営業再開

増田朋美

営業再開

営業再開

ある日、蘭と杉三が、自宅から近隣の神社で行われている、フリーマーケットに行った時の事である。

「いやあ、今日は暑いなあ。なんだかもう袷の着物、要らないかもしれないねエ。」

と、杉三が、頭をかじると、そうだねえと蘭も言った。それくらい、今日はなぜか暑いと感じられた。まだまだ夏になるには遠い先であるのに、もう暑い暑いという言葉がいろんなところから聞こえてくる。本当に、今年はおかしな年だ。極端に暑かったり、かと言ったら大雪が降ったり。まるで、元号が変わる直前に、いじめをしているような気がする。元号が変わるという事を、地球はそんなに嫌がっているだろうか?

「おい、蘭、着物屋があるぞ。見てこうぜ。」

こんな暑いときにまた袷の着物を買うのか、なんて、蘭はあきれてしまったが、一度、そういうモノに目を付けてしまうと、絶対に、買っていくのが杉ちゃんであるので、蘭は杉ちゃんの後をついて、その売り場まで行く。

「おう、蘭、これは何て書いてあるんだ?」

と、杉ちゃんが蘭の着物の袖を引っ張った。

「え?あ、そうか、杉ちゃん字が読めないのか。えーと、きもの一枚、この箱の中、どれでも500円ですよ。だって。」

「つまり、この大きなコインで一枚買えるってことか。なるほど、其れはありがたいな。」

と、解釈してしまうのも杉ちゃんならではだった。500円が高いのか安いのかそのことは何も言わない。ただ、大きなコインで買えるか買えないか、其れさえ分かればそれでいいのだ。千円にしても、五千円にしても、一万円にしても同じこと。金額何てどうでもいいのである。杉ちゃんにとっては、コインやお札は、着物と引き換えに誰かにあげてしまうだけの事であるから。

「おう蘭。ほら見ろよ。着物がこんなにたくさんあるぞ。これは、おそらく塩沢だろうな。そして、こっちは、頑丈なことで有名な牛首紬。まあ、さすがに黒大島はなさそうだけど、羽二重があるかな。」

と、杉ちゃんは、すぐに、箱の中を漁り始めた。杉ちゃんったら、なんで触っただけで、着物のブランドを口に出して言えるんだろうか。そういうところはすごいのに、お金に関しては無頓着。

「おばちゃん。この箱の中に入ってる、塩沢、牛首、羽二重、三つ頂戴。」

別のお客さんの相手をしていた中年のおばさんに、杉三はでかい声で言った。本当は、おばさんなんて女の人に対して言ってはいけないんだぞ、と蘭は思ったが、杉三はお構いなしだ。

「ハイハイいいですよ。一枚500円だから、合計して、1500円。」

「おい、蘭。どのコインで払えばいいんだ?」

と、杉三は蘭に自分の財布を見せた。

「1500円だから、野口英世の顔が付いているお札が一枚と大きなコインが一個。」

蘭が、小さな声で介助すると、杉三は、えーと野口英世ねと言いながら、お札を一枚取り出した。

「あと、大きな桐紋のコインが一個ね。」

今回そろっていてくれて、よかったと蘭はほっとした。もし、こういう事を誰かの前で話したら、変な奴だと言われてしまうかもしれない。これでは杉三ではなく蘭のほうが、恥ずかしくなってしまうのである。

「じゃあ、これよろしくね。あと、領収書もお願いね。」

「はい、ちょっとお待ち下さい。」

おばさんは、お金を受け取って、領収書をちかくに置かれている引きだしの中から取り出した。そして、ボールペンで1500円、以下のとおり領収しましたと書いて、杉三に渡そうとすると、急に強い風がピーっと吹いてきて、領収書がどこかに飛んで行ってしまった。普通の人なら、走って取りに行くこともできるけど、歩けない杉ちゃんには、とても無理だった。杉三は、もう一枚書いてくれとお願いしたが、蘭はもう周りの人の視線が恥ずかしくて、もう帰ろうと言った。しかたなく二人は、とりあえず品物だけ受け取って、その店を離れた。

