番外編 徹底討論!「チー牛」とは何か?
<1. 序文>
「三種のチーズ牛丼」が、今世間を賑わさせている。
世間といっても、ごく一部の限られた世間(5ch、まとめブログ、twitter)ではあるが、印象的なリアル調で描かれたある男子青年の画像は、「典型的陰キャの容姿」や「チーズ牛丼のネガキャン」「吉野家・松屋の陰謀」など、さまざまな解釈が行われ、また多数のコラ画像が作成されるまでに至った。
その勢いは、一時的なブームと共に衰退を繰り返す凡百のネットミームの枠を超え、「陰キャ」「オタク」に取って代わる新たな蔑称として、今やネット文化史の1ページにその爪痕を残しかねないほどである。
しかし僕が思うのは、この「チー牛」というワードが指し示す、その具体的な意味や有り様は、ひとによってまちまちであり、何だかはっきりしていないという印象である。
例えば、「チー牛陰キャ」とセットで用いられる用例もあるように、「チー牛」は陰キャの典型的容貌とも言われているが、ほぼ全ての陰キャにカテゴライズされる人間が、チー牛の容姿に当てはまるかと言われればそうでも無い。
今や日本を代表するシンガーソングライターである「米津玄師」は、その内向的な性格や元ボカロPという経歴からか、「陰キャの王」として某ネット掲示板などで取りざたされがちであるが、彼が「チー牛」的外見をしているかと言われれば、答えはNOであろう。
と言うか、5chにおいて「チー牛」ブームの火付け役となったレスにおいては、「就労移行支援利用者によくいる若い男の典型的な顔」としてこの「チー牛」の画像が紹介されていることからも、おおよそ全ての陰キャを指し示すものではないことがよく分かる。「チー牛」は「陰キャ」には違いないものの、その「典型」とはなり得ないのだ。
ならばこの「チー牛」という言葉が指し示す対象とは、いったい何であるのだろうか?
容姿? しょうゆ顔、ソース顔、しお顔と呼ばれるものと同様に、純粋に個人の容姿を指し示す言葉であるとするならば、なぜその容貌を持つ人物が、すき家で「チーズ牛丼」を頼みがちなのか?
容姿がその主体に対してある特定の行動を選択させる、という状況は、例えば「髪が長い」という容貌を持つ人物であれば、彼は床屋や美容室に向かって散髪を行うかもしれない、また「歯が汚い」という容貌を持つ人物は、歯医者へ行って歯のクリーニングをしてもらったり、色素予防効果のあるハミガキ粉を買ったりするかもしれない。
しかし、そのような状況においても、例えば「髪の長さ」を自身のアイデンティティとし、それを意識して自身の容姿として受け持っている人物であれば、散髪などという行為を選択することも無いだろうし、自分の歯がいくら汚くても気にしない人であれば、歯医者にも行かず、ハミガキ粉も買ったりしないだろう。
そう考えると、すき家でチーズ牛丼を頼ませがちな容姿って、いったい何なのだろうか?
まぁ、太ってたり、筋肉質であったりしたら、基礎代謝も大きいし、結構ガッツリとしたもの好きそうな気もするから、チーズ牛丼とか頼みそうであるけど....
ここで問題となるのは、容貌そのものではなく、彼にチーズ牛丼を選ばせた、彼の意識というものが、いったい如何なるものであるのか、という点であると思われる。
つまり、「チー牛」の本質的意義を求める際に重要視されるのは、彼の容姿そのものでは無く、その容姿や行動によって我々に示される、彼の内面的な意識であるように思われるのである。
という訳で、今回僕が討論しようと思うのは、「チー牛とは何か?」という問題提起に対して、彼らの外見的特徴でもってそれを定義するのではなく、彼らの内面的意識をもって、「チー牛」という言葉を構成する本質的意義について考察していきたい、ということである。
<2. チー牛の表情分析>
まず最初に、当該画像を参照し、彼の「表情」が示す、彼の意識について分析していきたい。
ここでなぜ「容姿」ではなく「表情」という言葉を用いるのかは、「容姿」がひとの外見そのものを指す言葉であるとすれば、「表情」はひとの意識の表れとしての外見を指す言葉であって、その違いを明瞭にするためであると理解してほしい。
この「チー牛」の画像に関して、5chやtwitterなどのネットコミュニティにおいては、このような解説文と共に同画像が提示されることが多い。
当てはまるチー牛の特徴
・煙草を吸わない
・ギャンブルをやらない
・低身長
・実年齢にそぐわず、中学生のような幼い顔つき
・そして精神的にも幼い
・覇気のない顔
・極度に度が強いメガネをかけている
また先述した5chでのチー牛ブームの発端となったレスにおいては、以下の様にその特徴が記述されている。
・眼鏡
・黒髪
・子供のような髪型
・覇気のない抜けた顔
・(悪い意味で)童顔
・大人なのに中学生のようで気味悪い
これら「チー牛」に対する解説文を読んで僕が取り上げたいのは、「覇気のない顔」この部分である。
なぜなら「眼鏡」や「黒髪」は単純な外面的特徴、つまりは「容姿」として捉えられるものである。
また「幼い顔」というものも、その顔立ちがイコール精神的幼さに直結しているかは別として、ベビィフェイスや童顔という言葉がすでにあるように、世間一般に認められたポピュラーな容姿の一つであることは確かだろう。
しかし、この「覇気のない顔」。
覇気とは何ぞや、またその覇気のない顔とはいったい如何なるものなのか?具体的な「容姿」として示すことが難しく、あいまいな性質をもった言葉である。
僕はこの「覇気のない顔」が、すなわち具体的な意味を持つ外面的特徴=「容姿」ではなく、誰にでも共通してその顔の内に存在し得る、普遍的な心の表れである「表情」に分類されるものとして、捉えられるように思う。
