ずっと、そばに

いずみさわ典易

陽射しは……

 陽射しは空全面の雲にすっかり遮られているけれど、梅雨というよりは冬の曇り空に近く、雨の気配は遠い。

 車の量がいつもより多いようにも思える。しかし渋滞になるのはもう少し――あと十五分ほどたってからだ。

 すぐ脇を三つのランドセルが駆けていく。ランドセルはいまや黒と赤に限らない色彩を獲得しているようだ。一個に何色も使っている物だってある。結構するんだろうな、などと考える必要もないことを思い、嗤う。子供の一人も作れなかった男にはランドセルの値段なんて関係ないだろ。

 アルバイト暮らしだった二十代初め、つき合っていた女の子が妊娠した。三年以上つき合っている大学生だった。

 赤ちゃんができたみたい、と言った彼女のムリに作ったクシャクシャの笑顔に俺は震え上がった――アルバイトで子供なんて育てられるわけがない。産ませていいわけがない。

 アルバイトでも学生でも関係ない、できた子供なら産ませて育てるものだ――人によってはそういうことになるのかもしれなかった。しかし俺にはとてもそういうふうには考えられなかった。

 子供というものは「しっかり生活の基盤をなした人間がきちんと結婚してから作るもの」だったのだ。少なくとも、自分一人を食わすだけで手一杯の結婚さえもまだまだ他人事な、当時の「俺」からしたらそういうものだった。

 しかし目の前には彼女の、どこか済まなそうな「堕ろせなんて絶対に言わないで」と語っている笑顔があった。

 俺だって気持ちは一緒だった。心の一番奥の部分では産ませてやりたいと思っていたのだ。何一つ不自由のない暮らしをしていて、自分だけで手一杯なんて状態じゃなかったらどんなによかったろう、そう思っていた。でも現実の自分は、夜ごと腹を減らしているような男、いや、ただのガキだった。

 結局、俺は最初の場所から一歩も動けなかった。子供は将来きちんと結婚してからにしようよ、と彼女にはなんとか諦めさせた。

 それからずっと、子供を作れるような生活水準にいたることなく三十代の半ばを過ぎ、それなりの暮らしをやっと手に入れてから同い年の妻を得た。作ろうと思えば作れるはずだった。しかしこの歳でお互いに子供はきついんじゃないか、と思ったらもうダメだった。自分の子供というだけで尻込みする自分はまったく変わっていなかったのだ。

 五十路を目前にして、自分のことを「俺」と言うよりも「わたし」なんて言う機会が増えた今、偶然見かける赤ん坊や子供を見て「失敗したかもな」と思うようになった。子供がやたら可愛く見えるようになったのだ。

 わかっている。そんなのはただのセンチメンタルだ。大体にして子供が可愛いだなんて、孫がいてもおかしくないような歳になったから思うことで、つまりはそんな歳になったってだけのことなのだ。

 小学生たちは自分と同じ方向へ、中学生たちは斜向かいへ、そんな「東華中学校の交差点」のそばに立ち止まり東方向へ目をこらすと、緩やかにカーブする交差点直前で速度を落とした白地のデザインのタクシーが信号を超えてくる。来たな……と左手を高く上げた。

 運転手はゆっくりドアを開くと、

「おはようございます」

 いつもの笑みでわたしを見た。

 この運転手より頻繁に出くわす運転手ならいくらでも別にいる。その人たちだっていつも愛想よく乗せてくれる。でもこの運転手の笑みのようには、胸の奥にある親近感をまっすぐ引っ張り上げるたりしない。もちろんそこにはちょっとしたわけがある。


 六年前の四月、急な辞令を受けて仙台に来た。その年の三月十日までは絶対にありえなかった転勤だった。

 初めの数ヶ月は、よく倒れなかったもんだと思うほど働いた。よくあれだけ無理できたものだと思うけれど、あの頃はいたるところが濃い空気で満ちていて、絶望の分だけエネルギーに溢れていた。だから誰もが、ぶっ倒れそうですよ……とか言いながらも働けていたのだ。

 そんな忙しさの真っ只中にいた、今と同じ六月の終わり頃だった。いつも通りの場所で傘の中からタクシーに手を上げた。全体に真っ白な印象のあっさりしたデザインのタクシーだった。ドアがゆったりと開いた。傘を閉じ、いつもの言葉を言いながら乗り込み、真っ白なシートカバーに腰を落ち着けた。

