光る金の滝 4


「ごめん。僕の方こそ嫌な態度を取ってしまった。許してくれると嬉しい」


 ハツキの謝罪にテレーズはにこりと笑った。

「ん? 許すも何も、俺が考えなしにハツキが気を悪くするようなことを言ってしまったんだろ? まあ、お互い様ってことで。ところでさ」テレーズはハツキの手許の本を指さした。

「それ、ヤウデン国史だろ? やっぱり興味あるの?」

「そうだね」


 本自体はグィノーから課題で渡されたものである。

 だがハツキ自身、ベーヌで過ごしてきた社会の起源の一つであるヤウデン国のことを本格的に学んでみたいとも思ったからこそ、王立学院への進学を決めたのだった。

「ヤウデンの歴史だけでなく、風土や文化、宗教のこと。色々興味があるね」

「俺、行ったことあるぜ」

「へえ!」

 これには素直に驚いた。


 鉄道が開通して昔よりも行き来が楽になったと言われるが、それでも同じルクウンジュ国内のベーヌから王都ヴィレドコーリまでも汽車でほぼ一日かかるのである。

 クィールム洋を越えなければ行けない、遙か遠いヨーデア大陸のヤウデン国までとなると、飛行機でも使わない限り何日もかかる長旅となる。しかし飛行機といっても、ヤウデンとルクウンジュの間では郵便や荷物を運ぶ小型のものが運行されているだけで、両国を結ぶ旅客航空路はないし、郵便航空機の事故も少なくはない。

 ヤウデンまでの旅行といえば、海を渡る大型客船か、空を行くものの速度は飛行機に劣る飛行船を使っての旅に限られていた。


「大変な旅だったんじゃないの?」

「ん──」ハツキが尋ねると、テレーズは天井に目を向けて額に手を置いた。こんなに人目を惹きつける外見でいながら、気取らない仕草にますます好感が募る。


「子供の頃に家族で行ったからさ。往復は飛行船だったんだけど、船内を走り回ったり、上空から海を見てはしゃいだり、兄貴達に遊ばれたりしているうちに到着したから、あんまり大変だった印象はないんだよな。それに実を言うと、まだ小さかったせいで、ヤウデン国内のこともあまり覚えていない」

「なんだ」

 素直にそんなことまで白状され、ハツキの口から笑いが洩れる。テレーズも悪びれることなく一緒になって笑った。

「でも、一つだけしっかりと覚えていることがある」

「へえ、それは何?」笑いを含んだ声で促すと、テレーズは手を下ろし、ハツキへ視線を向けた。若葉色の瞳に見据えられ、ハツキも笑いを収める。



天之神道あめのしんとう大神殿」



 ベーヌのヤウデン系の者達にも信仰されているヤウデン国教天之神道の総本山である。

 ヨーデア大陸内でも比較的温暖な気候に位置するヤウデン国においては、あまねく全てのものに宿るとされる多くの神々が信仰の対象になっている。

 天之神道大神殿は、その中でも主神といわれる天之大御神がいま暁山ぎようせんを神奈備とする、ヤウデン国で最も古く格式高い神殿だった。

 ベーヌにもヤウデンの大神殿から分祀された神殿があり、ベーヌの第一の社となっている。この社の神職は、カザハヤ同様に現在もヤウデンの血を守り続けるハギワラ氏が代々勤めており、様々な祭祀が執り行われていた。

 ベーヌの神殿は、ハツキも幼い頃より多くの時間をそこで過ごしてきたが、暁山を拝す本宮となると、やはりベーヌの社とは別格であろう。

 それを実際に目にしたというテレーズに、ハツキは微笑んだ。


「……そうなんだ。子供でも解るくらい」

「ああ。あの敷地って神域っていうの? 道は砂利で敷き詰められていて、いくつもの木造の建物があって、大きな木が沢山生えていて……空気がまるで違っていた。あと、そう。猫が沢山いてさ」

神猫しんびようだね」

 天之神道で猫は、天之大御神に愛でられる神の御使いであるとされている。

 ベーヌの神殿敷地内にも多くの猫が放し飼いにされていて、ハツキも彼らとよく一緒に遊んでいた。天之神道では馴染みの深い猫だが、大神殿ともなると、そこにしかいない種類の猫もいる。


