6.カザハヤの百合

カザハヤの百合 1


 バスを降り、バス停からカザハヤ屋敷の通用門への坂道を登る頃には日も落ちてしまっていた。


 外灯に照らされた門まで来ると、門の傍の詰め所から守衛が出てきて、ハツキに挨拶をしながら門を開けた。

 守衛に挨拶を返して門をくぐり、玄関へ向かう。


「お帰りなさいまし、ハツキ様」

 玄関の扉を開けると、いつものように王都カザハヤ屋敷の執事であるアンザイに迎えられた。

「ただいま戻りました」

 返事をして靴を脱ぎ、上り框に用意された室内履きに履き替える。

 この屋敷はヴィレドコーリにあり、建築もルクウンジュ様式で為されている建物だが、室内での生活様式はヤウデンの方式になっていて、玄関では靴を脱ぐことになっている。カザハヤにしろチグサにしろ、ベーヌでの生活もヤウデンの方式を多分に継承していて、屋敷の中でまで靴を履いたままというのが苦手なのだった。


 ハツキが脱いだ靴は、すぐにアンザイが揃えた。

「本日はお帰りが遅うございましたね。サネユキ様が先にお帰りになっています」

「申し訳ありません。人と話し込んでしまって……着替えてすぐに食堂に向かいますから、ユキ兄に伝えておいていただけますか?」

「かしこまりました」

 アンザイは笑って答えてくれたが、ハツキは急いで自室に向かった。

 現在祖父は外遊中でルクウンジュを留守にし、伯父のキミノリは議会が閉会中であるのでベーヌの屋敷に戻っている。今この屋敷には、いずれカザハヤを継ぐために、ヴィレドコーリにあるカザハヤの系列の会社に勤めているサネユキが残っているだけだった。

 彼は幼い頃は常に自分の傍にいて、今でもハツキのことを一番理解してくれている従兄だが、それに甘えて迷惑をかけるようなことはしたくなかった。

 自室に荷物を置き、手早く着替えて食堂に向かう。


 食堂に行くと、テーブルの自分の席に着いてサネユキは本を読んでいた。

 穏やかな表情でページを繰るその姿にハツキは足を止め、食堂の入口から彼を見つめた。

 彼は昔から読書家だ。僅かな時間でもあると、すぐに本を開く。そんな、昔から変わらない彼の姿を目にすると安心する自分がいる。ハツキも彼に教えてもらって多くの本を読んできた。

 だが、ハツキが彼から受けた影響はそれだけではない。

 何より、彼はハツキとあの『夢』を共有出来るただ一人の人だ。


 今でも毎晩眠りにつくのが憂鬱だからといって、就寝時に傍にいて欲しいと彼に頼むなど、成人を過ぎた年齢では出来る訳はないと考えていた。

 けれど聡い彼だ。また同じ屋根の下で生活をするようになって、ハツキの不安を察したらしい。

 ハツキが求めなくても、サネユキの方からハツキの部屋を訪れることがままあった。


 うつつで彼が傍にいる時には必ず、カザハヤらしい百合の香気を纏い、昔のように『夢』に彼も立つ。


 目覚めた時にサネユキの腕の中にいる安心感は計り知れない。寝顔さえも美しい彼の美貌を間近に目にし、微かに上下する彼の胸に額を当て、深く息を吸う。彼の匂い、脈動する鼓動、自分を抱き締める腕の強さ。誰でもない、この人こそが自分をここまで導いてくれたのだと、サネユキとベッドを共にする度に思う。

 そして、この人には必ず幸せになってもらいたいと、心底からそれを願うのだ。もし仮に自分が神に届く声を持ち得ているのならば、何よりもまずそれをこそ訴えたかった。

 だが現実には、自分にはそんな力などなく、ただ願い祈るしかない。

 ──この人に、甘えるばかりだ。

 何も返すことの出来ない自分が申し訳なく、そして疎ましい。

 そうやって食堂の入口で立ち尽くしていたハツキだったが、サネユキの方がこちらの気配に気づいて顔を上げた。



 カザハヤ本家の一員である彼も生粋のヤウデン系なので髪は黒い。

 だが少し物憂げな、形良い切れ長気味の瞳は焦茶よりも明るい、美しい黄海松茶色だった。

 ハツキを認めると、彼は顔を綻ばせた。

「お帰り、ハツキ。急がなくても良かったのに」

「ただいま、ユキ兄。遅くなってごめんなさい」


 ハツキが謝罪しながら席に着くと、サネユキは柳眉を顰め、小さく溜息をついた。

 読んでいた本を閉じて、食卓の脇に置く。

「そんなに気を遣う必要はないと、何度も言ってきているだろう? せっかくの学生時代なんだ。もっと楽しんで、おまえのやりたいことをして欲しいのだけれどな」

「もう充分させてもらっているよ」

「何を言っている。これも何度も言うようだが、ここはもうベーヌじゃあない。おまえはもっと気楽になっていいんだ」


 二人が揃ったので運ばれてきた料理に、早速箸をつけながらサネユキは言う。

 ハツキも手を合わせてから箸を取り、汁物の椀を手にしながら、胸の中でごめんなさいと再度サネユキに詫びた。

 貴方達の優しさは充分に解っている。けれどこれ以上、自分にはどうしたらいいのか解らない。今でさえ身に余る自由を与えられているのだ。

 けれどハツキは、今ここでは、そんな謝罪の気持ちは忘れておこうと思考を止めた。せっかくの食事時にまで、こんな気持ちでいたくはない。何と言っても、毎日ハツキも楽しみにしている、祖父自慢の料理人が作る美味しい料理だ。


「ところで、ハツキ」


 不意に声をかけられたので、ハツキは揚げたての空豆と海老のかき揚げを口にしながら顔を上げた。声をかけてきたサネユキは、真薯のあんかけの椀に手を伸ばしているところだった。

 今日の夕食はヤウデン風の献立だ。

 王都カザハヤ屋敷の夕食は日によってヴィレドコーリの各地方の料理であったり、ヤウデン人入植前からのベーヌ伝統料理であったり、はたまた香辛料の効いたセーリニア大陸中部のものであったりと、様々な料理が出てくる。

 これは、真面目で実直そうな見た目に反して、外遊先などでも気に入った料理を出されると、その調理法を調べてくるほど食い道楽である祖父の意向だった。祖父が今回の外遊先から帰ってきた後も、カザハヤの料理長シマザキのレパートリーにまた新しい料理が加わるかもしれない。

 そんな祖父の血はハツキにも、サネユキにもしっかり引き継がれていた。ハツキが毎日の食事を美味しく食べているのは当然だが、サネユキが食事を残している姿も目にしたことはない。

 椀に箸をつける前にサネユキは顔を上げ、ハツキへ笑いかけてきた。


「今日は人と話をしていて遅くなったと聞いたが、何か素敵な出会いでもあったのか?」

 さすがにサネユキにはすぐに感づかれる。

 けれどハツキも、今日のことをサネユキに隠すつもりは全くなかった。

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