神罰の執行者

里場 茂太郎

1st season

序章 身体を蝕む猛毒

0-1

 醜き咎人に神の裁きを。

 悪しき者に正義の鉄槌を。

 神の憤りと罰を、神に代わって執行する。それが、君たち執行官の使命だ。



 人間の感情は多様だよ。それは君も分かってるよね?

 喜び、悲しみ、怒り。これらを始めとして、愛、勇気、慈悲などと。数え始めればキリがないほど、色々な種類や様々な形が存在する。

 これは、きっと尊いことさ。

 多様であり複雑であるからこそ、人々は互いに手を伸ばして、その感情を分かち合おうとする。誰かを大切に想うからこそ、人々は共に暮らすことができる。希望を持つからこそ、明日を見据えて生きることができる。

 感情は素晴らしいものだろ?

 それだけじゃない。想像してみてくれ。君が何か行動を起こす前、何を思う?

 ……そうだね。

 人が何かを為す前、行動に移る前。全ての動作の起因が感情だ。

 感情は、人が人たらんとする為に必要不可欠な、そして尊いものだ。人間が多様で複雑な感情を持ち合わせていたからこそ、文明の発展が進んできた。……と、私は思っている。

 もう一度言うよ。感情は素晴らしいものだろ?

 しかし、だ。抱えきれないほど膨れ上がった感情は、時には毒となり……。他者に、そして己に害を為す。皮肉なものだね。一見、尊く見える人間の感情も、その裏側では大きな負の面を持ち合わせているってわけだ。そして、負の感情は意外と簡単に容量を超えて、爆発してしまうものなんだ。君もこれまで数え切れないほど見てきた筈さ。

 そうなってしまえば、それは罪だ。

 人間は己の感情を御し切れず、それを表に出してしまった瞬間、醜き咎人となる。例えそれが一時の情動だとしても、だ。

 悲しいことだね。本当に残念だよ。

 そして、感情を持て余した愚かな咎人には罰が必要だ。

 当然だよね。罪を犯したんだから。

 普通なら、神様が彼らに罰を下すんだけど。どうやら神様は忙しいらしい。きっと、数が多過ぎて手が回らないんだろうね。今の世の中には、それだけ数え切れないほどの咎人が跋扈しているんだ。なんて、悍ましいんだろう。

 ちなみに、君を置いて出て行ったお兄さんも、その咎人の一人だよ。


 さて。だったら、神様も手一杯なこの状況で、罪を犯し尚も生きている咎人を、一体誰が罰するんだろうね?

 ご名答。話が早くて助かるよ。そう。我々の出番なわけだ。

 神に代わって、咎人に神罰を与える。それがネメシスの、執行官の仕事だ。そして、今日から君もその一員なわけだけど……。

 君に最初の任務を与えるよ。君のお兄さんを殺しておいで。何も言わずに君を捨てて消えた彼に、君のその憎悪をぶつけてやるといい。心配はいらないよ。きっとうまくいくさ。

 ああ。でも、お兄さんに罰を与える前に、おまじないを唱えるのを忘れちゃダメだよ。

 え? 忘れた? 仕方ないな。もう一度言うから、今度は忘れないでね。


『醜き咎人に神の裁きを。悪しき者に正義の鉄槌を。我こそは神罰の執行者なり』


 覚えた?

 それじゃ、頑張ってね。


◆◆◆


 しんと冷えた寒夜にて、決して相容れることのない二つの感情が衝突する。

 腐り、忌み爛れた欲望と、歯止めの効かなくなった怒り、憎しみ。容量を遥かに凌駕し、外へと溢れ出た情感。水と油の如く、決して交わることのない二人のそれが、大きく膨らみ、形を持ち、互いにその命を奪わんと振るわれる。

 真冬の寒威に当てられても、膨大な感情はその熱を失うことを知らず。むしろ辺り一帯をその熱量で支配していた。

 頭上を覆うのは無造作に生える針葉樹の葉。夜空を遮る木々の間から、僅かばかり零れる月の光がこの場所唯一の光源だった。地面には粘性を含んだ土と、手入れの行き届いていない草花が青々と茂り、どこまでも広がっている。

 街の光が一筋たりとも届かないこの場所は、人里から隔離された森の中だ。本来ならば人一人見かけない深閑たる山奥だが、今宵は一つの息遣いと獣の唸り声が木霊する。

 淡い光線が照らすのは、木々の間を縫うように疾駆する人影と、それを追駆する人為らざるモノの巨影。この二つ。

 前を行くのは、美しい白銀の髪を靡かせる少女。小柄なその少女は、しかし確かな足運びとその身軽さを以ってして、風の如く緑の隙間を駆ける。

 異形のモノは並み居る木々を押し倒し、地面を激震させながら銀髪の少女を追う。

 その速度は異常なスピードで、巨大な図体には似合わず俊敏だった。みるみるうちに少女と化け物の間が縮まっていく。

 少女は肌の泡立った腕で、額の汗を拭った。冷たい感触。

 しかし、これは恐怖や焦りによって生じたものではない。この少女を支配するのは急速に高まる高揚感と、静かな興奮である。

 少女は視界の端に一際強い月の光を認めた。踵で急ブレーキを掛け、そちらに向かって直角に方向転換。足元の泥が跳ね上がり、ぬかるんだ地面に長いブレーキの跡を刻む。

 鬱蒼と茂る草を掻き分けて、少女は青白い光に向かって飛び出した。

 暗所から急に出たことで、直接差し込んだ月光に目が眩む。

 その場所は月光を遮る木々が比較的少ない、拓けた場所だった。おそらく上空から見れば、目下に広がる緑の中で、この場所はぽっかりと穴の開いたように見える筈だ。

 当初予定していた場所とは違うが、ここでも十分に戦えるだろう。

 少女は一度、その乱れた銀色の長髪を右手で掻き上げた。

 そこから寸刻覗くのは、あどけなさを残しつつも静謐さを湛えた面持ち。一度持ち上げられた豊かな髪が流れるように落ち、再びその表情を隠した。

 遅れて、大木を押し倒す轟音と共に、化け物が玉輪の下にその姿を晒した。

 見上げる巨体はまるで甲冑のようで、光を跳ね返す光沢のある黒。左右の前脚には、簡単に木々をまとめて切り倒せそうなほど巨大な鋏。それが一対。

 小さな頭部には似合わない大きくて鋭利な顎が備わっており、その奥では深紅に輝く眼が覗く。不釣り合いに細い節足が六脚、巨大な胴体から伸びており、それらがせわしなく動いてその巨体を操っていた。

 まるで甲殻類のような、そんな悍ましい姿の化け物。これは己を御し切れず、膨らんだ情感が肉体の容量を遥かに凌駕し、それを持て余した醜き人間の末路。

 人は彼らを、明日は我が身と鑑みることもせず、侮蔑を込めてこう呼ぶ。

 『咎人』と。

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