昼のうつつ 夜の『夢』 3


「我々はまだ先生とお話をすることがあるが、おまえはこの後制服の仕立てにも行かなければならないだろう? 珈琲をいただいたら先に失礼させてもらいなさい」

「……はい」


 仕立屋への付き添いのサネアキ達とは、適当な頃合いに大講堂の辺りで落ち合う約束をしている。

 サネシゲに促されると、ハツキは程よく冷めた珈琲を飲んでカップをソーサーに戻し、ソファから立ち上がった。

 グィノーの視線がハツキの動きを追いかけ、ソファに座ったままこちらを見上げてくる。

 ハツキは自分を見つめる教授に礼儀正しく一礼した。


「申し訳ありませんが、お先に失礼させていただきます。四月芽月からよろしくお願いいたします」

「うむ。次は入学式の後、こちらに顔を出しなさい」

「はい。……ボードリエさんも、よろしくお願いいたします」

 奥の自分の机で資料を広げていたボードリエにも挨拶をすると、彼は顔を上げ、また嬉しそうに笑った。

「こちらこそよろしく。君のように優秀で可愛い後輩が出来て、僕も嬉しいよ」


 ボードリエは他意もなくそう言ったようだったが、彼の言葉にハツキは内心首を傾げた。何を指して可愛いなどと形容しているのか全く理解出来なかったからだが、口に出して確認するようなことでもない。

 ハツキはボードリエに黙って会釈だけを返しておいた。

 再度失礼しますと礼をして、ハツキはグィノーのヤウデン歴史・文化研究室を辞した。


 明るかった部屋から出ると、建物の北側にある廊下が実際以上に暗く感じられる。

 ハツキは薄暗く人気ない廊下を足早に過ぎると、階段を降りて文学部研究棟の外に出た。建物の入口の傍に、屋敷から乗ってきた車が停められている。車の傍で待機している運転手がこちらに気づいて顔を上げてきたが、相手に小さく会釈だけして、ハツキは来る時には車で通ってきた道を戻って大講堂へ向かった。


 大講堂までの道すがら、構内でちらほらと見かける学生の制服を観察してみた。

 ボードリエの言っていた通り、確かに殆どの学生は黒ずくめの恰好だったが、たまにベージュのウエストコートを着用している学生がいる。

 四月芽月から自分もベージュのウエストコートのあの恰好をすることになるが、その意味を知っても特に感慨はなかった。ボードリエから話を聞いて制服の色の違いがどんなものだろうかという興味は抱いたものの、実際に確認をしてしまうと興味はすぐに薄れてしまった。

 そうなると、一人になったことで、つらつらと昨晩の夢のことが思い起こされてきた。


 汽車の中では見なくて済んだ、物心ついた頃からずっと自分とサネユキの傍にある『夢』。


 幼い頃から、たとえ家族であってもサネユキ以外の他人が近くにいると眠ることが出来なかった。

 サネユキが高校進学のためヴィレドコーリに出てくる以前、ベーヌのチグサの家で一緒に生活をしていた時は、いつも彼がハツキと同じベッドで寝てくれた。そうして彼と共に迎えてはいたものの、それでも夜になると訪れるその『夢』は幼いハツキにとって恐ろしいものだった。

 恐怖のため、夜中に泣いて目覚める自分を何度彼が慰めてくれたことだろう。


 ベーヌから彼がいなくなった後は一人で寝るようになった。

 暗い部屋の中、独りでベッドに横たわり『夢』に落ち行く。

 ベーヌで独りになってしまったあの頃は、眠りにつくことが本当に怖かった。


 今でもサネユキ以外の他者が近くにいると眠ることが出来ないのは同じだ。

 けれど度重なる経験から、その『夢』が自分に直接的に何かしらの危害を与えてくるのではないと判断出来るようになって、『夢』そのものに対する恐怖は減じた。

 独りきりになってしまった頃には、『夢』から逃げようと眠ることすら忌避したものだ。その経験によって、眠ることをしなければ身体が保たないことは身を以て知ったし、それによって取り返しのつかない出来事も引き起こした。

 人の身に眠りは必要不可欠なものだ。

 『夢』に対する恐怖も今や殆どない。

 それでも、ハツキにとって眠ることは毎晩憂鬱だった。

 彼のいる王都にやって来て、傍にサネユキがいるといっても、すでに成人を迎えた身で添い寝を頼む訳にはいかない。


 あの『夢』は、自分達にとって直接的危害はないのだ。……おそらく。


 『夢』の中ではいつも同じ風景だった。

 全体的に明るく白っぽい、太陽の存在しない薄水色の空が頭上に広がり、足元には空が与える印象と同じような、生気ない淡い色をした丈の短い草が生える起伏に乏しい大地が全方位地平線まで続く。

 そして、どこからか風の吹く大気は冷え冷えと寒い。


 そんな場所に、昔はサネユキと二人で、今は一人きり訪れる。

 その何もかも冷え切った草原の中には、ぽつりぽつりと人影があった。

 それは老若男女様々な人達だったが、服装などの恰好はベーヌで一般的に見かけるようなものが多く、またその人々の特徴も彼らがベーヌの人間であることを示していた。

 彼らはそこへ、頭頂部からそして足へと、まるで地面を抜け出してくるかのように地上から現れてくる。そして全身が現れるとすとんと地に足をつき、そこで意識らしきものを持つようだった。

 しかし、彼らが実際にはどれだけの自意識を持っているのかはハツキにもサネユキにも解らない。

 幼い頃のハツキは、サネユキが共にいた心強さもあって好奇心のままに彼らに近づき、声をかけてみたこともある。だが、彼らは一様に何も映さない虚ろな目をして、ハツキに応える者など誰一人としていなかった。落胆するハツキの手を、そのたびに隣に立つサネユキはきゅっと握り締めてくれた。

 やがてハツキも彼らに声をかけることは諦め、ただ観察するだけになった。

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