めた。
「たっくん……」
海咲もこの警報が意味することに気が付いたようで、不安そうに拓真を見上げて来る。
「ああ……。早く行こう」
生唾を呑み込んだ。そして小さく息を吐き出し、今一度自分を勇める。ここで自分が取り乱すわけにはいかない。海咲に、守るべき存在に余計な不安を抱かせたくはなかった。
拓真は先導して警報が木霊する街の中心地から離れる方向に、速足で歩きだした。
「大丈夫だ……」
海咲に、そして自分にそう言い聞かせる。これまでの人生でこの警報は何度も聞いた。別に珍しいことではない。
しかも、実際に被害に遭ったのは五年前の事件、一度きり。それより前もその後も、一度も咎人の姿をこの眼で見てはいない。だから。
だから、今回も大丈夫だ。
突如として耳に届く獣の咆哮。それは遠雷のように街全体に轟いた。
いつの間にか、空の闇を照らし出していた月が分厚い雲によって遮られ、夜の空は完全に闇に支配されている。天を覆う黒はどこか不吉な予感を漂わせた。
次いで耳に届いたのは人々の悲鳴。それが予想以上に近い場所で上がったことに拓真は大きな焦りを覚えた。その絶叫を掻き消すように響き渡るのは、地面のアスファルトの粉砕音。重量感のあるそれが等間隔に、その度に地面を激震させながら近づいてくる。
それを厄災の足音だと判断するや否や。
拓真は両手の荷物をかなぐり捨て、海咲の手を引いて走り出していた。
何故だ。と、誰に宛てたわけでもなく問う。
どうしてこうも平和な時間は、かけがえのない幸福の時は、咎人という名の化け物によって奪われていくのか。途方もない悲痛に心が支配される。
もうあの時、十分失ったではないか。まだ差し出せと言うのか。
拓真は音が立つくらい奥歯を噛み締めていた。
何故自分なのか。と、己の運命を呪った。
どうして自分たちだけ、こんな目に遭わないといけないのか。他の誰かでもよかったのではないか。何故、よりによって。
行き場の無い憤りに苛まれる。
それでも心のどこかで、何事もなく嵐が過ぎ去るのを願い。
――災いが降りかかった。
歩道脇の並木をまとめて薙ぎ払い、落石のような揺れと地鳴りと引き起こし、視界に映り込んだと錯覚させるほど色濃い悪意と邪気を纏って。
無力な二人の人間の前に、命を刈り取る死神として降臨する。
それは獣の姿をしていた。
大型バスにも匹敵する巨大な身駆は強靭さとしなやかさを併せ持ち、覆う皮膚は遠目に見ても分厚い。四肢の先端は異常なほどに発達した鉤爪が生え、一歩踏み出す度に地面のアスファルトがいとも簡単に切り裂かれる。
百獣の王の彷彿とさせる立派な鬣はその毛先まで深い黒。それに守られた頭部の顎門は強剛で、覗く犬歯は真っ赤に染まっていた。既に人間だった頃の特徴は片鱗も無い、膨大な感情を暴走させ、強大な力を得た咎人だ。
一体どれだけ負の感情を持て余せば、このように悍ましい姿へと生まれ変わるのか。拓真にはとても想像できなかった。
色の無い黄ばんだ瞳がはたとこちらを見据える。絶対強者の視線に籠るのは殺意のみ。
握った手から震えが伝わってくる。
無理もない。死が目の前まで迫って来ているからだ。
死を待つしかできないこの状況で、ちっぽけな人間にできることなど何もない。ただ、怯えながらもたらされる命の終焉を迎えるだけである。
しかし拓真は決して怯まず、その感情の見えない瞳を鋭く睨め付け返した。
やがて彼は決心する。
「姉さん……。俺のことはいいから、早く逃げて……」
ビクッと海咲の身体が大きく跳ね上がった。怯えた表情でこちらを見上げてくる。
「だ、だめ……」
その声と手はガクガクと震えていたが、それでも強く拓真の手を握り締めた。
拓真は彼女の細い指を一本ずつ、丁寧に解いて。海咲を守るように一歩前に出た。
懐から拳銃を抜いて、スライドを引いた。
海咲に内緒でバイトして、コツコツ貯めたお金で買った拳銃だ。実際に使う日が永遠に来ないことを願っていたが、それは叶わなかった。
「俺が注意を惹くから、その間に走って逃げろ」
そう言い終わるや否や、返答を聞かずに拓真は駆け出した。
トリガーを絞る。甲高い発砲音と共に右腕に衝撃。肘が跳ね上げられ、弾丸がジャイロ回転しながら発射される。弾丸は吸い込まれるようにして咎人の頭部に命中した。
しかし、咎人は全くの無傷。有効なダメージは与えられていない。
その事実に拓真は舌打ち。銃規制を呪った。一般人には己の身を守る術すら無いのか。
続けて何度か発砲するが結果は同じだった。
空薬莢が地面に落ち、その音が虚しく響く。
