7.航空工学研究室

航空工学研究室 1


 ルクウンジュ王立学院は、クルーヌ河沿いの広い敷地の中に幼稚舎から大学院まで全ての校舎がある。

 幼稚舎、幼年部、中等部、高等部まではそれぞれ一つの校舎だが、大学部になると学部ごとに校舎が分かれる。だけでなく更に教養学部棟、各学部研究棟、図書館、医学部付属大学病院その他と数多くの建物があるのだ。

 ハツキが所属するグィノー研究室がある文学部研究棟も、そんな建物のうちの一つだった。



 文学部と理工学部は敷地が離れているので、約束の十五時に間に合うようハツキは足早に石畳の道を歩いていた。五月花月の午後の光にプラタナスの並木が明るく照らされ、道に葉影を落としている。

 学院中心部に位置する大講堂の重厚な石造りの時計台の横を通り、ハツキは理工学部に入った。

 学院の構内とはいえ、他学部の敷地に来たことは殆どない。ハツキは文学部や教養学部との雰囲気の違いに一瞬立ち止まった。だが、周囲を見渡すと、昼休みのうちに構内図で確認し、また念のため先程グィノーにも場所を確かめておいた理工学部研究棟に向けて再度歩き出した。


 理工学部研究棟は周りの他の建物と同じく、淡い橙色の石造りの建物で、一階には理工学部棟と繋がるアーチのある回廊があった。回廊から建物に入り階段を上がる。

 研究棟内ですれ違うのは大学院生や、学生にしても二年次以降の人間が多く、大学の一年生らしい姿は見かけない。建物の中の人の構成は文学部研究棟も似たようなものだが、こちらはテイルコートの代わりに白衣や作業着を着ている人間が目立っていた。

 三階に着いて廊下を進むと、目指す航空工学研究室はすぐに見つかった。ノックをして扉を開く。


 気候が良いので開け放たれた窓から爽やかな五月花月の風が柔らかく吹き込んできていた。


 その窓際の棚には工具や器具、資料が雑多に置かれ、室内の半分ほどの面積を占領して並ぶ数客の机や製図台の上にも、棚と同様に資料や器具などが積み重なっている。残りの半分は、教授の机と応接セットが占めていたが、その応接椅子の上にも誰かの上着と荷物が放り出されていた。

 周囲の壁に設えられた背の高い本棚には、専門書と論文雑誌、そして数多くの飛行機の模型がぎっしりと並ぶ。

 ハツキは、自分が知っている文学部の研究室とのあまりもの違いに、我知らず息を飲んだ。


 室内には上着だけ作業着を着た女性が一人でいて、製図台一つを占領して図面らしき大きな紙を広げ、計算尺片手に難しい表情でぶつぶつと計算をしていた。

 枯葉色の髪をひっつめ、きつそうな顔立ちに眼鏡をかけたその人は、ハツキが入ってきたことにも全く気づいていなかった。


 そして、もう約束の時間になるのに、ここを指定した当人の姿が見えない。


 ハツキは軽く溜息をついた。あまり気は進まないが、計算に没頭している製図台の女性に声をかけてみるしかなさそうだ。

 入ってきた扉を静かに閉めると、彼は室内に進み、彼女の傍に近づいた。


「あの、すみませんが……」

 呼びかけると、彼女はものすごい勢いで顔を向けてきた。

 それでなくても眉間に皺を寄せ険しい表情をしていたのが、ハツキの姿を目にして、視線に不信感を滲ませ、更に表情を険しくする。

 他人が自分をどう思おうとも気にかけないハツキだが、さすがに目の前でここまであからさまに表情に出されると可笑しくなってしまった。

 肩の力が抜け、軽い気分で微笑して用件を伝える。


「メールソー君とここで会う約束をしていたのですが、彼はいませんか?」

 ハツキの質問を聞くと、彼女はまたも首をくるりと、今度は部屋の奥に続いている扉の方に向けて怒鳴った。

「テス! あんたに美人のお客さん!」

 ここでも出された単語に、心中だけでなく実際にも首を傾げる。

 初対面の女性にまで言われるなど思ってもいなかった。それともテレーズが事前に彼女に何か吹き込んでいたのだろうか。



 ハツキは一人で悩んだが、実際は周囲の人間の反応通り、彼は教養学部の大教室においてさえ、人の目を惹きつけてやまない容姿をしていた。ベーヌではその身分から、身内以外にそのことを直接彼に言ってこられる人間がいなかっただけのことだ。