「しかし杉ちゃん、三つも着物買って何にするんだ?リメイクでもするのかな?」

「そんなバカなことするもんか、ちゃんと着用してもらうよ。まだまだ着られそうだもん。」

たしかに、リメイク用として売られているものであっても、まだまだ着用でできてしまうのが、ほとんどであって、本当に、リメイク材料となるものはごくわずかなのであった。

「誰が着るんだ?杉ちゃんか?それにしてはちょっと派手すぎやしない?ターコイズブルーなんて。」

たしかに、買ってきた羽二重は、見事なターコイズブルーで、中年男性というより、ちょっと若い男性向きのような気がした。

「いや、僕が着るんじゃないんだよ。僕みたいな、仏頂面に似合う分けがないでしょう。そんなこと、当たり前だい。」

と、口笛を吹きながら答える杉三。

「それでは、杉ちゃん。誰が着るんだ?」

「水穂さん!」

杉三は答えを当然の様に言った。

何だ、また水穂にくれるのか。せめては、ここの神社に連れてきてやった僕にお礼でもしてくれないだろうかな。全く、そんな事はまるで考えないんだから。其れよりも水穂さんのほうばっかりである。

まあ、見返りを求めないのも、介助者の務めか。と、蘭は考え直して、杉ちゃんの後をついて行った。

そうして、神社の鳥居付近まで戻ってきた、その時である。

「あの、すみません。これ、あなた方のじゃありませんか?」

と、後方から、女の人の声がした。

「へ?」

杉三が後ろを振り返ると、蘭と同じくらいの年齢の、縦縞の着物を着た女性が、そこに立っていた。背は、160センチくらいの比較的大柄な女性で、半幅帯を、たれ文庫に結んでいたので、その恰好は着物にくわしい人であれば、すぐに水商売をしている女性とわかる。

「この領収書、飼育池の近くの石の上に落ちていました。着物三枚分と書かれていましたので、着物を三つ買ったと、あなた達が話していましたから、もしかしたら、と思いまして。」

と、彼女は、領収書を差し出した。

「お、間違いなくそれだ!おう、ありがとうよ。よかった、僕は領収書をもらわないと、買い物したという気持ちにならないのよね。」

と、杉三がそれを受け取った。全く、文字も読めないのに、其れなのに領収書をもらわないと気が済まないなんて、何ていう変な奴だろう杉ちゃんは、と、蘭は、あきれてしまうのである。

しかし、その女性の顔は、蘭にも見覚えのある特徴を示していた。そして、その女性も、蘭が誰なのかわかったようだ。

「あれれ、蘭さんじゃない。あの、私を覚えていない?」

「えーと、、、。あれれ?都井さんでは?」

「お前さんたち、知り合いだったのかい。」

二人がそう言い合っていると、杉ちゃんがその間に入った。

「知り合いというか、小学校時代、蘭さんと同じクラスだったの。席は離れていたけど、あたしちゃんと覚えてる。あたしは、同級生の都井貴美香。」

と、彼女はにこやかに言った。

「なるほど、そうだったのか。蘭のやつ、こんなきれいな人から覚えてもらえたなんて、相当クラスでモテたんだな。へええ、そうだったんだね。ちなみに僕は、今の蘭にとっては一番の大親友となっている、影山杉三でございます。どうぞよろしくね。」

杉三はそういって、貴美香さんとしっかり握手した。蘭は、大親友というより大迷惑と思うんだがなあと苦笑いした。

「あの、領収書ひろってくれて、ありがとうございました。本当に助かりました。」

蘭は、彼女に丁重に礼というと、

「あの、もしよかったら、一寸寄っていかない?私の店はこの近くなのよ。勿論、悪い様にはしないから。」

と、貴美香さんは言った。

「でもねえ、僕は水穂さんに届けに行かないといけないんだけどねえ。」

杉三がそういうと、貴美香さんは水穂さんと聞いて、ちょっと表情を変える。でも、すぐに元のにこやかな顔にもどった。

「それじゃあ、蘭さんだけでもいいわ。どうせ、うちの店は、大して人が入る大きさでもないから。」

「そうか。それでは、そうするか。蘭は、貴美香さんの店に行って、僕は製鉄所に行くように、二台のタクシーを呼び出せばそれでいい。よし、電話しよう。」

と、杉三は、蘭に岳南タクシーへ電話をかけてくれる様に言った。蘭はしぶしぶ電話をかける。

「それでは、ひさびさの再会を思いっきり楽しんで下さい。それじゃ、僕は、先に帰るから!支払いは、スイカでしておくよ。」

数分後、ワゴンタイプのタクシーが二台やってくる。杉三は、すぐに一台目のタクシーに乗せて貰って、製鉄所に言ってもらうように頼んだ。はいよ、と言って、運転手はすぐに走り去ってしまう。


