一章 零れ落ちる幸福
1-1
「ねえ。たっくん? ちゃんと聞いてる?」
「え……? うん。聞いてるよ」
訝しげに覗き込んでくる女性の顔を認め、その少年――緋織(ひおり)拓真(たくま)は我に返った。
「じゃあ私が今言ったこと、復唱してみて」
女性は椅子に腰を掛けたまま腕を組み、眉を寄せる。このように少し意地悪な問いかけでこちらを困らせるのが、彼女の常套手段だ。
本当に話を聞いていなかった拓真は、少し思案する様子を見せ。
「え、と……。次遅刻したらトイレ掃除、だっけ?」
このように適当な言葉を返すのも拓真にとっては日常だった。
「ほら! やっぱり全然聞いてないじゃない」
やや頬を膨らまし、拓真の鼻頭を人差し指でずいっと指した。
歳の割にやや幼めな顔が目の前まで近付いて来る。さらさらなセミロングの黒髪が揺れてシャンプーの香りが漂い、拓真の鼻をくすぐった。
もう片方の手を腰に当て、前屈みになった彼女の豊満な胸元が強調される。
その無意識なあざとさが生徒――特に男子生徒の間では評判だが、正直拓真にとってはどうでもいいことだった。
「ちょっと寝不足で……」
「昨日遅くまで起きてたんでしょ? 早く寝なさいっていつも言ってるじゃない」
そう捲し立てながら、女性は顔を目と鼻の先まで近付けてくる。特徴的な大きな瞳が目の前までどんどん迫ってきたため、拓真は少し引き気味に応じた。
「ごめん……。ちょっとテスト勉強してて、さ」
「勉強も大事だけど、ちゃんと学校に通わなきゃ本末転倒なんだからね!」
「うん、わかったから……。姉さん、近いって!」
「学校では、緋織先生! でしょ?」
「緋織先生! 今日は遅刻してすみませんでした。以後気を付けます!」
拓真が口にした『先生』という言葉に満足したのか、緋織先生は前傾姿勢を正し、椅子に深く座り直した。
「分かればよろしい」
目の前で満足げに、うんうんと頷く女性の名は緋織海咲(みさき)。拓真が通うこの綾杉(あやすぎ)高校の若手教師であり、歳の離れた実の姉だ。
現在拓真は、今朝大幅に遅刻したことが理由で職員室に呼び出され、その実の姉から説教を受けていたところである。
「じゃあ、もう教室に戻っていい?」
「ダメ! まだ話は終わってないからね」
眉間に小皺を寄せて、海咲は指でバツ印を作った。
この仕草も海咲の癖の一つで、子供の頃からずっと変わらない。幼い頃の拓真が何か駄々を捏ねたり我儘を口にする度に、毎回こうやって諭されたものだった。
故に少し苦手意識があり、どうしても反射的に身構えてしまう。
「ええ……。まだあるのか」
「それでは罰を言い渡します」
コホン、とわざとらしく咳払いをした後。
「今日の放課後、二階のトイレを掃除すること!」
「マジかよ……」
言い渡された予想外の罰則に拓真は思わず呻いた。
遅刻を繰り返したツケがこんな形で回ってくるなんて予想もしていなかった。
「姉さ……、緋織先生の権限で免除できませんか?」
「できません。何故ならこれは私が今決めたことだからです」
海咲は胸の下で腕を組んで頑なな態度を崩さない。こうなった彼女はよっぽどのことがない限り折れてはくれない。それはこれまでの経験で学習済みだ。
拓真は小さな溜息を付く。まさか本当にトイレ掃除する羽目になるとは。
さっき余計なこと言わなきゃよかった、と後悔したが今更遅い。
「全く……。今朝もちゃんと起こしてあげたのに遅刻するなんて……」
海咲は俯いて少しむくれ気味に、小さな声で呟く。
ここ数日、わざわざ毎朝起こしてもらったにも関わらず三日連続で遅刻したことを、彼女は根に持っている様子だった。拓真は右手を遠慮がちに挙げて抗議する。
「先生。それは少し私怨が入っていませんか?」
「入っていません。妙な言いがかりはやめなさい」
嘘つけ! と指摘してやりたい気持ちは山々だったが、これ以上機嫌を悪くさせたら罰則が増えるかもしれない。それを危惧して拓真は渋々頷いた。
「素直でよろしい! もう戻っていいよ」
拓真の反応を見て、海咲はぱっとその表情に笑みを咲かせる。
ちなみにこれは友人から聞いたことだが。この裏表のない性格と可憐な笑顔が、生徒達から絶大な人気を集めていることの要因らしい。確かに言われてみれば、海咲は弟の拓真から見ても大層魅力的な女性であり、自慢の姉であることは間違いなかった。