では「覇気のない顔」とは具体的にどのような心情、また意識を示すものであるのだろうか。
「覇気のない顔」は、覇気という概念を「迫力」であったり「威圧感」であったりと解釈すると、強面でない穏やかそうな顔、というニュアンスで捉えることができる。
また「覇気」の辞書的な意味に基づけば、「物事に積極的に取り組もうとする意気込み」が無い顔だと解釈できる。つまりは「ある何かの対象に向かって意識を集中させずに虚を眺める」顔、のような解釈が可能であろう。
我々が普段何か対象に向かって、それを注意深く眺める時、多くの場合眉間にしわを寄せるような表情になることが多い。
これは考え事をしている最中だったり、悩みを抱えている時などにも見られる表情で、「ある対象に対して意識を向けている」際に我々の顔に現れがちな表情の一つである。
これは先ほど「覇気の無い顔」の解釈の一つとして取り上げた、「強面でない穏やかそうな顔」とは正反対の、「険しい表情」である。
つまりは「覇気のない顔」とは、「険しさのない表情」と捉えることが出来る。
さて、件の画像に再び目を戻そう。
険しい顔か、そうじゃないか、と問われた場合、おそらく後者に該当する表情かと思われる。
即ち、「チー牛」に見られる「覇気のない顔」とは「険しさのない表情」のことであり、その「表情」が表す心情・意識とは、「何事にも関心を示さずただ虚空を眺める」ものであることが考えられるであろう。
一言で表すと「虚無」の心情そのものであると言うことができる。
<3. 「三種のチーズ牛丼」分析>
次に僕が示したいのが、当画像内で彼が注文している、「三種のチーズ牛丼」そのものに対しての分析である。
画像内では「三色チーズ牛丼」と言っているが、現在は「三種のチーズ牛丼」と改称され、今なおすき家の商品ラインナップを支え続ける看板メニューである。
さて、この三種のチーズ牛丼、メニューを見てもらえば分かると思うが、カレー類を除いたすき家の丼物メニューの中では一番の高カロリー商品である。
加えて、もう一度画像を確認すると、彼は「三色チーズ牛丼」の「特盛」さらに「温玉」をトッピングで付けて注文している。
総額860円であり、カロリー換算すると、およそ1438カロリーである。
成人男性の1日の平均摂取カロリーが2200カロリーであるのに対し、「三色チーズ牛丼特盛温玉付き」はその基準の半分を超えるほどの膨大なエネルギーを含有していることが分かる。
また当画像の作者であるいびりょ氏(@ibiryo_sun)は自身のtwitter上で、昨今のチー牛ブームに対し以下のようなコメントを残している。
いびりょ @ibiryo_sun 2018年10月25日
昔自分を描いた絵が、まとめブログで気持ち悪がられて笑いが止まらない。
まあ確かに、あれは気持ち悪いわな。
三色チーズ牛丼は大盛りなんて今はくえないよ。
作者が当画像をアップロードしたのが2008年であり、上記のツイートは2018年にされたものである。
10年以上が経過し、作者の嗜好も変わったのだろうか、以前のようにチーズ牛丼を食べることができない、との一言である。
いや、もっと踏み込んで文意を解釈すると、いびりょ氏は「大盛りなんて」と牛丼のサイズを表記している。
例の画像においては、男が注文していたのは「三色チーズ牛丼の『特盛』」であった。
つまりこれは、「以前は特盛を平らげることもできたが、10年経った今となっては、大盛りを完食することですら難しい」と、自身の食欲の減衰、消化能力の低下を示唆している文言であると考えられる。
それは例えば「もうこの歳になるとアブラ物は食えないよ」のような自身の高齢化とともに進展する食の細さを示唆するものであり、即ち「チーズ牛丼を食べることのできた過去の自分」とは「若さ」の現れであり、以上のような文意に基づくのならば「チーズ牛丼」は「若さの象徴」として解釈することも、また可能であるように思われる。
つまり「三種のチーズ牛丼」とは、「豊穣(高カロリー)」と「若さ」を象徴する現れとして捉えることが可能であり、ならばその「チーズ牛丼」を注文する「虚無」の主体としての「彼」は、いったい如何なる存在であるのだろうか?
<4. 目的のない貪り>
「虚無」の主体、つまり自身の内に何ら目的がなく、目的のないまま「豊穣」と「若さ」を享受する主体としての「チー牛」。
つまりは、「目的のない貪り」こそ、僕はチー牛を規定する本質的意義であると思われるのである。
これはたとえ、「すき家」の「三種のチーズ牛丼」を注文する「特定の容姿をした男」でなくとも、当てはまる概念であるように思われる。
例えばそれなりにおしゃれな格好をして、愛車で「スターバックスコーヒー」に向かって、「キャラメルカフェモカwithキャラメルソース」を注文する。
車なし、ダサい、すき家、などの要素によって構成された「チー牛」的人物と比較して、こちらのほうが幾分か垢抜けた印象を我々に与える。
しかし、問題なのはその外面ではない。
本質的な意味でチー牛か、そうではないかを判断する基準となるべきは、その行為自体が、「豊穣と若さの無目的な享受」であるか否か、なのではないだろうか。
このような要素、つまり日々の生活における無目的な瞬間、それを一切排した生き方をしている人など、おそらく数少ない、いやほんのわずかな人間に限られてくると思う。
しかるに、我々は少なからず「チー牛」的意識を常に抱きながら生きている主体なのであり、誰しもの心のなかに潜むものとして「チー牛」を理解するのであれば、その揶揄に怯えている人にとっても、多少は生きやすい世の中になるのではないかと僕は思う。
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