ユキちゃんVSカスミ・シスターズ

 それは決して、深夜の酷暑のせいばかりではなかったのです。とにかく、なんとも言いがたい胸のしめつけと、まぶたを内側からこじ開けられるような強い抵抗感を覚え、女の子は眠れないでいました。時計を確認するまでもなく、晴れの日の朝がすぐ枕元に転がっているのです。女の子は明確な絶望をもおぼえていました。しばらくしてろくな空腹痛もなしにカスミさんと食卓へ行って、胃にものを入れたら、また寝床に帰ってきてしまいました。どうしてどうして、生理的な食事欲求が満たされたせいかそのおかげでしょう、徐々じょじょに女の子の視界は天と地のさかい目をなくしていきました。いちど前兆が始まればあとは止まることを知りません、女の子の意識もまた無自覚に輪郭をうすめていったのです。

 回想としての話はそれまでです。表現性をはいして言うと、その日女の子は毎日見ているはずの夢の気配を、一切感じとることができませんでした。


         ◆


「――ユキ、ちゃんっ。いま起きたの?」

 と、急にどこからか呼ぶ声がしたので、女の子は布団からからだを起こして周囲を見回しました。今は足が短く、あの家を俯瞰ふかんしうるほどのものではありませんし、からだを上下させるぶんにも両腕を使わなくてはなりませんでした。すると声に過敏な反応をしておきながらも、女の子はずいぶんと時間が経ってから声の元を探し始めるのです。縁側のは優しい声かけのあと、まるで自分の存在を女の子に無視されたようにまちがえてしまって、眉を寄せてひどくおびえていたのです。

 いわんや、女の子も目覚めたてのまなこをひっしにしばたたいて、男の子を見つめました。太陽からの強い逆光があり表情以外の成分はほとんどわかりませんでしたけれども。

「おにい?」

「え、うん、真珠しんじゅ。ぼく真珠だよ。あんまりお姉ちゃんと間違えられることってないんだけどなあ……」

 男の子はつづけて軽やかで、甘い響きの、舌足らずでない、愛おしいこわねで言います。

「えっと、せっかくだから町のコト紹介したいなって……いっしょに、さんぽしよっ?」

 そう、いとこである真珠くんにいざなわれ、女の子は外に出ることに決めました。

 農道を歩いていると太陽は電球のように便利な光へ早変わりしますから、女の子が真珠くんの顔をよくよく見ることは容易でした。おだやかな目つきに口元、きゃしゃな手足、反しててかてかの日に焼けた肌、性別をおおい隠した大判ユニセックス瀟洒モダン甚平じんべえ――演芸路 真珠くんはそういう特徴をもった男の子でした。女の子は彼こそを、13歳の長女のように思いたかったのです。決してあのようなやんちゃで節操無い子どもを、自分より優位の立場に置きたくなかったのです。

 ……さておき、真珠くんは言いました。「お姉ちゃんはああやって言ってたけどね、ぼくはここ、すごく気に入ってるんだ。静かで、ご近所さんみんながやさしくしてくれて。一人でいたって、誰も気にしないで。すごく気楽だよね」そうやって心を整理できるほどに気楽であり、またそうして心を整理しなければならないほどに気楽ではないのが本音でしょう。「だから、カスミさんのこと、うらんでないよ。どうしておうちが欲しかったのか、わかんないけど」

 真珠くんは車椅子を押して、女の子をとある石橋の上につれて行きました。

「ここで待っててっ!」

 と、間髪いれず一人飛び出していく真珠くんは、川原をとおって水のなかに足をつけました。今は人間の体温と相違ない気温をしても川自体冷たいようで、「ひゃ!」と、寒気がするくらいかわいい声を上げると、対してずんずんという大胆さで石床を踏みしめています。