「じゃあ、いってみましょうか。」

貴美香さんに言われて、蘭はもう一台のタクシーに乗せてもらった。と言っても、タクシーを使う必要もないほど近い距離で、これでは歩いて行けるほど、距離は近かった。

「へえ、こんなところに店を出したんですか。」

と、蘭は、思わず言ってしまう。一等地とは言えないけれど、富士駅からも比較的近い場所に店があった。

「まあね、あんまり上等な店ではないけどね。」

と、彼女は言うけれど、何だか戦前にあった、コーヒーを女中が提供する店のようなそんな感じの雰囲気を持っている。

「いや、面白いじゃないですか。昔あった、銀座のカフェバウリスタみたいな感じで、レトロな雰囲気がとてもいいですよ。いや、ミルクホールと言ったほうがいいですかね。なんだか、大正時代にタイムスリップしたみたい。」

カランコロンとなっている手動ドアを開けながら蘭はそういった。確かに、店自体はきれいなのだが、蘭が言った通り、テーブルも、椅子も、大正時代のミルクホールにそっくりな形をしている。

「とりあえずここに座ってよ。今メニュー持ってくるわね。」

貴美香さんは蘭を、一番奥のテーブルに座らせる。そして、女給さん用の前掛けをしめて、蘭にメニューを差し出した。メニューは、ミートソースやナポリタンなど、昔はやっていた、イタリアン系の食材ばかりで、一寸ばかり蘭には、苦手な食材であった。まあ、ミルクホールに似ているんだから、仕方ないかと蘭は思い、ミートソースを注文した。

「どうもすみませんね。」

数分後に、ミートソースを持ってきてくれた、貴美香さんに、蘭はちょっと恥ずかしそうな顔をして応答した。

「蘭さん、お水のお代わりはいかが?」

貴美香さんはそう尋ねた。

「あ、ああ、そうだね。それでは、いただこうかな。」

蘭がそういうと、貴美香さんはグラスになみなみと水を注いだ。

「蘭さん、箸のほうがいい?それともフォークのほうがいいかしら?どう?」

蘭はそんなことまで聞くだろうか?と、思ってしまって、貴美香さんを見た。普通、フォークを置くだけで充分なはずなのだが、、、。なんだか、過剰なサービスであった。

「嫌ねえ蘭さん。ここは、女給さんをおしゃべりしながら、食事を楽しむところなんです。だから、こういう風にサービスするんです。」

あ、そうなのね。戦前の、いわゆる「カフェ」と同じようなものか。戦前にカフェと言えば、ご飯を食べるというよりも、女給さんとの会話を楽しむのを主体とした店だった。時には裏で売春が行われていたこともある。

「蘭さん、答えだしてちょうだいよ。ほら、箸のほうがいいの?それともフォークのほうがいい?」

「あ、そうだねえ。じゃあ、フォークで食べようかな。」

蘭は、ちょっと苦笑いしながら、そう答えると、貴美香さんは、どうぞ、とフォークを持ってきてくれた。蘭はそれを受け取って、いただきますと言ってミートソースを口にすると、なんだか、幼い子供に食べさせる味のような、典型的なミートソースの味がした。いわゆるイタリア料理風の、本格的なミートソースではなくて、どこか甘さがあり、日本人向きにアレンジされた、大昔のミートソースという感じである。イタリアンが流行っている現代社会では、ちょっと古いかもしれないが、でもまずいという味ではなかった。

何だか、こんな過剰なサービスといい、このミートソースの味と言い、一度家庭に入った人でないと出来ないのではないか、と、蘭は思ってしまう。もしかしたら、と思い、蘭はこう聞いてみた。

