汽車は春の丘を越えて 5
「ハツキ、いいか?」
部屋の扉をノックし、通路から声をかけてきたのはサネアキだった。
「開いてるよ」と、手を下ろしながら答えると、サネアキは扉を開けて中に入ってきた。遠慮なく寝台の横にやって来てハツキの顔を覗き込んでくる。
「良かった。眠られたようだな。こちらの車両に人が来ないように頼んで正解だった」
「どうりで……。ありがとう、アキ兄」
昔から自分のことを知る十二歳上のこの義兄は、ハツキに対する気遣いにそつがない。素直に感謝の言葉を口にすると、サネアキは嬉しそうに笑った。
「ああ。おまえが休めたのなら何よりだ。ところで、そろそろ昼食の時間なんだが……食べるだろう?」
「もうそんな時間? もちろん食べるよ。ここの食事、美味しいもの」
「だと思った」からからと笑いながらサネアキはハツキの頭を撫でた。「ここで起こさなかったら、おまえに恨まれるところだった」
「そりゃあ……食事は僕の数少ない楽しみなんだよ?それまで邪魔をされたくはないよ」
「これからはそんなこともなくなるさ。楽しめることが沢山ある。ほら、用意をしろよ」
急かされてハツキは寝台から下り、室内の洗面台で顔を洗った。ハツキが顔を洗っている間にサネアキがハンガーから取ってくれた服を受け取り、姿を整える。そうしてサネアキと一緒に食堂車に向かうと、既にアリタダとサホは席に着いていた。
ハツキの姿を見て二人が笑いかけてくる。
「兄様、お加減大丈夫?」
「アキ兄のおかげで、休めたよ」
サホに答えたハツキの頭に手を置いて、サネアキが更に続けた。
「まあ、食事の後も休んでおいたほうがいいだろうけれどな」
その言葉に反論しようとしたハツキだったが、ぱんぱんと手を打った父親にそれは遮られた。
「そんなことより、二人とも早く席に着け。昼飯にしようじゃないか。身体は動かしていないのに、意外と腹が減ってなあ」
その言葉に従ってサネアキがハツキの背を押して席に誘導する。反論の機会を失ったハツキだったが、ほんの僅か視線を落とした後、大人しくサネアキに従い席に着いた。
四人が揃ったのを受けて食事が運ばれてくる。
腕のいい料理人による昼食を食べた後、サネアキが言った通りハツキは再度部屋に戻って休むことになった。ハツキ自身は午前中も休んだことで、それなりに体調も良くなっていたことから、もうその必要はないと考えていたのだが、サネアキは頑として譲らなかった。
「ヴィレドコーリにはお祖父様とカザハヤの親父、それになによりユキがいるんだ。おまえに何かあったら、俺があいつにどんな嫌みを言われるか、解ったものじゃない」
そう言われると、祖父や伯父はもちろんのこと、サネアキの実弟でハツキの従兄にもあたるサネユキが兄に対してどのような態度を取るかは想像に易かった。
弟からの小言を思い浮かべて眉間に皺を寄せるサネアキの様子に、申し訳ないなと思いつつもくすりと笑って、ハツキは素直にサネアキの言葉に従ったのだった。
言われた通り午後からも部屋で休ませてもらい、夕刻に自分で起き出した。昼からも眠ることが出来たので、その時には気分はすっかり良くなっていた。
午前中から閉め切ったままだった窓のカーテンを開けて外を確認する。今もまた丘陵地を縫うように汽車は走っていたが、太陽が西に傾き、丘に機関車からの煙と車体の影が長く伸びていた。
身なりを整えて部屋を出る。通路の窓からは夕方の日の光が車内に差し込んできていた。
談話室に顔を出すと、一番最初にハツキに気づいたサホが手を振ってきた。サホの向かいの席で新聞を広げていたサネアキも顔を上げてくる。そこにアリタダの姿がないので不審に思って車内を見渡すと、奥の長椅子で横になっているのを見つけることが出来た。
おそらくハツキが部屋で休んでいたので、自室に戻ることなくここで休んでしまったのだろう。
「……お父さんに、悪いことをしたね」
「気にするな」新聞をたたみながらサネアキが笑う。
「客室は狭くて窮屈だとおっしゃってね。どうせ俺達しか乗客はいないからと、あそこでお休みになったんだ。今回の行きだけのちょっとした贅沢さ」
ハツキがサホの隣の席に腰を下ろすと、早速スチュワードが用を尋ねにやってきた。紅茶を頼むと、私もとサホが言ってくる。
「兄様、ここお菓子もとっても美味しいの。お召し上がりになったらどう?」
「美味しいからって、ほぼ全種類食べているのもどうかと思うけれどなあ」
サネアキに苦笑交じりに突っ込まれて、サホが軽くふくれる。
「だって、車内の探検はしてしまったし、後はお外の景色を眺めることと食べることしかないんだもの。それに、せっかくの美味しいお菓子をいただかないのはもったいないわ」
元気のいいサホの答えに、用を伺っている最中のスチュワードも思わず吹き出す。
笑いながら「お気に召していただき光栄です、お嬢様」と礼を言ってきた。
「だったら、何かいただこうかな。サホのお勧めは何?」
「タルトタタンが一番! 甘酸っぱい林檎にカラメルのお味もしっかり利いていて、そしてタルト生地もさくさくで美味しかったわ!」
妹と自分の味の好みは似ているので、彼女が勧めるものにまず間違いはない。ハツキが彼女の勧め通りにスチュワードへタルトタタンを頼むと、彼女は嬉しそうに笑った。
「ヴィレドクルワーゼに着くの、何時だった?」
運ばれてきた紅茶と、サホの言う通り絶品と言えるタルトタタンを口にしながらサネアキに尋ねる。ハツキからの質問に、サネアキはベストのポケットから懐中時計を取り出して時間を確認した。
「十七時五十分頃だ。今が十六時半だから、あと一時間とちょっとだな」
前回の旅の記憶からすると、給水停車ももうない。ベーヌからの長旅も、もうあと少しだった。
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