第273話 今更な覚悟です!

『銀の匙』を身に付けたので、カリンの身体に黒い霧が入り込む事はない。


 丘が近づく。


 俺はカリンが持って来てくれた銀のナイフを手にした。丘の土をほじくる黒い牡鹿に、そのまま向かっていく。


 そこまで来て、今さら俺は躊躇ちゅうちょする。


 生き物にナイフを刺すという行為に、ためらいを覚えたのだ。


 今までだって、黒い霧に取り憑かれた生き物に矢を刺したり、射たり。テグスで首を切ったりして来たけど……。


 ナイフで刺すのは、それらとは違った、もっと直接的な感覚を持ちそうで怖かった。


 でも……。


 目の前で右腕を奪われたデルトガさんの姿が浮かぶ。


 二度と同じような犠牲を出すわけにはいかない。


 ごめんな。


 謝るのは俺なりの祈りなのかもしれない。


 俺はナイフを構えてそのまま牡鹿に向かって行った。


 夢中で土をかき出している牡鹿は、俺の接近を知ってか知らずかその場から動こうとはしない。


 その脇腹目掛けて——。






 ナイフを突き立てようとした時、背後から雷音のようなとどろきが迫って来た。


 残りの牡鹿達だ。


 そのうち一頭は巨大化した奴だ。


 ヤバい、追いつかれる!


 俺は空いている手でカリンの手を引っ張った。丘の結界に入ればしのげるだろう。


「ダズン、走れ——」


 振り返りつつダズンを探すと、今まさに追いつかれて、巨大鹿と丸太で戦おうとしているところだった。


 あっという間にダズンはかこまれる。


「ダズンさん!」


 カリンが彼のもとへ戻ろうとする。俺だって同じ気持ちだ!


「俺が行く。カリンは丘へ」


「そんな!私ひとり安全な場所に行くわけにはいきません!」


「わかってる。カリンには頼みがある。水鉄砲を持って来て援護してほしい」


「……わかりました」


 丘の手前でカリンと別れる。

 あちらには小柄な牡鹿が一頭いるだけだ。黒狼の群れもまだ動き出してはいない。無事に丘に入れるだろう。


 俺は今度こそナイフをしっかりと握り、ダズンを囲む鹿の群れへと突っ込んだ。


「うおおおお——!!」




 つづく



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る