第274話 闇を切り裂くその音は!

 俺の雄叫おたけびに気が付いたのか、背を向けてた黒い牡鹿が一頭振り返る。


 赤い目玉と口元に、俺を嘲笑あざわらう形を作って、奴は跳躍する。思いの外高く飛ぶと、俺に覆いかぶさるように襲って来た。


「うわ!」


 のしかかられる。

 仰向けに組み伏せられて、前脚で俺の両腕を押さえてくる。


「くそっ!離せ!」


 巨大化した牡鹿の側に居たから気がつかなかったが、こいつも普通の鹿よりは大きい。笑った口からよだれが落ちて来て、俺の胸を濡らした。


「うわ、キモッ!」


 気持ち悪いのと喰われる恐怖から、俺は自由な足を振り上げた。両足で奴の腹を思い切り蹴るのだ——。


 ところが今度は後脚で俺の下腹を抑えて来た。内臓の入った腹を破られるという想像をしてゾッとする。


「離せッ!」


 叫んで暴れる俺の耳に、二つの悲鳴が聞こえて来た。


「カリン⁈ダズン⁈」


 首を捻って丘の方を見ると、カリンも牡鹿に捕まったみたいだった。いたぶるようにカリンの襟首をくわえて、右、左と彼女を揺さぶって遊んでいる。


 反対の方へ首を巡らすと、巨大鹿がダズンの丸太を横ざまに噛んで、その攻撃を止めていた。そのままなら膠着こうちゃく状態になるだろうに、残った二頭がダズンの腕や足を噛もうと歯を鳴らしていた。


 ナイフ!ナイフはどこだ⁈


 気がつけば銀のナイフは俺の手を離れていた。


 なんだよ、ちくしょう!


 村の方でも、誰もこの窮状きゅうじょうに気づいてないようだ。


 ニタニタ笑いの牡鹿が顔を近づけて来た。長い舌がその口元をベロリと舐めた。顔に生臭い息が吹きかかる。


「ダズン!丸太を捨てて逃げろ!カリンを——ぐえっ!!」


 腹を——腹を踏まれた。


 痛さに涙が浮かんでくる。


 滲む視界にダズンが噛みつかれた姿が入った。


 ダズン!


 そして俺にも、ぐわっと開けた牡鹿の歯が迫る。


 俺は——俺はいい。


 カリンだけはやめて……。





 ヒィン————!


 目をつむった俺の耳に、風切音が届いた。それもひとつではない。


 吹き荒ぶ風鳴りのような音が辺りに降り注ぐ。


 ほぼ同時に肉に何かが刺さるみたいな音もした。


「え?」


 目を開けると、俺にのしかかっていた牡鹿がぐらりとゆれる。そのままごろりと横に倒れた。


 その背には四、五本の矢が刺さっていた。カリンの方を見るとそちらも同様で、カリンは倒れた鹿のそばにへたり込んでいる。


 ダズンは?


 ダズンも無事だ。

 たじろぐ巨大鹿を残して、ほかの黒い牡鹿達が地に伏していた。みな何本も矢を体に受けて——。


 雷鳴に似た音が街道の方から聞こえて来る。俺はこれに似た音を知っている。


 鹿の群れの足音よりももっと重い——そう、馬の駆ける地鳴りだ。


 それも一頭ではない。


 俺はナイフを拾い、立ち上がった。


 夜目にもわかる。

 マントをひるがえしながら、こちらへ軍馬を駆ってくるのは、俺の知ってるもう一人の深緑騎士——。




「待たせたな、ヒロキ」


「ジークさん!」





 つづく

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