だが、咎人の意識は完全に拓真に向き、唸り声を上げて怒りを露わにした。
これでいい。と、拓真は内心笑う。全く有効ではなかった拳銃だが、最低限の役割は果たしたわけだ。これで海咲が逃げる時間は稼げた筈である。
彼女の行方を確認しようと視線を移す。
「なっ……」
視界の端に映ったのは未だにその場に佇む海咲の姿。胸の前でぎゅっと手を握り、不安そうに拓真を見つめている。自分の身の危険を顧みず自分を心配する彼女を見て。
拓真は嬉しいような悲しいような、喜びたくなるような泣きたくなるような。そんな何とも言えない、名前の付けられない感情に支配され。
「早く行けぇぇぇぇえええええええええッ!!」
気が付けば喉が潰れるくらいの大声で叫んでいた。
記憶の限りで、生まれて初めて姉に向かって声を荒げた。心が痛む。
結果としてはそれが効果的だったのか。海咲は堪えるように唇を噛み締め、大きな目をぎゅっと閉じた後、こちらに背を向けて一目散に駆け出した。
これでいい。
「…………」
拓真は無言で、自嘲気味に笑った。
逃げろと口にしながら、去っていく海咲の後姿を見ると哀愁で胸が締め付けられる想いに駆られたからだ。そんな弱い自分自身を戒め。
遊底が後端で静止し、ホールドオープン。弾切れの合図を確認すると同時に空弾倉を抜き取り、懐から取り出した新たな弾倉を装填する。
銃の扱いは訓練所で嫌というほど練習した。初めての実戦で躊躇なく扱えるのはその訓練の賜物である。神田とその父親に密かに感謝する。
再び咎人が咆哮。その大音響で空間そのものが激震し、ビリビリと肌が痛む。
その迫力を前にしても尚拓真は気圧されない。その瞳には諦めの感情は微塵も無く、生きる意志に満ち溢れていた。
この咎人を仕留める必要はない。
ネメシスの執行官が救助にやって来るまで持ち堪えればよい話だ。
右手の拳銃の感触を確かめ、拓真は海咲が逃げた方向と反対側に駆け出した。
咎人が追駆する。前脚と後脚を交互に動かして前進する姿は人間ではなく、獣のそれ。その図体に似合わない俊敏な身体運び。尚且つその一歩の大きさを以ってして、一瞬で拓真に追い付いた。三脚で大地を踏み締め、鉤爪の付いた片前脚を振り上げる。
一撃必殺が拓真を襲った。
彼はそれを限界以上に上体を捻ることで辛うじて回避。髪を数本散らしながら地面を滑り、咎人の懐に滑り込んで真逆に方向転換。股を抜けて再び走り出す。
――結果として、それが拓真のミスだった。
「――ッ!」
気が付いた時には遅かった。
振るわれるのは、咎人の巨大な身体にはあまりに細く、人間の矮躯にはあまりに太くて強靭過ぎる尻尾。それが拓真を薙ぎ払い――。
気が付けば拓真は空中に放り出されていた。紙屑のように宙を舞い、人間には耐えられない速力で地面に打ち付けられる。肺の空気が全て外に出たと錯覚するほどの衝撃。
散々練習した受け身も圧倒的な暴力の前には無意味だった。地面を激しくバウンドし、数十メートル転がった後、ぐったりとその場にうつ伏せに横たわった。
「が……ッ」
激しい痛みに叫び声すら出ず、口から零れるのは肺の中の空気と血の塊。
鮮血が拓真を中心に広がり、アスファルトの白を濃い赤に彩色する。
何故か痛みはほとんど無かった。
当に痛覚の限界を超えたのか、それとも神経が役に立たなくなったのか。身体にちっとも力が入らないことを確認して、拓真は己の最期を覚悟した。
「ゲホゲホ……ッ!」
激しく咳き込んで血溜まりを広げる。拓真はすぐそこまで死が迫っているのを直観すると同時に、急に寒気と寂しさが津波のように押し寄せた。
それを意識した途端、拓真は急に怖くなった。
先ほど去っていく海咲の姿を見て胸が苦しくなったのは、これが原因だったのか。
怖いのだ。海咲と離れることが。
拓真はずっと一緒にいたいと思っていた。それが何よりも優先される願いだった筈だ。
それ以外の全てを犠牲にしてでも守りたい居場所だった。離れ離れになることなんて考えてもみなかった。考えたくなかった。
だから、辛い。寂しい。悲しい。
拓真の目尻から一筋の涙が零れる。願いが叶わないことを悟って。
咎人が拓真を見下ろす。相変わらずその瞳に宿るのは殺意のみ。黄ばんだ瞳が獲物を注視する。今一度、咎人は目の前の非力な存在に向かって前脚を振り上げた。
拓真は瞼を閉じる。己の最期を待つ。いくら振り払おうとしても、この世への未練は消える気配がないが。海咲の命を守れたことをせめてもの気休めとして――。
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