1-3

「いやぁ、いっぱい買ったね」

「買い過ぎだって。レジ袋三つもあるじゃん……」

 店員の挨拶を背後に受けて、拓真と海咲は近所のスーパーを後にした。

 既に日はほとんど落ちており、西の空の端が若干赤いくらいで、夜空は星々と月に占領されていた。しかし、その光は街を照らすには微弱であり、代わりに脇道の街灯が等間隔で地面を丸く、拓真たちの歩く道を示していた。

 東京の都心部に隣接する綾杉市だが、この街自体の人口は他と比べてやや少ない。故にこの時間帯の人通りはあまり多くなかった。

 その理由の大部分を占めるのはこの街が『ネメシスの御膝下』だからである。簡単に言うなら「軍隊の基地近くに住みたがる人間は少ない」ということだ。

 海咲の手には三つのレジ袋が握られており、どれもはち切れるほどにパンパンだった。

 拓真は海咲に両手を差し出す。

「はい」

「ん……? はい!」

 海咲は何を勘違いしたのか、拓真の懐に飛び込んできた。

 腰に手を回して胸元から拓真の顔を見上げてくる。

 意図していたものと異なり、急に抱き着いてきた姉の姿を拓真は見下ろした。

「……。何やってんの?」

 他人の目が気になるから早く離れてほしい。

「え? 胸に飛び込んでおいで。の仕草だと思って」

「荷物持つよ、って意味だったんだけどな……」

 海咲は弟の懐でいたずらっぽく笑う。その仕草を見て拓真は、姉というより幼い妹を相手にしている気分になった。

「先月でアラサーの仲間入りを果たしたのに、その行動はちょっとキツいと思うぞ?」

「ちょっと!? たっくん酷い!」

 目尻を吊り上げて頬を大きく膨らませ、海咲は憤慨した。拓真から離れた海咲は口を尖らせてぷいっと俯いた。その仕草もどこか子供っぽい。

 指摘すれば更に機嫌を損ねそうなので口には出さないが。

「私だってまだまだ高校生に負けないくらいピチピチなんだからね!」

「はいはい……。ごめんごめん」

 適当に応じて海咲が持っている買い物袋を受け取った。中には日用品や数日分の食材がぎっしりと詰まっている。底が抜けないか心配になるほどの重量だった。

「お詫びに今日の晩御飯はちょっと奮発するから」

「……! そうだ。言い損ねてたんだけど……」

「え? なに?」

 恥ずかしそうに口を開いた姉を見下ろした。視線を泳がせながらもじもじしていて、何やら言い淀んでいる様子である。

「言いにくいこと?」

「そんな大した話じゃないんだけど……」

 やがて決意したように拓真の目を見て、少し躊躇いがちに口を開いた。

「今日は私が晩御飯作ろうかなって――」

「――いや、やめておこう」

「なんで!? せっかく勇気出してお願いしたのに!」

 と、海咲は驚き半分悲しみ半分といった様子で拓真に抗議する。

「だって姉さん、死ぬほど料理下手じゃん……」

「そんなこと……、ないよ……?」

「あるよ……」

 過去に何度か海咲の料理を口にしたことがあるが、全て味付けが濃過ぎて食べるのに苦労した思い出がある。調味料の分量をどう間違えたらあんな塩辛い料理が作れるのか。故に緋織家の料理を始めとした家事のほとんどをこなすのは拓真の役目だった。その事実が気に食わないのか、申し訳なく思っているのか、海咲は時折自ら家事を申し出る。

 しかし拓真にとっては、家事を全てこなしていても海咲には恩を返しきれていないと思っている。緋織家は彼女が稼いだお金で成り立っている為、どうしても海咲には申し訳なさを感じてしまう。たとえそれが家族であったとしても、だ。

 拓真も稼げるようになって少しでも海咲に楽をさせてあげたいと思っているのだが、彼はまだ学生の身。その事実がどうしてももどかしかった。

 それらが、拓真が自ら家事を全てこなそうとする理由の一つだ。

 拓真の冷たい対応に海咲は更に頬を膨らませる。まるで駄々を捏ねる子供みたいだ。

「たっくんの意地悪!」

「はいはい。

「おたんこなす!」

「何とでも言ってください」

「そんなんだからいつまで経っても善子ちゃんに振り向いて貰えないんだよ」

「ブフゥ!? ……っ、げほげほ!」

 急に想い人の話を振られて拓真は噎せ返った。

「な、なんで知ってんの……。言ってないよな?」

「言われてないけど……。あれだけアツい視線送ってたら、ね?」

「マジか……」

 好きな人の存在が家族に知られるとは、思春期真っ只中の男子高校生にとって耐え難いことだった。それも海咲がよく知る人物ときた。

「たっくんが惚れちゃう気持ちも分かるよ。善子ちゃん可愛いもんねえ。美人さんだしスタイル良いし……」

「う……。まあ、そうだな……。って、その腹立つ顔やめてくれ」

 あっさりと肯定した拓真を見て、海咲はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。拓真は自分の頬が熱くなるのを感じた。もしかしたら顔が赤くなっているかもしれない。

