非常口
僕の仕事先には非常口がある。いや、非常口ぐらいどこのビルにだってあるだろうし、逆に無い方が問題だが。とにかくあるのだ。
廊下の突き当たりに設けられたドアの上には、これまたお馴染みの看板が掲げられている。緑色と白のピクトグラムで、扉を走り抜ける男を示しているあれだ。
毎日目にする場所にあるのでついつい目に入るが、実際にあの看板の下を走り抜けた経験のある人は、それほど多くないと思う。
非常口とは、そんなものである。
うんざりするほど退屈で決まりきったルーティンが公転しているこの日常に、ドアを走り抜ける男の出番は無い。それでいいのだ。逆に意識を向けなければいけない状況というのは、僕らにとってきっと良いものではないのだから。
ある日、僕は残業をしていたせいで会社を出るのが遅くなってしまった。翌日までに仕上げなければならない資料が、なかなか終わらなかったのだ。日が暮れて窓の外が真っ暗になった頃、資料はやっと完成した。
僕はパソコンの電源を落とすと、小さな達成感を覚えながら誰もいなくなったオフィスを後にした。
電灯が疎らにしかついていない廊下に出た時、僕はふと何かが違う気がした。
確かに今までこんなに遅くまで残業したことは無かったので、薄暗くなった館内を歩くのは初めてだ。だがそうではない。何かこう、もっと根本的なものが、いつもと違う。
あちこちに走らせた視線が、ある一点に惹きつけられる。
廊下の端のドアの上。緑色の看板。夜間でも見えやすいよう、今はぼんやりと光っている文字。その隣。
男がいなかった。
ただ緑の壁を切り抜いた白い枠だけが、まるで別の世界に続く道のように光を放っている。
館内は恐ろしく静かだ。エレベーターのモーター音も、警備員の足音も、いや、外の都会の喧騒さえも今は聞こえない。
僕は直感的に悟った。
男は逃げたのだ、このビルにいる何かから。
そして今、僕の背後に何かがじっと立って見下ろしていることを。
超短編集 Black river @Black_river
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