 そして、聞いた。

「ムリです」

 これがこの、今まさに目の前で微笑んでいる運転手の口から聞いた最初の言葉だった。

 空耳だと思った。当然だ。こんなのがタクシーの運転手の吐くセリフとは思えない。さらには、タクシーの急な停車にトラックが長々とクラクションで抗議し、はっきり聞き取れなかった。

 空耳をらしき音声を空耳として片づけたあとは、何事もなかったように真っ白いシートカバーに腰を落ち着け、足元をゆったりできる位置に置いた。しかし車は前に出ない。それどころかドアさえ閉まらない。やがて声がした。

「この時間帯に『急げ』はムリです、お客さん」

 今度はしっかり聞いた。さっきのも空耳なんかじゃなかったのだ。そう思うと同時に、不意を突かれたような思いが腹の奥に落ちた。

 そうなのだ。車を止めてシートに座るか否や、確かに自分は言っていたのである。「広瀬通り一番町、急いで」と。

 でもこれは一日の何番目かに口にする挨拶のようなものだ。別に毎朝なんて急いではいない。何年か前に赴任していた名古屋の運転手に家庭の話をだらだら聞かされたことにうんざりし、こっちが急いでいると言ったら黙って運転してくれるだろうと口にし始めたのだ。それが今となってはもはや、そう言っている意識さえ薄れて、すっかり口癖になっていた。だから、突然の「ムリ」は不意な一撃となったのだった。

 しかしそんな一撃も、一度受け止めてしまうとまるでコントのセリフに思えた。

大体にしてタクシーの運転手が「急げ」に対して「ムリ」である。しかもその運転手ときたらがっちり顔を前に向けて頑固なくらい固まっている。臭い演技のように。

 そう思ったらちょっと笑えた。

 「ムリ、ですか……」

 言った口元が思わず緩んだ。

 「はい……」運転手はじっと前を見つめ、続けた。「ここから先の道は朝は必ず混みます。なので『急げ』はムリです。もしかしたらたまたまきょうはすいてるかもしれません。でも約束はできません。ムリです」

 プロの運転手の言葉じゃない。まるで子供の屁理屈だ。どうしても笑いそうになる。

 と同時に、大丈夫なのか? とも思った。目の前の男の脳みそを疑ったのである。もしかしてこの運転手、車なんて運転してちゃまずいような病気持ちなんじゃないのか?

 でも声の印象は、少々暗くはあるが、ゆったりして落ち着いていた。頭の健康に問題がある運転手ではなさそうだった。

 しかし不快な戸惑いを拭いきれぬまま、わたしは言った。

 「そうですかぁ」

 少々途方にくれたかたちの客に対し、運転手は一貫した口調で淡々と言ってきた。

 「はい。わたしの稼ぎはその分減ります。でもムリなんです。お約束できないんです」

 普通に考えればに「じゃあ、ほかのにするよ」とでも言って降りるべきなんだろう。ごく普通にやはり実にそう思う。けれどわたしは同時に、その思考回路をなだめてもいた。

 まぁまぁ、と。大体にして、と。普通なんてどんな立派な方が言ってんですかね、と。

 その頃からもうわたしの中では、「普通の傲慢」よりも、それををなだめる「お人好しな柔軟」のほうが強さを増していたのだ。

 「わかりました。少しも急がなくて結構です。広瀬通り一番町まで、お願いします」

 「あ、ありがとうございます」

 かすかに何かに驚いたような響きが、運転手の声から感じられた。

やっとドアが閉まった。開いた時と同じゆったりとした、閉めた人の真面目さをさえ感じさせる閉まり方だった。

 目的地までは少しも混んでなどいなかった。一瞬疑われた運転手の脳みそにもまったく異常は感じられなかった。運転はごく丁寧で、車線変更もカーブでの速度の落とし方、加速の加減、すべからく冷静さに満ちていた。

 車が走り出したら、もしかしたら屁理屈のような言葉についての弁解の一言もあるんじゃないだろうかと思っていたけれど、そんな会話は一切なかった。降りる時に運転手が「ありがとうございました」と言い、こっちが「お世話さま」と言っただけだ。

 

 二ヶ月後、同じ運転手にあたった。白地にあっさりしたデザインの車体とゆっくりしたドアの開き方で「もしかしたら」と思い、ちょっと試してみることにした。わざと「口癖」のまま、行き先を告げてみたのである。