それも拓真自身にはあまり関係ないし、特に気にしてもいないが。
「では、失礼します」
そう言葉を残し、拓真は職員室を出るべく海咲に背中を向けた。
しかし、数歩進んだところで再び後ろから声が掛かる。
「そうだ、たっくん」
「なに?」
半分だけ振り返る。視線の先では、少々不安そうにこちらを見つめる海咲の姿。
「トイレ掃除が終わったら校門で待ってて。私も今日は早く帰れそうだから、帰りに一緒に買い物に行こ?」
どうして彼女は最近、弟を何かに誘う際に少し不安そうにするのか。それが分からない拓真ではない。きっと海咲は拓真が姉離れしてしまうことが気掛かりなのだろう。
拓真は今年で十六歳、世間一般的に気難しい年頃であることは間違いない。
周りの友人を見ていると、家族と仲良くしている奴は少ないように思う。何をするにも家族の目が鬱陶しいと感じてしまう年頃なのだろう。
しかし、少なくとも拓真は自分の姉を邪険に扱ったことは一度たりともなかった。そして、これからもそのような行動を取るつもりはない。
海咲が拓真を大切に想っているように。拓真も海咲のことをかけがえのない大事な存在だと思っている。これはこの先何があっても、きっと変わらない。
たった一人の、家族なのだから。
それが分かっているからこそ。海咲を想っているからこそ。さっきとは打って変わった彼女の態度に、拓真は薄く笑みを浮かべ。
「分かった。待ってるよ」
二つ返事で応じた。
すると、みるみるうちに海咲の表情が明るくなっていく。本当にわかりやすい。
「じゃあまた後でね、たっくん!」
嬉しそうに頬を緩めて手を振る海咲に、こちらも手を振り返して職員室を後にする。
「姉さんは俺のこと名前呼びしても許されるんだな……」
と苦笑しながら、拓真は誰に言うまでもなく呟いた。
職員室から廊下に出て、扉を閉めると、拓真は肩の力を抜き小さく息を吐いた。
生徒にとって職員室は居心地の悪い場所であり、入室する前から退出後までなんとなく身体に力が入ってしまうものである。
それは拓真にとっても例外ではなかった。
いくら姉がいるとはいえ、やはり職員室は教員の巣窟。遅刻の常習犯でありよく教師に叱られている彼は、特にその謎のプレッシャーを強く感じてしまうのである。
拓真は今一度小さな溜息を付くと、自分の教室に向かって歩き始めた。
学ランからスマートフォンを取り出して時間を確認する。時刻が午後一時、ちょうど昼休みの半分ほどが経過した時間だ。
「うへえ……。もう時間ねえじゃん……」
思わず少し口元を歪めて呻いた。随分と長い時間職員室に居たようだ。昼ご飯を食べに行く時間がほとんど残されていない。
今朝用意していた弁当は登校前に食べてしまったため、購買か食堂に行く必要があった。だが、人気メニュー争奪戦に出遅れてしまった今、何かめぼしいものが残っている可能性はかなり低いに違いなかった。
「今日はカツサンドの気分だったんだけどな……。この時間だとツナ缶サンドしか残ってなさそうだよな……」
ツナ缶サンドとは購買部で一番の不人気サンドである。ツナ缶をパンに挟んだだけの簡単なもので、値段はかなり安いが正直あまり美味しくないので毎日余りがちだった。
しかし、腹が減っては午後の授業を乗り切ることは不可能に近い。背に腹は代えられないと判断し、拓真は購買へと足を向けた。
廊下を歩けば、大きな窓から差し込む太陽の光が拓真の顔を照らす。
その眩い光に彼は目を細めた。空は雲一つない快晴。
数週間前まではずっと天気も冴えず、晩夏特有の高温高湿の不快な毎日が続いていたが、最近は打って変わって涼しい日が増えてきている。朝方は肌寒いくらいだ。
窓の隙間から流れて来る風は乾いていて、額に当たると心地良い。
やや視線を下げ、窓の外に広がる中庭に視線を移せば、徐々に裸になり始めた木々が目に入る。その根元では二人の女子生徒が仲良く弁当を広げていた。梅雨や真夏と違って過ごしやすいこの季節は校舎の外で食事をする生徒も増えてくる。
近付いて来る冬の足音が少しずつ、されど確実に耳に届き始めていた。
購買部を目指す拓真はさらに歩を進め、やがて階段前の角に差し掛かったところで。