「都井さん、あのちょっと聞きたいんですがね。あの、女給さんとしゃべるのが売りの店なら、僕のほうが、質問してもいいですかね?」

「ええ、いいわよ。ほかのお客さんもいないから、お相手できますよ。」

貴美香さんは、蘭の隣の椅子に座った。

「あの、もしかして、一度結婚したんですか?変なことを聞いて申し訳ないのですが。」

貴美香さんの指には指輪はついていなかった。貴美香さんはうつむいて黙る。

「したことにはしたんだけどねえ。一度だけ。でも、結局、ダメだった。いくら愛し合ったって、だめなものはだめね。」

貴美香さんは、いかにもカフェの女給さん、つまり悲しい過去を背負った売春婦の様に言った。

「どういう事ですか?」

「ああそうか。蘭さんは知らないのね。そうだよね、小学校出た後、ドイツへ行ったんだもんね。」

蘭は、またドイツへ行って損をしたなと思う。ドイツへ行くのは、いじめっ子から逃げるためだと母は言っていて、自分もそのためだと思い込んでいたが、大人になってから、損をしていたという事がはっきりわかってくるからだ。

「あたしね。中学校とか高校になじめないで、高校を辞めた後、定職に就けなくてね、それで、しょうがないから、体を売って生計を立てたの。昔で言うところの吉原の女性みたいな感じでね。でも、そこでもなじめなくて、いじめられてばっかりだったわ。ほかの女郎さんに嫌がらせされているのを、偶然お客さんに見られてしまって。でも、そのお客さんがこういったのよ。この世界にいるのは、君には合わない、すぐやめろって。それで、私に高い結納金を払って、結婚するという形で売春をやめて。」

「なるほど。身請けしてもらったわけですか。」

と、蘭は、そう頷いた。いつの時代にも、遊女というものは存在し、身請けという者もあるんだなと蘭は思う。自分の客の中にもそういう人はいる。吉祥文様を体に入れて、二度と売春には戻らない!なんて高らかに宣言していた女性もいた。

「そうよ。そういう事ね。だけど、主人はすごくあたしのことを愛してくれたんだけど、主人のお母さんが、許してくれなくてね。しまいには主人のほうがすごく鬱みたいになってしまって。それでは、私の責任だと思って、もう引き下がるのが、一番かなあと思って。」

「お子さんはいたんですか?」

「ええ、でも、赤ちゃんのうちに、盗られちゃった。姑に。あたしが、女郎だったという事を知らせないほうが、子どものためって。」

ずいぶん不条理なことがあるものだ。でも、お姑さんの事情もわからないわけではない。親が原因でいじめが起きてしまうことは、今の学校なら十分あり得ることだし、其れが元で、子どもが命を落とすことだって、ざらにあるのである。だから、何でも安全第一で動かなければならない。そのためには、あらかじめ離婚しておく方がいいという事情も、分からないわけでも無い。

「いまはきっと子連れ同士の再婚とかで、それでしっかり、やっているんじゃないかしら。でも、私は、あの子が幸せになるならさよならしてもいいわよ。だから、こうして営業再開。でも、からだを売ることは、もうしたくないから、そのやり方はもうしない。こういう昔風のカフェを始めて、また一からのやり直しよ。」

「都井さん、お子さんに会いたいとかそういう気持ちにはならないんですか?だって、ご自分で産んだお子さんでしょう?それは、やっぱり誰の物にも変えられないっていうか。そういう気持ちにならないんですか?」

蘭は、女性なら必ず思うだろうなと思うことを、一寸口にして言ってみたが、貴美香さんは笑ったままだった。

「ううん、母親だからこそ、できる事ってあると思うの。それは、あたしだからできる事であって、ほかの人にはできない事よ。だから、もう子供の事は忘れて、また一人に逆戻り。元の一人に戻っただけ。」

「そうですか、、、。」

自分より彼女のほうがより立派だなと蘭は思うのだった。

「蘭さんは、どうなのよ。きっとドイツに行って幸せになったんでしょ?確か、ドイツの美術学校に。」

そう聞かれて蘭は、答えを出すのに躊躇した。

「そうですね、、、。」

蘭は、答えを出すよりも呆然としてしまう。

「あら、蘭さんも?」

貴美香さんはそう聞いた。

「ええ、まあ、僕も落ちぶれました。ベルリン芸術大学、大学院まで行けたのはよかったんですけど、勉強に精を出し過ぎて、気が付いたら就職先を探すのを忘れてしまうという、大失敗をして。」