「ほら、見てよ!」

 ちょっとしてから、その手には中くらいの魚がにぎられていました。魚は活魚かつぎょになりたくなくて元気よく跳ねまわりますから、すぐにも、真珠くんの甚平が模様のかすむくらい水にぬれました。またそれがおもしろいのか真珠くんは満面の笑みを浮かべているのです。女の子も、それにあてられたからか、おかしくって、笑ってしまいました。

「ユキちゃんもおいでよっ。ユキちゃんは、川遊びきらい?」

「おーにい……」

 そもそも、川遊びなんてしたことがありません。水泳プールと何がちがうのか。それに女の子はまるで借りてきた猫のような、青空の下に華装LBDの格好をして出てきてしまっていたので、これをぬらすという結果はあまりに言語道断であったのです。

「そっか。ざんねん」立ちつくしている真珠くんの、顔色はしだいに冷えていきます。彼は地に上がろうとすそを抱えた両手足でぎこちなく歩き出します。やがてずぶぬれのまま、橋の中央にかえってきました。

「でもね、次はもっとたのしいところに行くよ!」

 真珠くんはまた車椅子を押して、今度家とさか向きにある草原に行きました。

「もう、少し待っててね」

 と、真珠くん。ほの近い場所に里山が広がるせいでしょうか、背の低い植物ばかりでぱっとしない地上に、ちー、しゃんしゃん、というせみのみごとな混声合唱が響き渡っていました。小さい男の子の柔らかな声はそれに比べて聞き取りづらく、女の子はもう一度聞き返す手間をとりました。いったい何を待っていればよいのでしょう。車椅子の車輪タイヤには自動車のような弾力もはたらくくるまのような履帯りたいもついていませんから、草地のもこもことした土の上で走行することは困難です。だから、女の子は自分の足で出歩きたいとはじめて真摯しんしに考えていました。考えているうちに、蝉ではないいななきがするものですから、目をみはると、いつのまにかこちらを取り囲むようにして牛と馬が立っているのです。怖いに決まっています。女の子は自分も草食動物ながら彼らとは仲良くできる気がせず、すぐにも逃げ出しました。思い返すとこの草地へ入ってくるとき、真珠くんはやけに重たい木のさくをこじ開けていたのです。いくら家畜とはいえ放牧しているのであれば、草地の自然な草が栄養で、それを踏み荒らしたわたしたちからは敵性を認められてしまうのではないでしょうか。真珠くんも、もしかしたらもう……

 などと熟慮して柵を追い出たあと、後ろを見返した女の子は彼らとなんら自然に遊ぶ真珠くんのようすにびっくり仰天しました。

「大丈夫だよー!」そう真珠くんが声を張り上げて言いました。「この子たち、とってもおとなしいんだよっ」そしてむじゃきな笑顔を見せてくれます。模様の消えた甚平がなおさらに脱げそうになるくらい、彼らの頭や舌でもみくちゃにされながら。女の子は服がよごれることをきらって、決して柵のなかにもどることはありませんでした。ありったけ真珠くんの褐色肌がうす白く塗装コーティングされていくさまを眺めていました。

「えへへ、かわいいよねー」

「お、におい……」

「まえの家じゃあんまり動物園にも行けなかったし。ここっていいところだよね」

 真珠くんは遠くの牛さんとお馬さんの飼い主さんらしき男性にあいさつし、服を直してから三たび、車椅子に女の子を乗せて歩き出しました。

「次はもっともっとたのしいところに行くからね!」

 女の子は、実はすこし飽きていました。

 それを感じたのでしょうか真珠くんは今度演芸路家のすぐそばにある、山の上の公園に行くよと、あらかじめ教えてくれました。途中、ぢぢぢぢ、みんみん、という傾斜の竹林をとおって山に入り、新緑の天井が切りひらかれた場所で真珠くんは足を止めたのです。