 「ムリです」

 思った通りだった。同じ言葉が返ってきた。そうか、と思った。まだ言ってたのか。しょうがないな、と思わず頬を緩ませた、その時、運転手は言った。

「他をあたってください」

 胸が、凍りついた。

 どんな、とわたしは思った。

 この人はどんな被災者なんだ。

 もちろんほかをあたったりはしなかった。二ヶ月前そうしたように急ぎを撤回し、走ってもらった。

 何ヶ所かで頑固な渋滞にはまり、3メーター分いつもより料金が高くなった。思うように動けない車の中で、運転手の写真と名前が入っているカードを見た。

 写真は実際の人物よりも、目元が歳とって見え顎も歪んで見えた。どんな機械で撮ったらこんなことになるんだろう、と思った。

 名前の欄には「勝地木正直」とあった。人の名前に失礼ではあるが、「かつきまさなお」か「かつじまさなお」ならすんなり読めるところを、地と木が重なっているせいでどう読んだらいいのか、わからなかった。

 何て読むんですか。いつもの自分なら思った時点で訊いてるよな、と思いながらじっと、わたしはカードの名前を睨んだ。


 三度目は二度目から盆休みをはさんで半月後、朝から蝉の声がさわがしい日だった。

 前回わざと、以前からの口癖の「急いで」を付けたまま言ってみるなどと、根性の悪いことをしたせいで道が混んだようにも思えていた。「他をあたってください」なんていう言葉も二度と聞きたくなかった。だから「あの運転手だ」と確認した瞬間、つまらない意地悪は口にするまいと心に誓った。

 白っぽい車体の車が半月ぶりに目の前に止まる。ドアが開く。おどおどした声が耳に届いた。

 「毎度ありがとうございます」

 おっと、と思った。覚えてくれてるんだ。

 「広瀬通り一番町でよろしいですか?」

 わたしは言った。

 「はい、安全運転で」

 毎度などと言われたくらいだから、何か話しかけてもよさそうな気もした。でもわたしはただ黙ってシートに収まっていた。

 前回乗った時に「他をあたってください」と言われてふっとわき起こった妙な予感のせいだった。だからとりあえず今のところは、この一文字余計な名前の運転手とはどんな話もしたくなかったのだ。

 腹の深いところに来る話は、この街に来てから聞かされ続けている分だけで充分だった。

 こんな言葉をよく聞いた――今回はこの土地の人たちに起きたけれど、それはもしかしたら自分たちに起きたかもしれないのだ。今度は自分たちにも起きるかもしれないのだ。

 間違いなくその通りだ。だからわたしたちは助け合わなければならないのだ。そんなことはわかっている。だから自分が行ける場所で、できることを精一杯やる。そしてそんなことでしか、自分はここには関われないのだ。

 もしかしたら被災者と呼ばれる人の話を否が応でも聞かなくちゃならない場面に遭遇することがあるかもしれない。その時は当然、真剣に聞くし、もしかしたら話を聞きながら、もらい泣きしてしまうかもしれない。でも結局はそこまでだ。ボランティアで何度も被災地に行き、ついにはその土地で生きていくことにしてしまった、などという生き方は、少なくとも今のところはまったく考えられない。

 話を聞かせてもらうくらいしかできない。でも話を聞いてしまえば、絶対に心は動く。でも心が動いても実際には何一つ、わたしにはできることはない。心が動く分だけ辛くなるだけだ。

 いまだに自分のことで手一杯なのだ、と思う。妻に助けてもらいながらもやはり私自身は自分で一杯いっぱいなのだ。これが現実で他の自分はわたしの中には存在しないのだ。

 だからわたしは、初対面の人の被災に関する話をできる限り遠ざけていた。

つまるところ、よそ者なのだ。

 でもその「よそ者意識」を自覚していることこそが自分にとっては誠意なのだ。

わたしは固くそう信じていた。

 「勝地木正直」さんの車は、エンジンを決してスさぶらせることなく進んでいく。この土地によくある苗字なんだろうか、と考えたが、すぐに窓の外の景色に意識は移った。

 寺の門、寺の門、小さな花屋、寺の門、和菓子屋、寺、寺、寺――すっかり見慣れた景色だ。蝉どもはこのあたりの寺の庭に潜んでいるんだろう。

 二十にも三十にも及ぶ寺の門だが、寺の数ほどにはこの近辺に墓はないらしい。 何十年も前に郊外の広大な霊園に、ほとんどが引越しさせられたんだそうだ。

 そんなことを教えてくれたのは、この静かに沈んでいる運転手とは正反対なタイプの運転手だった。その運転手は、仙台駅からこっち方面はかつて駅裏と呼ばれていて、大通りなんて一本もなくてて実にウラっぽいムードに満ちていたこと、そんな場所にも関わらず一時期はスケート場があった、なんていう話も聞かせてくれた。