蘭は、恥ずかしい身の上話を始めたが、貴美香さんは驚かなかった。

「そう、で、どうしたの?」

「偶然出会った、日本伝統刺青の巨匠先生に拾ってもらって、修行を始めたんです。ドイツでは、刺青というものが、趣味的に普通に行われていて。それで周りに入れた人がたくさんいたから、僕は何も違和感はなかったんですけど、、、。」

「そうよね。ヨーロッパのサッカー選手だって、全身くまなく入れている人、沢山いるわ。ベッカムだってそうじゃない。そっちで暮らしていればそうなるわよ。」

何も驚かず、普通に話している貴美香さん。

「まあ、師範免許もらったのはよかったんですが、今度は刺青の世界大会に出場しようとして、無理をしすぎて、体を壊してしまいして。それでやむを得ず帰ってきたんですよ。でも、日本では、ドイツみたいに、気軽にホイホイ入れてしまうものではないから、もう、訳ありの人ばっかりで。それでも結局、もう彫師としてやっていくしかないから、そのまま落ちぶれとして、こうして生きています。」

蘭は、にこやかに、でも悲しそうにそう話した。

「まあ、誰でもそうなりますよ。大人になるって、そういう事だもの。子どものときはみんな強いの、でも、大人になったら、皆弱いって気が付くのが、大人になるってこと。それがうまく出来ないと、ほら、

いわゆるアダルト何とかというのかな。そうなってしまうんじゃないかな?」

「貴美香さんすごい。僕もたまにお客さんから、そういう質問持ち掛けられるけど、答えが出なくて困ってしまっていたんです。何だか、それでは、模範解答を今いただいたような気がしましたよ。」

「嫌ですね、蘭さんは。こんな汚い仕事をしている女の答えを、模範解答にするんですか?それはやめてください。」

と、貴美香さんは笑っていた。でも、その目に少し涙が浮かんでいる。きっと、そういう、賞賛を受けたことなんて一度もなかったのだろう。汚い仕事や、教育上悪い奴と、散々言われていて、きっと、自分をほめてくれる人など一度も現れなかったのだ。

蘭は、それを察したが、君はすごいよという言い方は、しないほうがいいなと今は思った。もし他人が口ざしすれば、彼女の喜びは終わってしまうかもしれない。

「蘭さん。変なことを聞くようだけど、右城君どうしてる?」

不意に、貴美香さんはそんなことを聞き始めた。

「なんですか。どうしていきなり彼の事を言い出すんですか?」

蘭はいきなりそんなことをいわれて、答えを出すのに困ってしまったが、女性であればあこがれの男性というものが一人か二人はいるか、と考え直した。それが水穂であったことは、意外なものではあったけど。

「嫌ねえ、蘭さん。あたしは、これでも女よ。綺麗な人にあこがれるのは、当たり前のことでしょ。あの人、小学校のときから、ピアノ弾いてて、ものすごく恰好よかったから、あたし、何となくだけど、あこがれてたなあ。学園祭のときに、彼が、ショパンの幻想即興曲を演奏していたの、覚えているかしら?あんな、ものすごく速い曲、よく指が動くよなあと、もう心が動いて感動した。」

水穂にしてみれば、幻想即興曲なんて、ただの練習曲と同じようなものであるが、貴美香さんにとっては、ものすごい感動的な曲であったようだ。まあ確かに、きれいな作品なのではあるけれど。

「あたしね、時々、辛いときは右城君のピアノを思い出して、それで頑張ってきてるの。あなた、知らなかったでしょうけどね、右城君は、家に事情があったらしくて、ピアノを弾けるか弾けないかの瀬戸際まで追い詰められたのに、そこから這い上がって、ものすごい演奏がうまくなって、あたし、感動したの。ほら、あたし、大人になるってのは、自分が弱い人間だと知ることだって言ったけど、本当にごくまれには、そうじゃない人間も少なからずいるのよね。なんでだろう。そしてあたしたちは、その強い人たちに、こうしろああしろと教えてもらいながら、生かされているのかな。」

「都井さん、、、。」

今の言葉を水穂に聞かせてやりたかった。彼女をそこまで勇気づけた英雄は、もう布団に寝そべって、半分死にかけている。

「だからねエ、右城君から、そういって勇気づけてもらったんだから、お礼でもしたいなと思ったけどね。急に、演奏を取りやめにするって、いいだして、忽然と演奏活動から退いたでしょう。その理由もはっきりしないし。何処か、外国でも、行くのかなって、あたしは勝手に思っていたけど。」