「ここがそうだよ」

 しかし公園と言うには、遊具もなく雑草の生えないやせた砂地だけの場所でした。ただし、公衆こうしゅう便所トイレらしき建物があります。カスミさん的に言えば「公園」とは「公衆の花園」を意味しているのでは――そのような冗談が言えるていどには、ばかげた景色でした。

「ぼく、いつもここでお姉ちゃんと遊んでたんだ」

 と、真珠くん。「~していた」と過去形ではありますけれど、確かに一家が引っ越しをしたのは昨年の暮れ、過去と言うにはあまりに最近すぎるのです。だから、まだ叔父おじさんの母親が生きていた当時、帰省中に遊んでいたという意味合いなら道理にかないますし、恐らくそういうことなのでしょう。

「おにい?」女の子は、もう姉とは遊ばないのかたずねました。真珠くんにとって姉がどういう存在なのか、女の子には何もわからなかったからです。

 やがて真珠くんは、(こう言うと彼にはこくですけれど、自虐的に)口元ではにかみ笑いを浮かべつつ、答えてくれました。

「ぼく、ずっとわからないんだ。ぼくとおなどしの男の子……女の子、が、どんな遊びしてるのかって」

 それは答え、というよりあらたな発問に聞こえました。まったくもって、むじゃきさを日々少しずつ失効しているようなわたしたちに、発想の突飛な小学生たちの遊びのことなんて、なんにも。とりあえず真珠くんの姉は一人で映遊戯テレビゲームをしているか、中学1年のおともだちたちと洒落しゃれた隣町に出かけるかしているみたいでしたけれど。

「昔からお姉ちゃんは、ぼくの遊びになんでもつき合ってくれたよ。でも本当は、お姉ちゃんの遊びにぼくもさそってほしかったなって……ぼくが妹だったらなって」

 虚空に額を向けながらそんなことを、思いつめたようすで言うのです。だってわかるはずもありません。姉が弟と女の子の遊びをしたがらないというのはどの家庭のどんな姉弟にだってありえることです。彼が自分の、性別にまでも疑心のおよぶほどの不安と寂しさを感じている理由が、まさかそれだけのことだなんて、女の子に信じられるはずもありませんでした。

「おにい?」

「え、どんなことしてたか? えっと、カブトムシ探したり木登りしたり、どんぐり拾って、おすもうして、あとは……」

「ににおっ!」

 憔悴しょうすいぎみの真珠くんに向かって、女の子はそれらを全部やろうと提案しました。「ほんとにっ? ユキちゃん、その足でだいじょうぶ?」

 ええ。少なくともどんぐりはあっても腐植質のものしか今どき転がっていないでしょうけど、ほかのことなら、一緒にできると思います。そうして女の子は華装ドレス腰物スカートのすそを太ももに紐で結びつけ、車椅子より飛び下りました。地面はいつか小学校の草むしりをしたときの感覚と同じです。ただすぐにも二人で森に入ると、地面が湿気でぬかるんでいましたから、まだ始まってもいないのに真珠くんのくつと女の子の着地面は、水っぽい土と泥まみれになりよごれてしまったのでした。

「ここよくすべるし、坂だから気をつけてっ!」

 と、女の子の手を強くにぎって、支えてくれる真珠くん。顔つきはもうとっくに腕白わんぱくな男の子そのものだったのです。

(なんだ、わたしにも、誰かの少しはげましになれることが言えたんだ……)

 果たして女の子はそれを心のそとに吐き出そうとしませんでした。だって、わかるはずもありません。じゃっかん9歳の真珠くんがかかえていた、周囲の理解しがたい悩みごとのように、女の子は昔から自分自身のかかえていた違和感を、他に説明できる方法を持たなかったから。今はむじゃきに遊んでいるほうが、深く考えなくってすむんだと、結論していたのですから。