 一方、飲んで帰ってくる時間帯の運転手はほとんどがむっつりしている。理由は簡単だ。遅い時間に乗せるには自分が住んでいる場所はあまりにも近すぎるのである。

 しかしなにげに話を振れば乗ってくる運転手も少なくない。特に東北楽天ゴールデンイーグルスの話に乗ってくる運転手は多い。そんな時にまず出てくるのは「宮城球場」の話だ。宮城球場には「まともな椅子どころか椅子なんてのがまずなくて、コンクリのベンチシートに座らされてねぇ」とまず運転手は言う。そして「場所によってやたら小便臭くて、最後には年に一試合しかプロ野球が来なくなっちゃって」とくる。そんな話を懐かしさ半分で笑って話せるのはきっと、楽天イーグルスという球団の存在がすっかり定着しているからだ。

 この人――「勝地木正直」さんは野球はどうなんだろう、と思う。やっぱりイーグルスのファンで、田中や山崎が好きなんだろうか。

 というかそれ以前に……この苗字はなんて読むんだろう。


 それから「勝地木正直」さんの車には二ヶ月に三度くらいのペースで巡り合うことになった。いつもわが家の近辺を走っている運転手に比べたら滅多に出くわさないほうだったが、走ってくるのが見えただけで「あの運転手だ」と認めることができた。

 乗っているあいだ完全に無言なのはずっと変わらなかった。けれど、毎度……のひと言は欠かされたことがなく、そのあとの沈黙と丁寧な運転だったから、車内の空気はいつも柔らかかった。

 そんな「勝地木正直」さんの車に初めて朝以外の時間帯に出くわしたのは、年が明けてあの地震からもうすぐ一年という頃だった。

 名古屋で同じ現場に入ったことのあるエンジニアと、次の月から同じ現場に入ることになっていることがわかった。

 まずは飲み屋でやり合ってからだなと、どちらからともなく誘い合い、繁華街からは少しはずれたあたりの店で飲んだ。その酒に思いのほか気持ちよく酔わされた。

 足もとのふらつくエンジニアを、イガ栗頭のいかにも頑丈そうな運転手の車にやっとのことで乗せてもらい、さて自分も……と手を上げた。そして止まったのが、あの見慣れた白地にあっさりデザインのタクシーだった。もしかして、と思った。止まった車のドアが開く。乗る。

 「あ……」

 お互いに声が出た。

 だが帰りのタクシーにはあまり喜ばれない自分である。悪いことしたかな、と一瞬思う。しかし次の瞬間に「勝地木」さんは言った。

 「毎度ありがとうございます」

 救われた、と思わず頬が緩んだ。

 毎朝手を挙げる場所とは多少ずれた、自宅により近い場所を告げた。「勝地木」さんは「かしこまりました」と言っていつも通り緩やかなアクセルで車を発信させた。

 わたしは確実に酔っていた。いい気分に酔っていた。スピードが安定してすぐにわたしは言った。

「実は運転手さんの苗字がずっと気になってたんですよね。これ、なんて……」

 最初の信号待ちと同時に、ああ……と反応があり、それから「勝地木正直」さんは言った。

 「しょうじきしょうじきです」

 は……? しょうじき、しょうじき……?

 ああ……そうも読めるか。

 いや……ふざけんな、というかこんな冗談が言える人だったのか? ってことはまさかあの「ムリです」も冗談だったとか?

