0-2

 咎人は左右の鋏を振り上げて少女を威嚇する。次いで、大気を震わせる霹靂の咆哮。黒板を引っ掻いたような、思わず耳を塞ぎたくなる不快音が空間を駆け抜けた。

 しかし銀髪の少女は一切顔をしかめることなく、平然と身に纏った真っ黒なスーツを正し、緩んでいた同じく黒のネクタイをキッチリと喉元で締め直す。

 咎人の耳を劈く咆哮と醜い容姿を見て、彼女は一つの確信を得た。

「お久しぶりです。兄さん……」

 愛おしそうに微笑を浮かべて、その咎人――かつて兄だったモノを見つめた。

 二年前に彼女一人を家に残し、去って行った兄の変わり果てた姿。

 既に人の姿をしていなくとも。人間だった頃の記憶を失くしていようとも。再び兄に会えたことに、少女は純粋に喜んでいた。赤の双眸と視線が絡まる。

 もう二度と会えない。そう決め付けていたから。

 この再会は彼女にとって奇跡以外の何物でもなかったのである。

「ずっと、会いたかった……。僕、待ってたんですよ?」

 少女は小さな声でポツポツと語り始めた。言葉と一緒に白い息が吐き出される。

「好き嫌いも無くしましたし、お掃除だってお料理だって、たくさん覚えました……。兄さんが好きだった肉じゃがも作れるようになったんです」

 まるで褒めてくださいとでも言いたげに、少女は目の前の兄に話し掛ける。

 しかし、当然ながら咎人にはかつての妹の声など届かず、怒り狂ったように前脚を振り上げて彼女に襲い掛かった。

「なのに……。どうして帰って来てくれなかったんですか? 一体どれだけ、僕が心配していたと思ってるんですか?」

 振るわれるのは、木々をまとめて薙ぎ倒す必殺の一撃。

 しかし、少女はそれを余裕たっぷりにヒラリと躱した。軽やかなステップで後ろに跳び、大きく距離を取る。彼女の目の前を暴風が抜けて行き、髪とネクタイが激しく舞った。

 乱れた髪をそのままに、何事もなかったように彼女は続ける。

「でも……。今回は特別に許してあげます。こうやって今、再会できたんですから」

 その大きな瞳を細め、柔和な微笑みを崩さない銀髪の少女。されど、その微笑はどこか上辺だけのような、取り繕った表情に見える。

 その仮面の奥に何か形容し難い、ドロドロとした感情が見え隠れするのだ。

 彼女は兄から決して目を離さず、懇願するように言葉を続ける。ただ異常なほど強く兄を求める妹の姿が、そこにはあった。

「その代わり……。もう二度と、僕から離れないでください。傍に居てください……。僕だけを見て、僕のことだけを考えていてください」

 だが、やはり妹の願いは届かず。

 彼女の兄だった咎人はただ本能のままに暴れ狂うのみ。

 いったい彼は人間をやめる直前、何を思い、どのように感情を爆発させ、如何にして咎人になったのか。それは今となっては誰にも、おそらく本人にすらも分からない。

 ただ、確信を持って言えるのは。彼が己の身を焦がすほどの憤怒を持て余し、自我を失って尚、その感情のみに従って暴虐の限りを尽くす咎人である。ということだけ。

 咎人が再び咆哮。金切り声のようなけたたましい叫びが森を揺らす。

 六脚の節足をバラバラに動かし、左右の巨大な鋏で器用に身体のバランスをとり、咎人は踊り歩くように己の巨体を操った。

 その一歩一歩が地面の泥を刎ね上げ、その度に大地が揺れる。

 瞬時に少女との距離を詰め、今度は己の質量に任せて彼女を押し潰そうとする。

 このとき既に、少女の逃げ道は無かった。

 この突進攻撃に対しては、左右どちらかに回避を行う必要があったのだが、このタイミングではそれも遅い。

 彼女にできるのは、兄によってもたらされる死を待つことだけである。

 しかし、それは少女の願いではなく。そして彼女は自分の願いを、兄に強要するつもりでここに立っている。故に、もたらされる死を受け入れることはなかった。

「でも……。これだけお願いしても、どうせ兄さんは僕を置いて行っちゃうんですよね? 知ってますよ。兄さんはどうしようもなく、愚かな人だってこと」

 ここで初めて少女はその微笑みを崩し、表情を歪めた。

 次いで、じゃらじゃらと金属が擦れる音がして咎人は彼女の目前でピタリと制止した。

 いや、動けなくなったと表現する方が正しい。

 咎人の全身には突然現れた無数の鎖が巻き付いていた。その色は鮮血のように濃く深い赤。それによって、咎人の巨体が完全に拘束されている。

 少女は白くて細い手を伸ばし、身動き一つとれない咎人の顎を愛おしそうに撫でた。

 そしてゆっくりと口を開き、潤った唇を動かして自分の望みを言葉にする。

「だから、兄さん。どうか……」

 少女の気配が爆ぜた。彼女の言動全てに膨大な殺意が乗る。

「ここで、死んでください」

 次の瞬間。咎人の巨体が深紅の鎖に吊り上げられたかと思うと、暴力的な力で空中に投げ出されていた。節足を無様にバタつかせながら、巨体が投げられた石ころのように宙を舞う。轟音と激震を伴って大地にその身体が沈んだ。