         ◆


 家に帰ったとき、どろんこになった女の子と真珠くんを見て、叔母おばさんは何を感じたのでしょう。元気がいい? いつものこと? それとも、めずらしかった? 何にせよ、おたがいに肌着姿で並んだとき、真珠くんのかがや宝石たまのような手や首元に危機感をおぼえるはめになった女の子は、気をくさらせていました。もはや自分の年齢や容姿の状況を魅力アイデンティティととらえられる境地にいたったカスミさんならいざ知らず、その彼女に教わるまでは化粧もまともにしたことのなかった女の子です。はじめて自分の意識の低さを恥ずかしく思いました。そして、当の煮卵の彼はなんという気なしに冷やし中華をほおばっていたのです。

「そういえば、真珠にユキちゃん、今日は夜に夏祭りがある日よ?」

「そうなの? わすれてたー」

 今のいままで本当に忘れていたんだろうなと感じる真珠くんの素直さが、女の子と叔母さんにささいな笑いを起こしてくれます。

 演芸路の叔母さんが町の自治会副会長であること、また町おこしのお祭りや大会フェスに興味津々であることは、女の子もカスミさんから(帰省中に活動を手伝わされた愚痴ぐちを中心に)かねて知らされていました。ましてや息子の真珠くんが知らないわけありません。夏祭りの話も、カスミさんたちの泊まりに来るもっと前から聞いていたはずです。それに、彼なら両手もろてを上げてよろこんだでしょう。不本意に、本番が近づくごとに楽しみを忘れていってしまった理由は、おそらく……、

「おにい?」

「ユキちゃん、お祭り行きたい?」

「にっお、におお!」

「ぼ、ぼくは気にしないで。それに、たぶん向こうにカスミさんもいるから……」

 いえ、興味をなくしただけならば、まだよかったです。真珠くんはこちらに、その意図を読みとってほしいといわんばかりにそうな表情をしていたのです。それは心の無自覚そのものでした。彼はなぜ自分が、大好きな姉をさけようとしているのかだなんて考えられないのです。気づいたときもあとにも、女の子は認めたくありませんでした。これまでむねに感じてきた彼への親近感の原因が、そういう部分への自己投影の産物だったなんて。「…………」

「まあまあ真珠、ユキちゃんに無理言ったらだめじゃない? 車椅子で神社までなんて遠すぎるし。それに、お姉ちゃんも、田んぼばかだからって夜道に一人はあぶないでしょ。ちゃんといっしょに帰ってきなさい?」

 そうして、まったく進展しなかったお祭りの話を叔母さんが片づけてくれました。

「う、うん。わかった」

 時刻は17時を回って、セミ音楽会コンサートにもようやく日暮らしの出番がやってきました。彼らは途切れ途切れ、かな、かな、と叙情じょじょう的に鳴くものですからこっちまでなんとなくさびしい気持ちになってしまいます。「ユキちゃんは、浴衣着たことあるのかな?」かな、と、真珠くんに聞かれ、とっさに女の子は首を振りました。すると真珠くんは自慢げな笑顔で「じゃあ、ぼくが着つけてあげるよ!」そう言い、姉と共用の私室のきり箪笥だんすから浴衣一式を取り出しました。

「うーん……ユキちゃん立ちながら着つけるの、むずかしいね。ひとまず椅子に立って? おなかに帯しばっちゃえば、あとはどうにかなるから」

 指示されたとおりに女の子は、たたみの部屋に台所キッチンから持ってきた椅子を置き、その上につま先で立ち上がります。机など周りに支えになるものはないので、まだ前開きの浴衣にそでを通すと、まあ不均衡なこと。そこから下前を入れ、上前を入れ、腰紐を巻いておはしょりを整えて……あとでひっしにおぼえた言葉たちで説明すると、そんなような地味で地道な手順をくり返していって、伊達じめの上から豪華な帯を巻くころには、10分以上もおなじ姿勢でいたことに気がついたのです。「おそまつさまでしたー」と言って、真珠くんは離れると、すかさず部屋の大きな姿見すがたみを持ってきてくれました。女の子は浴衣のすそを内ももにはさんでまっすぐ立ち、