 いや、あれはやっぱり冗談なんかじゃなかった。あれは確固とした拒絶で主張だった。何よりも客商売が冗談で「他をあたってください」はありえない。あれは朝の道路状況に関する真面目な主張で、こっちは自分の名前をネタにしたただのジョークなのだ。もしかしたらよく使ってるのかもしれない。

 冗談を撤回するでもなく「勝地木」さんは青信号で車を発信させた。わたしはやっと口を開いた。

「いやいや、しょうじきまさなおさん、とかでしょ。違う?」

「正解です」

「まいったな……」

 なんだよ、とわたしは思っていた。全然暗くなんてない、というか結構しゃべるんじゃないか。しかしまあ確かに、しゃべれる人じゃなければあんなにすらすらと「ムリです」の理由をしゃべれるわけもない。

「そうかぁ、しょうじきさんだったんだぁ」

「はい、しょうじき、まさなおです」

 運転手が小さく頷く。

 エンジニアと飲んでいた時同様の愉快さにわたしは包まれていた。やはりすっかり酔っていて、口も軽くなっていた。

 「でさ、これもずっと気になってたんだけど……」

 車幅ぎりぎりの狭いガードをくぐり、車は駅の東方面に抜けていく。

 「なんでしょう」

 勝地木さんは小さな段差でかすかにスピードを落とす。

 「最初に乗った時ちょっと驚いたんだけど、あれ、必ず言うの? 急いでにはムリって」

 「はい、あれだけはずっと」

 信号で止まり、勝地木さんはサイドブレーキを引きながら答えた。

 「驚かれない?」

 「大概は降りてしまいますね」

 かすかに笑ってそう言いながら、勝地木さんは走行日誌のようなものにボールペンを走らせた。

 「会社に電話されたりしないの。こんな運転手がいたとかって」

 ペンを胸に戻し、日誌を助手席に置き、今度は明らかに苦笑いとわかる笑みを勝地木さんは浮かべた。

 「はい。電話は何度か、されちゃいました」

 わたしの軽口は続く。

 「大丈夫なの? クビになっちゃわない?」

 車がゆっくり動き出し、勝地木さんは言う。

 「なっちゃうかもしれませんけど、でも今のところはまだわかってもらえてるんで」

 このあたりでわたしは気づくべきだった。けれど、ほどよい酒の余韻が奇妙なほどわたしを安定した気分にさせ、勝地木さんの口の意外な滑らかさは不思議なくらいの親密さをわたしに与えていた。

 訊けば何でも答えてもらえる、静かな会話が続く、そしてマンションまではもう五分もかからず、話がこじれる心配もまずない。思ったままの疑問を、あくまで軽い調子で勝地木さんにわたしはぶつけた。

 「わかってもらえてるって?」

 まっすぐ行くだけの経路なのに、車はまた信号で止まった。そういう道なのだ。勝地木さんは声のトーンを落とし気味で答えた。

 「まだダメなんだろうって思ってもらえてるというか」

 あ、と思った。

 さすがに気づいた。普段自分が避けているエリアに足を踏み込んだのだ。でももう会話の流れは定まってきている。その流れをわたしが変えることはできない。

 「ダメ、ですか……?」

 わたしは曖昧に声を発した。酔いが冷めていく。前の赤信号を見つめながら勝地木さんは言った。

 「はい。妻と娘、それに暮らしていた家……津波ですべて失った人間をまだ哀れんでくれてるんです」

 車が走り出す。じきにマンションだ、と思った。勝地木さんの声は途切れなく耳に流れ込んできていた。

 「そんな気遣いをしてくれるのも長くいる会社だからだったんだと思います。これには本当に助かりました。わたしだけは、本当に助かりました。でも、あ、ここですね?」

 「いや、はい。じゃ、ここで……」

 「すみません、ついこんな話……今夜はお代は結構ですので」

 もちろんそんなわけにはいかない。元々が話を振ったのはこっちなのだ。あまりに正直な話に面くらいはしたけれど、気分が悪くなるような話になったわけでもない。わたしは財布を内ポケットから出して、札の入った場所を開いた、ところで気が変わった。

 完全に、変わった。

 「ああ……」

 わたしは長いうめき声を上げた。そして言った。

 「勝地木さん、ここを左に曲がってしばらく行くと球場の向かいにコンビニがあるんで、そこに行ってもらえますか」

 「ああ、はい……」

 曖昧に答えて再び車を出した勝地木さんは、財布の中に万札しかなかったんだな、とでも思ったに違いなかった。

 酔いはすっかり冷めていた。だから断言できた。酒のせいで情に流されているんじゃない。わたしは聞いてしまったのだ、という思いが胸いっぱいに広がっていた。

 「駐車場に入ってちょっと待っててもらえますか?」

 コンビニの看板がすっかり見えてきたあたりでわたしは言った。

 「はい、かしこまりました」

 タクシーに鞄を置いたままコンビニへ行き、温かい缶コーヒーを二つ買って車に戻った。ドアが閉まると同時にわたしは、どうぞ、と運転席と助手席のあいだに熱い缶コーヒーを差し出した。