 地面に叩き付けられた咎人は苦しそうに身を捩っている。

 その様子を見て、少女の顔に再び笑みが戻った。だが、それは年相応の無邪気な笑顔ではなく、どこか狂気を孕んだもの。口端はやや歪み、その瞳は虚ろだった。

「今ここで僕に殺されて、永遠に僕だけのモノになってください」

 兄がずっと自分の傍に居てくれないのであれば。記憶を、思い出を全て忘れてどこか遠くに行ってしまうのであれば。この手でその命を終わらせ、独占し、美しい思い出のまま自分の心の中にしまっておこう。

 それが彼女の願い。兄に対しての執着だった。そして、その願いを強要する。

執行官として咎人を断罪することを建前に。己の望みを叶えるため、己の欲望を満たすために力を行使する。これは、強者の権利だ。

 嗤う。どうしようもなく愚かな兄に、己の手で罰を与える。

「醜き咎人に神の裁きを。悪しき者に正義の鉄槌を。我こそは神罰の執行者なり」

 その言葉と共に。膨大な量の鎖が少女の華奢な身体から飛び出した。数百本に上る深紅の鎖が一本一本意思を持ったように波打ち、耳障りな音を立てて蠢く。

 この鎖は少女の感情から這い出たもの。

 彼女の、欲という名の毒によって膿んで爛れた劣情と、異常なまでの兄への執着がグチャグチャに混じって腐り、酷く濁って心から溢れ出し、形となったものだ。

 その一部が、たった今態勢を立て直した咎人に向かって殺到した。その一本一本が蛇の如く身体をうねらせ、獲物に襲い掛かる。

 鎖の先には分銅の代わりに鋭利なニードルが付いており、その威力は大木に風穴を開けるレベル。降り注ぐ槍のように、咎人を串刺しにせんと襲い掛かった。

 己に向かって飛んでくる鎖に気が付いた咎人は、節足に力を溜め。その巨体からは想像できないほど大きく飛び退くことでこれを回避。

 刹那、次々と深紅の雨が地面を打ち、蜂の巣のようなクレーターを残した。

 それだけで攻撃は終わらない。残りの鎖も様々な角度からまるで生き物のように咎人を追尾し、甲殻の胴体を貫こうとする。

 しんと冷えた大気に鎖の金属音が異様なほど大きく反響した。

 先ほどまでの少女はただ闇雲に森の中を駆けていたわけではない。戦闘前に咎人をこの場所に誘導していたのである。理由は単純で、この鎖による戦闘を行い易くする為であった。遮蔽物が多い森の中では、細かな制御と広い空間を必要とする鎖を武器に戦うのは不利。それ故の誘導だった。この場所では、気にせずに武器を全力で振るうことができる。この殺し合いは少女が一方的に優位だと思われた。

 しかし咎人は辺りを這い回る鎖を、在り得ないほどの速度と精度で躱し続けた。

 大地を縦横無尽に駆け回り、時には跳躍。必要とあれば木々を遮蔽物として利用し、避けられないと判断した一撃は鋏で撃墜する。暴走する化け物とは思えないほどの高度な芸当を、咎人は危なげ無くやってのけた。

 これは人間だった頃に培った経験の賜物か。それとも、理性を失った獣の野生としての本能か。いずれにせよ、脅威には変わりない。

 更に、咎人はただ深紅の鎖の攻撃を凌ぎ続けていたわけではなかった。

 驚くべきことに彼は少しずつ、されど確実に少女との距離を詰めていた。獲物を己の射程圏内に収め、反撃の機会を窺おうとしている。

 この時点でこの場所は、先ほどまでの多くの木々や草花の茂る森の深部ではなく。既に戦場と化し、荒れ果て、至る所に傷跡が残っていた。

 地面は抉れ、そこらかしこに無数のクレーターができている。周辺の木々にも被害は及んでおり、幹の中心にぽっかりと穴の開いたもの、根元から薙ぎ倒されたものと様々だ。

 それらの傷付いた木々の中で一本、根元を大きく抉り取られた大木があった。

 それはいよいよ自重を支えきれなくなり、バキバキと嫌な音を立てて真横に傾き始め。幸か不幸か、少女と咎人を隔てるように地面に横たわった。

 これを好機と見たのは咎人の方だ。

 獲物を追う蛇の如く襲い掛かる二本の鎖を、器用に身体を捻ってその間に滑り込むことで躱し。一瞬の隙をついて節足に力を込め、これまでで一番の大ジャンプ。横たわる大木を悠々と乗り越えて、空から少女の前に躍り出た。着地の際に地面の泥が大きな塊となって跳ね上げられて宙を舞い、その衝撃で大地が轟音と共に大きく震える。