「おにい……」

 あれ、これ、10分しか掛かってないんだ――と、かがみの自分をみて感心したのです。だってこんなていねいにじょうずに着つけてもらっていながら、始終何一つ苦痛はありませんでしたし、おまけに明るい青色の生地によく栄える白のの微妙な味わいも、感受性豊かな真珠くんならではの着つけの賜物たまもののように感じられましたから。

 いつのまにか新しい甚平に着替えていた真珠くんも、われながらこの和装はいい出来だとおもったのかかがんだ姿勢で見蕩みとれてしまっていました。

「ユキちゃんって、すごく大人っぽかったんだね……」

「にいお?」

 そう受け取ってくれたのなら浴衣でも着た甲斐かいがあったわ、と女の子は気どって返事してみました。

「うん! すっごく綺麗……」

「にいい、」この、一切のよどみもなく心の底から発しているんだろうなという真珠くんの感想に、なんだか、がらにもないことを聞いてしまった自分が、ものすごく恥ずかしく感じられたのです。


         ◆


 とはいえ、女の子は長時間車椅子に座ることをさけられない身の上だったので、念願のつくり帯をやめて結局かんたんな変わり結びに替えざるをえませんでした。そうでもしないと夏祭り――本当のところ花火大会だったようです――の人混みに耐えられるはずもないと、わかっているのですけど、何十分経ったってどうにも悔しさはぬぐいきれません。

 せめて、叔母さんから支給された2千円でいろんな屋台を巡って、ぞんぶんに楽しんでやるしかないと心に誓ったときです。真珠くん、あれだけ山野などの自然のなかだけで楽しい遊びをみつけることに長けていた男の子が、いざ明示された遊技の只中ただなかではなんの行動も起こすことができなかったのです。車椅子を歩行の友に、人の流れにみずから流されていくしかありませんでした。さっき言いましたけど彼らにお金の心配はないのです。何を気に病むことがあるのかとたずねようにも、女の子の力ない声では、雑沓ざっとうの乱音にかき消され、伝わりません。一度真珠くんのそでを引いてこちらを向かせられたものの、「なに?」と暴力的なむじゃきさにもみほぐされ、ただただ無力を噛みしめることになりました。

 それから鳥居をくぐった先の神域の、比較的静かで、ささいな庭に立ち入りました。神様もこんな日に車椅子の来客があると想定していなかったでしょうし、段を上がる苦労をさせられたことは致し方ありません。社殿のわきについて、真珠くんはようやく一つだけ買った苺のかき氷を食べていました。もうとっくに半液状化していた粒氷のなんとみじめなことでしょう。真珠くんだってすぐにそうなるとわかっていたはずです。屋台のおにいさんにも忠告されていました。それだけ、無心だったのです。

「――あんたたち、来てたのね?」

 夜の暑さで、ぼうっとした思考の女の子の耳に飛びこんできた鈴音すずねのような声は、そのじつとてつもなく嫌味な感じがしたのです。

 すると打って変わって真珠くんは、水の入った紙容器コップを置いて、顔を上げました。

 そこはかとない元気をにじませる目。

「お姉ちゃん……」

「何よ。っていうかその浴衣……ちょっと真珠、なに勝手にあたしのやつ着せてんのよ。これでよごしでもしたら、あんたの責任だからね!」

「でも、でも、ぼくの服だとサイズがなくって……お姉ちゃんのでもぎりぎりなんだよ?」

「ふん。ならそんなの、祭りに連れてこないでよ。友だちに見られたくないのよ、知り合いだって知られたくもない」

「そんな言い方! ……しちゃ、だめだよっ」

 反論する直前、これまでに何度も女の子の両脚のひみつに言いおよんできたことを、真珠くんは後悔でもしたのでしょうか、とにかく感情を押し殺したふうに見えました。優しい男の子です。しかし、強気な姉にしてみればそれは言い負かしたも同然の態度でした。