 「え、あ、はい」

 曖昧な声を発した勝地木さんに、

 「メーターをそのままにしてコーヒー一杯分――五分だけここでつきあってもらえませんか? 金曜日でもないし、別に言い寄ったりしないからさ、いいでしょ。冷めないうちにそれ、どうぞ」

 と言い、わたしは先に缶のプルトップを引いた。

 そしてひと口飲んでから、

「もう一年になるんですね」

 と言った。

 勝地木さんの缶がプシュッと言った。交渉成立……。

 ひと口目のコーヒーを飲んでから、はい、と頷き、勝地木さんは続けた。

 「妻はパート先から直接そばの小学校に逃げていれば百パーセント助かってるはずでした。娘は中学校で、こちらは妻以上に無事なはずでした。なにのなぜか二人とも家のそばで……」

 そばの小学校に逃げていれば……という言葉が勝地木さんの家がどの地域にあったのかを指し示していた。よそ者の頭にもすぐに地名の浮かぶ場所だ。

 「勝地木さんは仕事だったんですね」

 「あ……はい、そこから言わなくちゃならなかったですよね。すいません」

 「いや……」

 「あの時は街の真ん中、駅前あたりを走ってました。それからはもう、信号も消えちまった道のどこをどう走ったのかなんてまったく覚えちゃいません。どこにいても誰もが手を上げていました。道路なんて全然動いてないのに……わたしは妻と娘のことしか考えられないのに。そしてそのうちラジオから、十メートルの津波が来るって。嘘だろ、と思うような数字でした」

 「はい」

 わたしは温かい缶を握り締め、勝地木さんの次の言葉を待った。勝地木さんがまた缶コーヒーをすすった。フロントガラスの向こうで球場の常夜灯が小さく光っていた。

 「思わなくても思っちまいました。考えたくなくても考えちまいました。まさか。まさか。いや大丈夫だ。あの子は学校にいるんだし、あいつだって小学校まで十分もかかりゃしないんだから。でも頭で考えることと胸の奥からせり上がってくるものが正反対なんです。大丈夫だ大丈夫だと思えば思うほど胸がどんどん苦しくなって。……で、一時間もしたらラジオから、津波が来たって」

 そのあとのことを、たかが一人の客のわたしが聞くわけにはいかなかった。むごい場面から遠ざかろうと、わたしは話をずらした。

 「ずっとその地域――海沿いの町に住んでたんですか?」

 「いえ……、娘が三才の時、父が死んで母一人になった家に移ったんです。それまではもうちょっと内陸側のマンションにいました。母も父が死んで二年後に病気で逝って、あとは三人で……」

 言葉が途切れ、深いため息の震えが伝わってきた。

 「そうだったんですか」

 「はい」

 コンビニの駐車場には我々のほかに三台の車が停っていた。どの車の運転手席でも薄ぼんやりと携帯の光が浮かんでいた。球場とのあいだの道を時々忘れたころ、すっと車が走り抜けていく。

 勝地木さんはずっと、球場の常夜灯のあたりに視線をやっていた。そして闇に向かって語りだした。

 「なぜ妻と娘が家になんかいたのか、いなくちゃならなかったのか、どれだけ知りたくても、わたしは誰からも教えてもらえないんです。大げさに聞こえちゃうかもしれないですけど、そんな理不尽を抱えたまま生きていなくちゃならないわたしに、お客さん方は言うんです。急ぎで。急いで。ほんとにそうなんですか? ほんとの本当にあなたは急いでるんですか? 何がなんでも急がなくちゃならないんですか? だったらどうしてもう五分、いや、一分でも早く家を出なかったんですか? どんな理由で毎朝毎朝急げ急げなんですか? わたしにはただの気紛れか、もっと言っちまえば、どうしてもわがままにしか聞こえないんです。わたしは急ぎたくても急げなかったんです。急いだところで行きたい場所には行けなかったんです。……もう急いだりしません。なんでわたしがあなた方の気紛れやわがままのために急がなくちゃならないんです? わたしなんてあの時の妻と娘のことさえ何も教えてもらえないのに、なんであんたたちの気紛れやわがままに付き合わなくちゃならないんだ?」