 咎人は右の鋏を大きく振りかぶった。怒りを湛えた真っ赤な眼が、目下の少女をはたと見つめる。そこには、かつての妹に対する慈悲すら微塵も感じられなかった。

 これには少女も驚きを隠せない様子だったが。それでも彼女はそれ以上に冷静だった。

 無邪気さと狂気をゴチャ混ぜにしたような声音で、興奮気味に口端を歪に吊り上げる。

「楽しいですね、兄さん……!」

 銀髪の少女は新たな鎖を一本生み出し、それを握り締めた。腕を大きく降って鎖を真横に伸ばし、自分から最も近い場所にあった木の枝に巻き付ける。そして巧みに鎖を操り、まるでワイヤーアクションのように大きく飛んだ。

 緊急離脱。咎人の必殺の一撃が真横を抜けて行き、大気を裂く音と烈風を残して空を切る。銀髪が風圧でなびき、激しく翻った。

 空中を飛ぶ少女は色の無い瞳で咎人を捉え、空いた左手を前に突き出す。そこから、真っ赤花弁がぱっと咲き誇るように、彼女を中心にこれまでとは比べ物にならない数の深紅の鎖が展開される。無数の鎖の大音響と共に、赤の線がフィールド全体に散らばった。

 それは夜空を流れる流星群のようで。

 散らばった鎖は各々が所定の場所で留まり、その矛先を一つの対象へ向けた。

 そのとき咎人が見たのは、四方八方を埋め尽くす赤。全ての方向から深紅の鎖の矛先が咎人を照準していた。当然、逃げ場はない。圧倒的高密度の中に、咎人の巨体が避けられるだけの間隙など存在するわけも無かった。

「さあ、兄さん。フィナーレです……!」

 無数に浮かぶ赤の一つが鋭く瞬いたかと思うと、それを合図に次々と輝きが広がり。

 全ての鎖は深紅の槍となって一斉に掃射された。そのひとつひとつが音速を凌ぎ、獲物の急所を穿つ一撃。その全てが深紅の軌跡を引き、稲妻の如く走った。

 殺到する無数の攻撃に、流石の咎人も諦めを見せると思われたが。彼はこの逃げ場のない攻撃の中に一つの活路を見出していた。

 鎖は三百六十度全ての方向から地上の咎人目掛けて飛んできている。よって、唯一の逃げ道は上空だった。全身全霊を込めて真上に垂直跳びすることで、咎人は必死の攻撃をやり過ごすことに成功したのである。

 刹那、咎人が居た地面は、爆発でも起こったのではないかと錯覚するほどの衝撃波と爆音を残して消し飛んだ。黒煙が勢いよく舞い上がる。

 しかし、烈火の如き猛攻を辛うじて潜り抜けた咎人に、目立った外傷は無く未だ健全。ほぼ手の内を見せてしまった少女に対して、ここから反撃に転じる。――筈だった。

 異変はすぐに起こった。

 咎人の真下。土煙の中で赤く何かが光り。

 瞬間、深紅の鎖が雲を貫いて飛ぶ戦闘機の如く、一直線に飛び出した。その数八本。

 それらは光の尾を引き、互いに交錯しながら獲物に襲い掛かる。空中では満足に身動きが取れず、咎人は為す術無く六脚の節足と一対の前脚を絡め取られ、空中で磔にされる。

 咎人は必死に身を捩るが、きつく巻き付いた鎖は解ける気配は無い。

 その様子を見届けた少女は手元の鎖を引いて勢いを殺し、木の根元に優雅に着地した。銀髪がふわりと舞い、やがて重力に従ってはらりと落ちる。

 磔になった兄の姿を仰ぎ見て。

 手を口元に当て、その大きな目を細めた。

 瞼の奥から覗くのはぞっとするほど深く、底の見えない真っ黒な瞳。

「ありがとうございます。最後にとても良い思い出ができました」

 尚も苦しそうに身を捩る咎人に感謝の言葉を述べる。その表情は恍惚としていて狂気そのものであった。その瞳には本当に兄の姿が映り込んでいるようだ。

艶のある健康的なピンク色の唇を歪め、嗤う少女の顔には悪意に似た純情が溢れていた。

「兄さんと一緒に遊んだの、本当に久しぶりでしたから……」

兄の命を奪い取るべく、鎖を一本生み出して。先端のニードルを構え。

「大事に心にしまっておきますね……!」

 脳天に照準し――。

「それでは兄さん。僕の中で永遠にお休みください」


 こうして一人の少女は願いを叶え。歪んだ愛を押し通し。兄を己のものとした。

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