 ヴィレドコーリの大学生になってからは、ベーヌとは違い、彼の容姿につられて声をかけてきた人間は多数いたのだが、彼はその全員について全く相手をしてこなかった。

 本人は全く自覚していなかったが、ハツキが認めるサネユキやテレーズ同様に、彼の造作も多くの人間に美しいと思わせるものだった。



「よう! 来てくれたんだな!」

 隣の部屋から、テイルコートを脱いだベージュのウエストコート姿のテレーズがひょいと顔を出した。応接椅子の上の上着は彼のものだったらしい。

 一つに束ねていた髪を解きつつ、こちらの部屋にやって来る彼をハツキは睨んだ。

「君ね、他の人にまで誤解されるようなこと、言っているんじゃないだろうね?」

「え? 何? 俺、何も言ってないけど……もしかして、今、ディアに美人って言われたこと?」

「それ以外に何があるんだよ!」

「嫌だ。この子自覚ないの?」


 呆れた様子の声に、ハツキは傍の女性に目を向けた。

 彼女の眉間の皺は消え、今度は信じられないものを見るような表情で、つるばみ色の瞳を丸くしてこちらを見上げてきている。

「そうなんだ、ディア。こんなに綺麗なのにもったいないだろ?」

「あんたのように、自信満々なのもどうかと思うけどね」

「え? 俺の顔が整っていることも本当のことじゃないか」

 どこまでも屈託なくテレーズは言い切る。その姿に、これ以上文句を言うのも馬鹿らしくなってきた。


「おや。本当に美人だ。メールソーに見劣りしないとは凄いねえ」

 新しい声に、半ば諦めの表情で声のした方向に目を向けると、テレーズの出てきた扉からボウタイの三つ揃えを着た初老の紳士が出てくるところだった。

 おそらくこの人物が、グィノーから名前を聞いていた航空工学研究室主任教官のデュトワ教授だろう。

 ハツキは疲れた表情のまま会釈をした。

 相手はにこにこと笑ってハツキに手を上げて返すと、テレーズの横を抜け、手にしていた分厚い茶色のファイルを机の上に置いて自分の席に座った。

 そしてテレーズに珈琲を淹れるように依頼をした。


「チグサ君も飲んでいったらいい」

 デュトワに手招きをされるまま、応接椅子に腰を下ろしたハツキは、どうしてこの教授が自分の名前を知っているのだろうと内心首を傾げた。


 教養課程の授業に、デュトワが担当するものはない。


「クラウディアはどうする?」

「緑茶にして。そうそう、お客さんなんだから、棚にあるお菓子も出してよ」

「諒解。ハツキは? 紅茶?」

「ああ、うん。ありがとう」

 全員の要望を聞いて、テレーズは部屋の隅に設えられている小さなキッチンで機嫌良く茶の準備を始めた。


 その様子を見て、彼の手際の良さに感心する。

 ハツキもグィノーの研究室で自分の飲み物ぐらいは用意するが、いかんせん慣れない作業なので手際の良さなど求められるはずもなく、四月芽月の初めなどは見兼ねたボードリエに、笑いながら何度も手助けをされた。おかげで最近では一人でも何とか危なげなく茶を淹れられるようになってきたが、今目にするテレーズの手際には遠く及びもしない。


「君のことはグィノーから聞いているよ」

 テレーズが作業中なので、そちらを見つめながら所在なげに座るハツキに、親しげな調子でデュトワが話しかけてきた。

 驚いて顔を教授に向ける。

 確かにグィノーからこの研究室の主任教官はデュトワだと教えられていた。

 だがそれは、あくまで王立学院大学の教員としての一般知識から教えられたのだと思っていた。そのハツキの想像に反し、自分の担当教授の名前をデュトワから親しげな調子で聞かされたので驚いたのだ。

 それにデュトワが、ハツキの所属研究室を知っている様子であるのも不思議だった。まさかそんなことまでテレーズがここで話している訳でもあるまい。

 まじまじと相手を見つめたハツキに、デュトワは可笑しそうに笑った。


「僕とグィノーは、幼年部からこの王立学院で同期でね。大学の教養学部時代までは同じクラスだったことが多いんだ。専門は違うのだけれど、今でも飲み友達でねえ……奴の推薦で君はここへ来たのだろう? 優秀な学生が研究室に入ると、あのグィノーが珍しいことにいたく喜んでいたんだよね」

 言われてみれば確かに、教養学部のクラスには学部の別がない。

 二年次からは専門課程も入ってくるが、基本的に一年次は教養課程の授業ばかりである。

 例外的に、入学時に学院の教授から推薦を受けている者や、希望を出し、担当教授から許可を受けた者が希望する研究室に入っているくらいだ。

 だからこそ、自分も授業の教室でテレーズの姿を探していたというのに、教室では結局彼の姿を見つけることは出来なかった。



 昨日、確かに彼は、自分は理工学部の一年生だと言っていたのに、これはどういうことだろう。

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