光る金の滝 3


 一月ひとつき以上も探していた人から名前を呼ばれたこと、そんな彼から握手を求められたこと、そしてこうやって生まれて初めて握手をした相手が彼だったことに嬉しさが募り、抑えようもなく目許が緩んでしまう。


 己の喜びに意識を取られていたハツキは、握った手を見つめながら柔らかな笑みを浮かべる自分の顔を、テレーズが興味深そうに見ていたことには気づかなかった。


 会話の頃合いを見計らっていたのか、そこでテレーズが注文していた珈琲が出てきた。彼は特にクリームも砂糖も入れないようで、ソーサーの上のスプーンを置き換えると薄手の磁器のカップの持ち手に左手の指を掛けた。

 些細な動作にも関わらず、彼の造作がそう思わせるのか非常に様になっているように感じる。


「ところで、君の名前と顔立ち、ハツキはベーヌの出身か?」


 ──何だ。


 テレーズのその質問に、高揚していた気分が一気に沈んだのが解った。こちらから視線を外していたテレーズに気づかれないよう、ハツキはそっと目を伏せた。


 見た目ですぐに知られる自分の出身地を聞かれたら、次に言われることなど決まっている。

 実際、全く相手にする気がなかったので返事は一切しなかったが、教室で声をかけてきた学生達にも幾度となくこれについて質問されてきていた。


「うん、そう。ベーヌの出身だよ」


 名前だけではなく、見た目の特徴でも一目でベーヌ出身のヤウデン系ルクウンジュ人と解るハツキのような人間は今や少数派だ。

 ベーヌ入植当時から続く、生粋のヤウデン系の家系であるチグサの本家にはラティルトの血は全く入っていない。当然、ハツキ以外のチグサの家族は、髪の方は白いものが混じる者もいるとはいえ、全員黒髪に焦茶色の瞳である。


 カザハヤのサネユキが、ヤウデンにしてはいささか浅い色の特徴的な瞳の持ち主とはいえ、現在、ベーヌの生粋のヤウデン系の中にハツキと同じ色の瞳を持つ者などいない。

 また、ヤウデン国のヤウデン人の中にも、これと同じ瞳を持つ者は十人に満たない。



 自分の出身を確認されたら、次いで問われるのは必ず瞳のことだ。純粋なヤウデン系にはないはずの特異な瞳の色。



 自分が探していた人間に偶然会うことが出来て、独りで喜んでいただけなので、テレーズがこちらに対して何を思おうが彼の自由であるし、それを責めるのは筋違いだ。

 自分勝手な落胆を知られたくなくて、ハツキは俯いたまま、空になっていたカップに供されているポットから紅茶を注いだ。

 嫌な気持ちを飲み込んでしまいたくて、カップの半ばほどまで注いでポットを置き、白磁のカップを手にする。

 保温されていたのでまだ充分に温かい紅茶の表面から香気が揺れる。



「綺麗な瞳だな」



 テレーズが呟いた。

 想像していなかった言葉に、ハツキはカップを口にしかけていた動きを止め、テレーズへ顔を向けた。珈琲のカップを置き、こちらを見つめていたらしいテレーズと目が合う。

 何を言われたのか全く理解出来ず、首を傾げたハツキにテレーズは笑いかけてきた。


「うん。やっぱり綺麗だ。その瞳の色、翡翠のすいみどり色だよな。ハツキによく似合っている」

「……え?」


 テレーズは自分の言葉に一人で納得して頷いていたが、ハツキには戸惑いしかなかった。他人にそんなことを言われたことなどない。

 ハツキは手にしていたカップを卓上に戻し、笑っているテレーズに胡乱な視線を向けた。


「何言っているんだ……」

「え? 何で?」


 そんなハツキの態度とは逆に、あくまで邪気なくテレーズは首を傾げてくる。

「言われたことないのか?」

「──身内の贔屓目ならまだともかく、他人からなんてないよ」

「何だ。皆、見る目ないなあ」

「……ヤウデン系でこんな瞳の色なんて、物珍しいだけじゃないか」


 本当は物珍しいどころではない。

 ヤウデン本国ほどではないにしろ、ヤウデンから海を隔て遠く離れた、ルクウンジュ国内のベーヌにおいてさえもこの瞳に様々なものが縛られる。

 ハツキが今ベーヌを出て王立学院大学に通うことが出来ているのは、自分が本来この色の瞳の人間を出すはずのカザハヤやハギワラの人間ではなくチグサであったこと、そして昨年十八歳の成年を迎えることが出来たので、親族を初めとした、自分の周囲の関係者達に温情を与えられたからに過ぎない。