「そうそう、神猫。俺、昔から猫好きだったもんだから、あんなに沢山の猫がいるのが嬉しくなって、それで記憶に残っているんだろうな」

「そうなんだ。ベーヌのヤウデン系の人間としては、一度は参りに行きたいけれど、いかんせん遠いんだよね」

「だよなあ。でもまあ、きっと、将来はもっと行きやすくなっているに違いない」

 テレーズの言う通り、交通手段の進歩は日進月歩である。いずれ遠方のヤウデンまでも、旅客機の運航が始まることだろう。


 しかし、ハツキは自分がそんな時代までここにいられるとは全く考えていなかった。行ってみたいと口にはしたものの、実際に自分がヤウデンに行くようなことは決してないと解っている。だがそれは、今日知り合ったばかりの彼に対して言うようなことでもない。

 ハツキはくすりと笑って「だといいね」とだけ答えながら、冷めてしまったカップの中身に、ポットに残っている紅茶を全て注ぎ足した。会話をした後の喉を湿らせるのにちょうどいい温度になる。


 それを口にしていると、カウンター内の壁に掛けられている振り子時計がぼーんと低く時報を打った。その音に文字盤へ目を向ける。気づくと思いの外時間が経ってしまっていた。

「門限?」

 時間を気にしたハツキにテレーズが尋ねてくる。

「というほどのものでもないけれど、あまり遅くなると家の人間が心配する。……ちょっと過保護なんだ」

「そっか。家の人を心配させるのは良くないもんな。ヴィレドコーリではどこに住んでいるんだ?」

「十六区に祖父の屋敷があるので、そこに下宿させていただいているよ」


 マスターに代金を払って立ち上がると、テレーズも同じように支払いを済ませて席を立った。

 彼と並んで店を出る。

 店の扉を出ると、川向こうの建物の上、西の方角の雲が沈みゆく太陽の光で金色に輝いているのが見えた。更に天頂へ目を向けると、中空から東の空にかけて、青から紺の美しいグラデーションを描いている。

 地上ではマロニエの並木と交互に立つ歩道の街灯の白熱灯が、春の終わりの夕刻に淡い橙色の光を放ち始めていた。


 店から出たばかりの身に、マロニエの花の香りを含んだ、クルーヌ河の川縁を吹く五月花月初めの風は少し冷たい。ハツキはテイルコートの襟を少し直すと、横に立つテレーズを見上げた。

 体格のいいラティルトらしく、彼はヤウデンのハツキよりも十センチばかり背が高い。

「テレーズ、僕はここからバスになるけど、君は?」

「俺も同じだ。とりあえずバス停まで行くか」

 まだ少し、彼と話す時間があるのが嬉しい。けれど、それだけではまだ物足りない。

「──……君とは、また話をしたいのだけれど。どこに行けば君に会えるのかな?」


 もっと彼と話をしてみたくてそう切り出すと、彼は驚いた表情でハツキを見つめ、それからとても嬉しそうに顔を綻ばせた。

 こんなに端整な顔をした人物に、こうも満面の笑みを向けられると、どぎまぎしてしまうが、それは決して嫌な気持ちではなかった。むしろ、初めてのその感覚が新鮮で、楽しい。


「俺もハツキとはもっと話をしたいって思ってた。俺は理工学部棟にいることが多いけどさ、よかったら明日また会わないか? それにハツキはまだヴィレドコーリに詳しくないだろう? 明日以降さ、俺が色々案内するぞ」

「本当? 嬉しいな」

 ハツキもテレーズへ笑顔を向けた。

「明日の授業は何限までなんだ?」

「二限までだけど、午後はグィノー先生の研究室に行かないといけないんだ」

「俺は三限に授業があるから……十五時に、理工学部研究棟三階の航空工学研究室まで来てもらってもいいか」

「うん、解った」


 バス停に着いてからも、バスが来るまでの間、彼ととりとめのないことを話していた。ハツキにとって、サネユキ以外の人と会話をしていて、こんなにも楽しいと思えるのは初めてのことだった。

 先にハツキの乗るバスがやってくる。それじゃあと、テレーズに挨拶をし、乗り口で車掌に運賃を支払って、仕事帰りの人間で混雑したバスの奥に乗り込んだ。

 発車間際の窓から、こちらに手を振るテレーズの姿が見えた。ハツキも小さく手を上げ、彼にはにかんだ笑いを返した。

 走り出したバスの中から、歩道に立つ彼の姿を目で追う。やがて彼が見えなくなり、ハツキは右手を見つめ独り微笑んだ。


 探していた人に出会えたこと、その人がとても素敵な人であったこと。


 改めて、今日の出来事が嬉しく感じられた。

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