そのほうがいいと蘭は思った。もし、本当の事を言ってしまったら、水穂は、単に病気に負けてしまった、英雄ではなくただの人間になってしまう。彼女にとっては、水穂は、まぎれもない英雄だ。それを、人間に戻してしまっては、彼女の生きるかてとなってきたその業績が、全部消えてしまうという事になる。

「そうです。水穂は、外国に行きました。なんだか、もっと演奏技術を身に着けるとか言い出して。きっと、いまごろ、外国の女性と一緒になって、幸せに暮らしているんじゃないですか?きっと、彼にはそういう暮らしのほうが合いますよ。彼も、ああして、苦労したことを、都井さんも知っているでしょう。」

と、蘭は笑って、貴美香さんに言った。

「そうね。」

貴美香さんも笑い返した。そう、この人にとっては、水穂は紛れもない英雄であることは間違いないから。そう、そのままにされてやるべきだと、蘭は確信していた。しつこい表現だが、蘭はそうしたのである。そのほうが、彼も、貴美香さんも傷つけないと。

「蘭さん。それはよかったわね。あたし、心配でしょうがなかった。元気にしているならそれでいいわ。きっと海外で、たのしく暮らしているわよね。あの人、綺麗な人だから、きっとすごい美人な外国人の奥さんをもらって、きれいな家に住んで、毎日ピアノ弾いて幸せに暮らしているわ。出なければ、あんなきれいな演奏は出来ないもの。でも、奥さんがうらやましいな。毎日毎日あんな演奏を、聞かせてもらえるなんて。」

蘭は、今度は自分が涙を流すのを一生懸命こらえながら、ミートソースを食べていた。こんな気持ちでミートソースを食べなければいけないなんて、このうえなく、まずいミートソースだった。

「そうね。でも、一度でいいから、日本に帰ってきてもらいたいわね。ねえ蘭さん、もし右城君と連絡ができたら、また演奏してといっておいてよ。あたし、すぐ聞きに行くから。蘭さんなら海外で生活したことあるんだし、エアーメールの仕方も知っているんでしょうし?」

貴美香さん、、、。蘭は切なくて仕方なかったが、それではと、度胸を据えてこういった。

「わかりました、やつにエアーメールでお願いしておきます。気まぐれな奴なので、返答が来る

という保証はありませんが。」

「そう。ありがとう蘭さん。」

貴美香さんは、にこやかに笑った。蘭はやっと、ミートソースを完食することができたのであった。


同じころ、製鉄所では。

「おい、勘弁してくれよ。どうしてそんなに咳き込んだら気が済むんだ?」

と、杉三が言っている。水穂は、布団に横向きに寝て、激しく咳き込んでいるのだった。

「このままだとピアニストとして、もう一回やることは、出来ないだろうな。蘭はそれを望んでいるようだけど?」

と、杉三が言うとおり、営業再開は遠い遠い先になりそうだった。もしかしたらではないけれど、永久にできなくなってしまうかも知れない。

ようやく咳がストップしたのは、杉三が、口元にあてがってやっていた手拭いが、真っ赤に染まった時であった。

「まあ、これじゃ、無理もないか。」

そう言って、杉ちゃんもため息をつく。

「とにかくな、もうちょっと頑張ってくれよ。お前さんも、負けないようにという気持ちを持ってくれ。僕が羽二重を買ってきたのは、ただのおせっかいではなく、そういう意味もあるんだけど、通じているのかなあ。」

杉三は、あーあ、とため息をついた。

「本当は、お前さんにあげるのは、この羽二重のみであったが、それだけじゃ、やる気を出してくれないようだから、後の二枚もお前さんにやるよ。」

杉三は、そういって水穂の口周りを拭いた。開いたままの唇から、しずかに眠る音が聞こえてきた。それを確認すると、杉ちゃんは、着物三枚をたたむ作業に取り掛かった。杉ちゃんは、簡単そうで難しい、独特の畳み方をする着物を、丁寧にたたんで、しずかにたとう紙の中へ入れた。しずかな風が、ピーっと、製鉄所の中を吹いていった。

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営業再開 増田朋美 @masubuchi4996

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