 いや、むしろそれは憐憫という方が正しいかも知れない。


 サネユキの祈り、母の願い、父の思い、そして他の家族や親族の優しさも解っている。

 立場上の建前が必要な場においては、誰からこの瞳のことを問われようとも、黙って微笑でもして返すところだ。


 けれど本心では、この緑の瞳のことが大嫌いだった。


 大切な家族に親族に、何よりもサネユキに苦しみと不幸しか与えてこなかった、こんな奇異な瞳など欲しくはなかった。

 苦痛を糊塗するための重苦しい優しさなどいらない。

 ただ、他の人達と同じ色の瞳で生まれたかった。

 家族と一緒に幸せを享受したかった。


 今まで何度そう思ってきたことだろう。


 悪意のないテレーズの姿にいたたまれなくなって、ハツキはカウンターに肘をついた手で口許を押さえ彼から顔を逸らした。


 こんなこと、いつものように表情を崩すことなく薄い微笑で済ましてしまえばいいのにと、そう思う。

 だが何故だろう。今は顔が強張ってそれが出来ない。

 せっかく探していた人に出会えたというのに、初対面でこんな八つ当たりをしてしまうとは。


「気に障ったのなら、ごめん」


 そんな必要などないのに、テレーズが謝ってきた。

 彼の謝罪に、ハツキはますますいたたまれない気分になった。口許を押さえる指に力が入り、指先が頬に沈む。


「でもさ、ハツキ」

 それでもテレーズは優しい声で言ってきた。

「君の瞳の色は、ヤウデン系としては確かに珍しいのだろうけど、俺は好きだな。その翠色、君の綺麗な顔に似合っていて、とてもいい」


「綺麗な顔って……君のように容姿の整った人から言われると、冗談にしか聞こえないのだけど」

 顔を背けたまま憎まれ口を叩く。母親似で男性味に欠ける女顔の自分の顔立ちは、瞳の色以外特徴的だとは思わないし、ましてや美貌で名の通るサネユキや、今隣に座るテレーズのように際立って整っている訳でもない。


 けれどそんなハツキの憎まれ口も、テレーズは笑い飛ばした。

「いや、俺の顔が整っているのも事実だけどさ!」

 あまりに自信に満ちた発言に、さすがに呆れてハツキは顔から手を離し、テレーズの方を向いた。

 そのハツキに、ずっとこちらを見ていたままだったらしいテレーズが笑いながら腕を伸ばしてきた。そのままハツキの前髪を掻き上げる。

 突然他人に触られたことに驚き、小さく声を上げてハツキは首をすくめた。


「俺の容姿に関係なく、ハツキが美人なのも事実だろう?」

「美人って……!」確かにサネユキは良くそう形容されている。ハツキも彼にはその言葉は似つかわしいと思っている。それでもそれは、彼が特別なのだ。

「そんなこと、男に言っても仕方ないじゃないか。女の人に言おうよ……!」


 テレーズの手を払おうと腕を上げたが、逆に自分より大きな手に手首を掴まれてしまう。ハツキは上目遣いに彼を睨んだ。相手が余裕の笑みを浮かべているのが余計悔しい。

「君、実はすごいたらしなのかい?」

「そんなことはないぞ。普段こんなこと人に言わないって」

 だったらこれは何だというのだろう。頬が熱くなるのを感じ、ハツキはテレーズに放された手で顔を押さえた。

「ごめん。今、会ったばかりなのにな。ハツキがあんまり可愛いから、つい調子に乗ってしまった」

「だから、そんなこと男に言っても……」

 彼の言葉や行動は気恥ずかしい。

 けれどそうであっても、やはり彼に対する嫌悪感は全くない。


 だが、少し落ち着くと、ハツキはここが人目もある場所だということを思い出した。

 そして窓際の席に着いていた若い女性達がこちらを見て笑いながら囁き合っていることや、更にはカウンターの中の初老のマスターまでも笑いを堪えている風であることに気づく。

 平静さを取り戻しつつあったハツキだったが、周囲のそんな様子にまたも赤面してしまった。

 その自分の隣の席では、テレーズが一人涼しい顔をして珈琲を飲んでいる。そんな彼の姿に小憎らしさは覚えても、それでもこの金髪の青年に対して嫌な気持ちは湧いてこなかった。


 それを自覚すると、先程一人で勝手に相手の反応を怖れ、彼に対して不愉快な態度を取ってしまったことへの罪悪感が首をもたげてきた。

 ハツキは手を下ろすと、テレーズへ向き直った。

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