汽車は春の丘を越えて 4
アリタダはグラスの中身の半分ほどをくいと飲んで、また息をついた。
「そんな両方のチグサが協力して、ヤウデンからルクウンジュに持って来た木を改良して育て上げ、うちの自慢の林檎にしたんだ。俺はルクウンジュだけでなく、ヤウデンにもうちの林檎に適うものはないと信じているからな。そしておまえ達も、姉さん二人も全員、そのチグサの自慢の子供達だ」
最後の言葉をアリタダはハツキに目を合わせながら言い切った。母親の願いと同じように、ハツキは父の思いも知っていた。その思いを込めて父が自分の名前をつけてくれたことも知っている。
だから父に向けては、それ以外の全てを飲み込んでゆったりと微笑みを見せる。そうする以外の解をハツキは持っていなかった。
ハツキが微笑を向けたからだろう。アリタダは安心したように肩の力を抜いた。
シードルを注ぎ分けたグラスをサホに渡しながら、サネアキもハツキに笑いかけてくる。
この会話の機微を理解出来ない末妹のサホは、サネアキからグラスを受け取りながら不思議そうな表情でハツキを見上げてきたが、父と義兄に安心を与えることがハツキにとって重要なことだった。妹に対して特段説明する必要など考えていなかったし、サホもそんな兄に対して何を訊いてくる訳でもない。
それでいいのだと思う。
その後は、主にハツキ以外の三人が喋って、ハツキは話題を振られると、それに答えるか相槌を打つかという、実家にいる時と同じような雰囲気で談笑が進められていたが、そうしているうちにサネアキがハツキの顔色が冴えないことに気がついたようだった。
「ハツキ。おまえ、昨晩あまり眠ることが出来なかったんだろう」
言われて曖昧に笑う。
「……汽車の中だからね。でも、大丈夫だよ」
「何を言っている。どうせヴィレドクルワーゼに着くのは夕方だ。時間はあるのだから、まあ……寝られないとは思うが、戻って横になっておけ。目を閉じているだけでも楽になる」
心配はいらないと言い返そうとしたが、ハツキの反論を封じるような視線をサネアキが向けていることに気づき、ハツキは開きかけた口を閉ざして目を伏せた。
「……はい。……ありがとう、アキ兄」
「兄様、大丈夫?」
ハツキが席を立つために場所を譲ったサホがハツキの顔を覗き込んできたが、彼女にも微笑をして返す。
「少し寝不足なだけだから。お父さん、ごめんなさい。ちょっと失礼するね」
ハツキの断りにアリタダも手を上げて応じる。それにもう一度頭を下げて、ハツキは談話室になっている車両から寝台車へと戻った。
※
ベーヌ線の寝台車は二人用個室が並ぶ作りだ。
今回は貸し切りで運行しているので、各自に一室が割り当てられており、ハツキの部屋は隣室を空室とした一番後ろ寄りの部屋だった。
部屋に入って上着とベストを脱ぎ、ネクタイも外してハンガーに掛け、シャツのボタンを緩めて寝台に腰掛ける。
部屋の外の景色は、葡萄畑も過ぎて落葉樹の森になっていた。動く汽車の中からでは観察は出来ないが、きっとその枝々にも、ベーヌとは異なり既に春の新芽が芽吹いているのだろう。
ハツキは溜息をついて窓のカーテンを閉めると、たたまれていた毛布を広げて寝台に横になった。毛布にくるまって身体を丸くする。
昨夜も同じようにしていたが、慣れない空気や、狭い汽車の中ではどうしても感じてしまう他人の気配に殆ど眠ることは出来なかった。
サネアキも言っていたように、今も寝られるとは思えない。それでもせめて、何も考えないようにしようと思いながら、ハツキは目を閉じた。
※
近づいてくる人の気配に意識が浮上するのを感じる。
予想に反して眠っていたらしい。幸いいつもの『夢』は見ないで済んだようで、眠りに落ちたことも、寝ていた間のことも記憶にはなかった。
ベッドに上体を起こして額をおさえる。
完全にすっきりしたとは言わないが、頭の奥から疼痛を感じていた先程よりは随分と気分が良くなっていた。
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