「おお、迷える仔羊よ……。一体にどこに行こうというのです……」
意味不明な台詞と共に、拓真の前に一人の少年が突如として現れた。
瞳を閉じ、胸の前で手を合わせるその姿は胡散臭い宗教勧誘のようだ。
特にリアクションせずにその少年の横をすり抜け、拓真は階段を降り始める。今は腹が減っている。馬鹿の遊びに付き合っている暇はない。
階段の中腹に至ったところで、背後から近付いて来る足音。
拓真を追い越し、その少年は再び目の前に立ち塞がった。肩で息をしながら、それでも無理矢理渾身のドヤ顔を浮かべ。
「おお、迷える仔羊よ……。一体にどこに行こうというのです……」
「神田。それ、俺が何か反応するまで続けるつもりか?」
拓真の台詞を聞いて、その少年――神田(神田)康弘(やすひろ)はニヤリとその顔に笑みを湛えた。男子にしては低めの身長と固い髪質のツンツンヘアー。そしてコロコロと変わる豊かな表情が特徴的な男子生徒。拓真がこの街――綾杉市に越してきて最初にできた友人でもある。
その神田の悪戯っぽい表情を見て拓真は「しまったな」と後悔した。
「道に迷う痛ましき貧乏人を食物が得られる場へ導くのが我が役目……」
神田は大仰に手を広げて天を見つめる。その態度と言動に拓真は少しムッとした。露骨に顔を顰めてやや棘のある言葉をぶつける。
「その貧乏人にも分かるように説明してくれませんかね?」
機嫌を損ねてしまったことを少し反省したのか、それとも興が冷めたのか。苦笑を浮かべた神田はつまらなさそうに肩を竦めた。
「購買にはもう何も残ってなかったぜ」
「……。それ、本当か?」
「嘘は言わねえよ。なんでかは知らんが、ツナ缶サンド一つすら、な」
「マジか……。それは困ったな」
これは拓真にとって誤算だった。まさか今日に限って購買部が完売してしまうとは。
昼食抜きでこれから午後の授業に臨むのは苦痛である。
遅刻したことと登校前に弁当を食べてしまった過去の自分を呪った。
「そんなお前に朗報」
テンションの下がった拓真に対して神田は元気いっぱい、有り余っている様子。無邪気な笑顔を浮かべて、どこに隠し持っていたのかカツサンドを拓真に向かって差し出した。
「食いたかったんだろ、カツサンド。やるよ」
「は? お前が触った飯なんぞ食えるか」
無駄に意固地になった拓真は、神田からのありがたい申し出を跳ね除けた。しかし本人の意思に関わらず身体は正直なもので、拓真のお腹が「ぐう……」と大きな音を上げる。
「…………」
「ん、ん……。ごほごほ」
わざとらしく咳払いをして誤魔化そうとするが、拓真の視線は神田の手の中にあるカツサンドに注がれていた。彼は思わずゴクリと大きな音を立てて生唾を呑み込む。
その姿がよっぽど憐れに映ったのか、神田は口端を引き攣らせて苦笑いを浮かべた。
「俺の奢りでいいから……」
「おっ、マジか! ありがとな!」
その言葉と共に神田の手からカツサンドを引っ手繰った。サランラップを乱暴に引き裂いて思いっ切り噛り付く。途端に口の中に旨みが広がった。
カツサンドを僅か数口でたいらげた後、幸福そうな表情を浮かべる。
今度は拓真が神田に対して合掌する番だった。
「ご馳走様です。流石、俺の親友。ここぞというときに頼りになるな!」
「お前のそういう変わり身の早いところ、嫌いじゃないぜ……?」
もう特にツッコむこともせず、神田は呆れた顔でやれやれと首を振った。
そんな神田の様子を見て心情を察することもなく、拓真はただただ昼間から美味いものをタダで食べられた、という幸せを噛み締めていた。
「ところでお前、なんで呼び出しなんか食らってたんだ?」
教室に戻る廊下を二人で歩いていると、思い出したように神田が切り出した。
「三日連続で遅刻したから……。姉さんに叱られてた」
先ほどの出来事を思い出して忌々しげに呟く。
神田は学業の成績がドン引きするくらい悪いため、よく職員室で注意を受けていた。だから拓真は、彼なら自分の気持ちも理解してくれると思っていたんだが。
「緋織先生に叱られた……だと?」
予想に反し、ずい、とこちらに顔を近付けてきた神田は興奮気味に捲し立てた。