 すべての言葉は虚空に向けて矢継ぎ早に放たれていた。わたしにも誰にも向けられていなかった。

 「ええ」

 と、わたしはただそれを受け止めた。

 「というわけだったんです」

 「はい」

 勝地木さんは言った。

 「実家になんか戻らずにマンションに母を呼んで暮らせばよかったとか、海のそばで暮らすのが娘のためにもいいんだなんて思わなきゃよかったとか、気がつけばそんなことばかり考えてるんです。考えたくなんかないけど考えちまうんです」

 そしてぐっとひと息にコーヒーを喉に流し込んだ。

「ええ」

 毎朝目にしている中学生の姿が脳裏に浮かんだ。女の子だ。一人で青信号を渡っていく。

 勝地木さんは育てた。

 わたしとは違う。

 この人はこの世に自分の子供を迎えて、中学生になるまで育てた。俺なんかより強くてまっとうな人間だ。ところが、なんてこった、俺なんかには完全には理解しきれない苦しみの底でもがかざるをえない人生を強いられている。

 「すみません、こんな話。じゃあ、そろそろ」

 勝地木さんが空になった缶を助手席に置いて言った。メーターはもうすぐ二千円というところまできていた。そのへんが区切りだろうと、勝地木さんは思ったに違いなかった。

 わたしは言った。

 「お嬢さんは海、どうでした? よく泳ぎに行ったんですか?」

 「そりゃもう……」

 真っ暗なフロントガラスに向かって大きく、勝地木さんは表情を崩した。そう見えた。

 「そりゃあもう海が、好きなんてもんじゃなかった。いくら妻がまだ泳いじゃダメだって言っても、ちょっとでも汗をかくようなころになるとさっさとTシャツと短パンになって駆けてっちゃうくらいで。風邪ひいたら自分で治しなよ、そんな妻の声が今でも聞こえてきそうで……」

 「好きだったんですね、お嬢さんは海が」

 「もう、本当に、呆れるくらい、やめろってくらい……」

 「強いです、勝地木さん、本当に」

 「強いなんてまさか……そんなわけないじゃないですか。こんな父親が」

 「わたしだったらきっと、とても生きていられなかったと思います」

 「これが生きてるなんて言えるのかどうか。ただ、死んで二人のところで行く勇気がないってだけのことです」

 「死ぬ勇気なんていりません。後悔は受け止められる人間にしかできません。スカっと前に進むなんて、できる時にすればいいんです。死にたい気分でも生きてる、後悔に押しつぶされそうになりながらも生きてる、全然前に進めないのに生きてる、そんな自分を抱え込んだまま生きている勝地木さん……わたしなんかにはできないことをやってるんです。強いです。まあ、わたしなんかに言われても、ですけどね」

 「いえ、そんな……」

 「夢で会えたりはしてないんですか?」

 「夢、ですか?」

 「ええ。夢で、奥さんや娘さんと」

 いつの間にかまた軽口を言い始めてやがる。自分を呪った時にはすでにそんなことを言っていた。なんてつまらんことを訊くんだ、俺ってやつは。

でも勝地木さんは答えてくれた。

 「ずっと……ずっと夢で会えたらって思ってたんです」

 「はい」

 「そしたら絶対訊かなくちゃならないって」

 「家に戻っていた理由ですね」

 「はい。でも何度か夢で会えても全然です。そんなこと全然訊けないんです。ただ三人で笑ってるばかりで」

 「笑ってるばかり、ですか」

 「ええ。バカみたいにニタニタニタニタ……。目が覚めると顔がびっしょり濡れてるんですけど」

 「はい」

 缶コーヒーを買いに行った時、胸の内ポケットに三枚、千円札を入れてあった。それを運転席と助手席のあいだにあるトレイに置き、

 「じゃ、きょうはこれで」

 と言ってドアを勝手に開け、外へ出た。

 勝地木さんは、ありがとうも何も言わずに運転席で固まっていた。

 酔いは思った以上に覚めていた。


 それからもう五年も経ったのか、と思う。

 「夕べも会えました」

 運転手が言う。

 「そうですか」

 わたしは小さく笑った。

 完全には誰もいなくならないんだ。そう思った。 

                                 (了)


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