 それが無性に恥ずかしくなって、何か話題を変えようと必死に思考を巡らせ。

「俺のことより……。姉さんもさっさと結婚相手でも探したらどうだ?」

「えっ!?」

「もういい歳なんだから、そろそろいい旦那さん見つけたら?」

「まだまだ若いって言ってるでしょ!? これからゆっくり決めていくんだから!」

「本当か?」

「それに……」

 海咲は声のトーンを落としてやや表情を曇らせた。

「まだ、ちょっと怖いし……」

「……ッ!」

 そう不安そうに言葉を発した海咲を見て、拓真は自分の軽率な発言を呪った。結婚して家庭を持てば、今よりは彼女の負担を減らせると見込んでの発言だったが。

 先ほどの神田との会話でも似たような雰囲気になったのに、それを失念するなんて。

 横断歩道の青信号が点滅し、やがて赤に変わる。二人は手前で並んで待ち。

「ごめん……」

「いや、気にしないで」

 苦笑する海咲を見て、拓真は心が締め付けられるような気分になった。

 己の感情を暴走させ、醜い化け物へと変わった元人間。それが咎人。

決してその頻度が高いわけではないが、いつどこで誰が咎人になるか予想できないこの世界で、赤の他人と一緒になって同じ時間を共有するというのは難しい話だ。

 事実、現在日本では生涯未婚率が非常に高く、人口も年々減少の一途を辿っている。

 国も婚活支援や育児支援を積極的に行ってはいるのだが、目に見える成果は挙がっていなかった。

 それに稀なケースではあるが『家族の一人が咎人になってしまい、結果としてその一家が全滅した』という話もある。これが国民に衝撃を与えたのは間違いなかった。

 そして緋織家もまた、似たような悲劇に遭った家族の一つであった。

 あれは今から五年前、拓真が十一歳で海咲が二十歳だった頃。

 小学校の卒業式が執り行なわれ、あとは春休みを待つばかりであった三月下旬の出来事である。前日までの春の陽気を感じさせる温かさとは打って変わって、その日は底冷えするほど気温が下がり、町に季節外れの雪がチラついていたことを覚えている。

 学校から帰宅した拓真が目にしたのは、崩壊した自宅と血まみれの父親、怯えた姉、化け物へと姿を変えた母親。そして、母親に向かって武器を構える男たちの姿だった。

 そのとき拓真は何を思い、どのような行動を取ったのか。あの日から色々なことがあり過ぎて、今は正直はっきりと思い出せない。

 しかし、「姉さんは俺が守る」という確固たる決意が芽生えたことは確かで。

 それの実現の為に行動したことも事実だった。

 その後逃げるようにその地域から離れて上京し、その際に知り合った神田に頼み込んで彼の父親が営む『訓練所』に所属したのも、この事件がきっかけだった。

「…………」

「…………」

 嫌な沈黙が二人の間を支配する。

 別に悲しみに暮れているわけではない。あの事件からもう五年が経っており、ある程度整理は付いている。それは海咲も同じ筈だった。

 しかし、なんとなく。お互いに色々と思うことがあり。この話題になるとお互い変に遠慮して、こうして微妙な沈黙が続くのだ。

 それに耐え難くなって、この空気を変える為に何か別の話題はないかと必死に探し。

 信号が青に変わる。特に狙ってわけでもなく、二人同時に一歩を踏み出して。

「一緒に作ろうか」

「えっ?」

「晩御飯」

 気付けばそう言葉にしていた。

 拓真の急な提案に、海咲はその大きな瞳を見開き、驚きを露わにした。だが、すぐに優しく目を細めて心底嬉しそうに顔を綻ばせ。

「うん……!」

 屈託のない笑みを返された拓真は少々気恥ずかしくなって視線を逸らした。

 すると、腕に柔らかい感触。

「じゃあ、早く帰ろ!」

「くっつなって……。歩きにくいだろ」

「いいじゃん……。減るわけじゃないんだし」

「ったく……。仕方ないな」

 やれやれと溜息を付く拓真だったが満更でもない様子。無理矢理振り解くようなこともせずに、されるがまま海咲と共に夜の帰路を歩いた。

 二人並んで夜の街を行く。

 特に会話を交わすようなこともなかったが、居心地の悪さは皆無だった。

 等間隔で地面に光を落とす街灯は二人の行き先を示し、時折脇を抜けていく自動車のヘッドライトが二人の表情を鮮明に照らす。

 姉弟の面持ちは穏やかだった。

 決して特別というわけではない。

 この何気ない日常の一コマが、これといった意味も無く交わす言葉が、共に生活できる時間が、この家族にとってはかけがえのない大切なものだった。

 この何物にも代え難い平和な毎日がずっと続けば良い。拓真はそう思っていたし、海咲も同じことを感じていると、なんとなく分かっていた。

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