「ほとんどご褒美じゃねえか! いいなぁ。あの可愛いふくれっ面で『めっ、だよ!』とか言われたいなぁ。お姉さんが学校の教師、エロいなあぁ、羨ましいなぁ……」
本気で羨ましそうにする神田を見て、「そう言えばこいつはそんな奴だったな」と、拓真は改めて親友のマニアックな性癖を確認する。
それに何が「めっ、だよ」だ。そんなこと言う海咲を生まれてこの方一度も見たことが無い。というか、そんなことやっていたら即やめさせている。
「そんなに良いもんか?」
素朴な疑問を口にすると、神田は顔を真っ赤にして怒り狂った。
「お前! お前には姉がいるからそんなことを口にできるんだよ! まったく……。これだから姉持ちの野郎は……。お前は『お姉ちゃんが居る』というステータスの素晴らしさを全く理解していない!」
「そこまでかよ……」
「それにあんなに優しくて美人ときた。お前とは全然似てないし……。まったく、羨ましいにも程があるぜ……」
そう言葉にする神田に対して、これには拓真も密かに同意する。
確かに海咲は弟の拓真から見ても美人だ。社交的で明るく、誰とでもすぐに打ち解けられる。どちらかと言えばコミュニケーションが苦手な拓真とは正反対だった。
血の繋がった姉弟だが全く似ていない。これは容姿についても言えることであり。
拓真の髪はやや癖毛で目元は切れ長の奥二重。平均身長を裕に超える上背が特徴であるが、逆に海咲は髪がストレートでサラサラ。瞳は大きくて綺麗な二重だ。身長は女性の中でも小柄な方である。このようにほぼ類似点が無い。強いて共通点を挙げるとすれば、二人とも髪の色素が濃く深い黒色をしているという点ぐらいか。
ちなみに拓真は猫が大好きだが、海咲は大の苦手である。子供の頃、野良猫に引っ掻かれたトラウマを未だ引きずっているのだ。
「でも……。緋織先生、浮いた話が全然出ないよな。そろそろ結婚の話とか挙がってもよさそうだけど」
何気なく発したであろう神田の言葉に、拓真は自分でも驚くくらいにドキリとする。その理由に心当たりがあったからだ。
「まあ、でもアレか。いつどこで誰が化け物に変わるかも分からないこの世界で、赤の他人と生活して一緒になるなんて難しい話か。いくら国が援助してくるっつっても――」
と、ここで。拓真の顔を横目に見た神田は急に言葉を切った。不思議に思って拓真が顔を覗き込むと、彼は申し訳なさそうに目線を下げる。
「あ……、すまん……。さすがに無神経だった」
最初は神田が何を言っているのか分からなかったが。
少しの間の後、拓真は自分の表情が酷く強張っていることに気が付く。自分でも気が付かないうちに、徐々に表情が曇っていたらしかった。
余計な心配をさせてしまったことを少し後悔する。
「いや……。もう気にしてねえよ」
それは真っ赤な嘘だった。おそらく神田もその嘘に気が付いただろうが、それ以上追及はしなかった。若干、気まずい空気が場を支配する。
「そ、そうだ! お前どうせ暇だろ? 放課後の訓練の後、どっか飯行こうぜ」
そう口にした神田は少し気を遣っている様子だった。
この空気を変えようとしたのだろう。
「悪い。今日は姉さんと買い物に行くんだ」
拓真の返答に対して、神田はここぞとばかりに食い付いてくる。
「なんだと!? けしからん、俺も連れて行ってくれ!」
「なんでだよ」
「それにしても、親友の誘いを何の躊躇いもなく蹴って姉と買い物に出かけるなんて。さてはお前、とんでもねえシスコンだな?」
「マザコンのお前にだけは言われたくないな」
「なっ!? てめえ、変なこと言ってんじゃねえよ!」
面白いくらいに狼狽する神田の様子に、拓真は思わず薄い笑みを溢した。
少し神田が意図したものとは違うものだったが。結果として場の空気は和み、先ほどまでの淀んだ雰囲気はすっかり消え失せた。
「そういうわけだから、親父さんにはよろしく言っておいてくれ」
「分かった。でも、そのうち埋め合わせしろよな」
「ああ」
気が付けば教室に辿り着いていた。
拓真は一年B組で神田はC組、別クラスである。部屋の手前で神田と別れる。
「じゃあ、またな」
「はいよ」
短い挨拶を口にして二人はお互いに背を向けた。
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