第3話 懐かしい本の匂い-辻邦生さんの本

 電子書籍に対するいちばんの不満は、匂いがないことである。


 本を買うと、必ず匂いを嗅いでいた。

 という一文を読んで、うんうん、とうなずいてくれる人の割合は、どのくらいなのだろう。ないない、と引いてしまう人の方が多いかな? 


 最近はそれほどでもないが、昔は必ず、鼻が本に付くほど近づけてクンクンしていた。ほとんど匂いフェチである。インクと紙が絶妙に混じり合った結果、独特の匂いが発生するのだろうが、世の中には、いい匂いの本というものが存在する。これは真実である。


 先の10連休は、半分ほどを部屋と本棚の整理に費やした。片付けないと、もう限界、という状態だったからだ(残念ながら、限界状態を変えられないまま終わってしまったが)。


 本というのは不思議なもので、本棚の中で、その本があるべき場所というものがあるらしい。そこにないと、どうも違和感があるのだ。本たちが、「ここにはいたくない!」などと、わがままな感情を発散させているのかもしれない。しかたない。少しでも「正しい位置」に移動してやろうじゃないの。


 そんなわけで、本棚を見渡しながら、辻邦生さんの本をしっくりとくる場所に移動していると。ずいぶん昔、小説『春の戴冠』(上下巻・函入り・新潮社)の単行本の匂いに、うっとりした記憶が蘇ってきたのだった。


 辻さんの本は、なぜかみんないい匂いだった。古い本だが、河出書房新社の『辻邦生作品 全六巻』(グレーの函入り。中島かほるさんの装幀もすばらしい)とか、昔の中央公論社から出ていた『ある生涯の七つの場所』シリーズ(これも青い函入り)とか、新潮社の『海辺の墓地から』などのエッセイ集(またこれも白い函入りだ)とか。函入りの本は、いい匂いの確率が高いのか?


 出版社は違うし、匂いも違ったけれど、みんな快感を覚える嗅ぎ心地だった。どんな匂いだったかを表現するのは、なかなか難しい。本の内容とあいまってなのか、甘美というのもヘンだけれど、胸のあたりがうずくような匂いがしたのだ。


 辻さんの本以外にも、いい匂いだったなーと思える本は、福永武彦さんの『海市』『死の島』、開高健さんの『夏の闇』『もっと遠く!』『もっと広く!』『オーパ!』などがすぐに蘇ってきた。


 ところがですね。いま改めて辻さんの「春の戴冠」に鼻を近づけてクンクンしてみると、当時の匂いはほとんど立ち上らなかった。奥付を見ると、刊行されたのは1979年(昭和54年)だ。40年も前ではないか。まったくね。昭和は遠くなりにけりである。


 他の辻さんの本を嗅いでみても同様だった。あの匂いは、記憶の中にしかなくなってしまった。残念。時間のヤツめ。が、しかし、それでも、記憶の中には、ある。私の脳からは、まだ消えていない。それでよしとしよう。


 次回も、「本の匂い」について。旺文社文庫。

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