「言い方なんてどうでもいいし、あと口答えするな。ばつとして、あたしの代わりにたこ焼き買ってきなさい。ほら早く」

「わ、わかったよ」

 真珠くんはちらと女の子を見つめると、間もなく鳥居をくぐって階段を下りて行きました。

 あとに残った沈黙、その温床たる演芸路 めぐりちゃんは、その場に突っ立ったまま言いました。

「ねえ。あんたのその足、いつから無いの? 先天性、それとも事故?」

 その質問に対して、女の子は容易に答えることができませんでした。いえ、答えはすでに決まっていました。ただ彼女の発声や言葉選びが、単なる興味からきているもののように見えなかったために女の子は答えの掲示を考え直していたのです。

「……ってさ聞くと、どうせあんたもあたしが人で態度変えてるとか思うんだろうけど、勘違いしないで。それでもし事故とかだったら、あー悪いこと言ったなー、ってだけよ」

 不思議なことを言う子だな、と女の子は素直に感じました。生まれついてのどうしようもないものより、偶然の災難のほうを重要視するだなんて。それと同時に勘ぐりもしました、この子はつねに頭をはたらかせながら会話をしている、たとえ悪意のない真意だとしてもできるかぎり正直に言おうとするがために傍目からは粗野そやに映ってしまうんじゃないか、と。事実女の子自身がそのとおりにこれまでの彼女を見ていたのです。

「あんた、なんでにこだわってるの?」

 輪ちゃんはつぎつぎに話題を変え、こちらが答えにくいことばかりをたずねてきました。女の子は歯が立たなければ心も通わせ合えません。輪ちゃんとはそういう不器用な少女なんだろうと割り切るにしたって時間がかかりそうだと思いました。

「聞いてる? 答えらんないの」

「……おにい、」

「ふーん。でも、あんたたちに家を取られて、じつはよかったと思ってる。だから、あえて言うことでもないけどさ、あんたたちのことをうらんでたりするわけじゃないわ」

 いったいなんのこと? 相手の考えていることがわからないとき、いつも女の子はそう聞いたはずです。となりに座ってきた輪ちゃんは真珠くんにごく近い容姿、体型、肌色をしていながら、弟とはまったく異なる力強い声を発しました。

「今どきの中学生がどんなか、知ってる? 面と向かって話すより、万能器スマホに向かって模様アプリしてる時間のほうが遥かに長い。小学生だってそれが映遊戯ゲーム無線通信マルチプレイってだけで大概よ。……中1の無能ガキが、こんなこと言うのはおかしい? 別にだめだとは言ってない。ただ、その当事者としては、窮屈きゅうくつなのよ。馴れ合いが。友だちごっことか趣味のすり合わせとか、生きていくのに必要だったからこれまでそうしてきたけど、周りのちゃちい発想についていくのってめんどう。解消リセットしたかった。住む場所が変わるくらいしなきゃ、人間関係ってそうそう変えられないもんじゃん」

 輪ちゃんは、どことなくカスミさんを連想させる言い回しを好みました。とても主旨からはずれた、けれどみょうにこちらが聞いていられる音程の語りで、彼女たちは持論をれるのです。「あんただってそう思うでしょ?」だからこそ意見の同意を他人に過剰にもとめようとするおさなさとの食い違いが、女の子にとって気持ちのいいものではありませんでした。

「おに、にいお?」

「あ? あんたあたしに、こんな田舎の学校で一人でいろってそう言ってんの? ばかじゃん。付き合ってんのはあくまで隣近所の子、ご近所づきあいってやつ。人間、独りでいる時間って大事だけど、社会はそういうのを許してくれない。保健体育を習った人なら誰でも知ってるわ」

 でも……と、急に輪ちゃんのこころざしが頭上の環境音に溶けていってしまうような錯覚を、彼女から与えられたのです。「真珠だけ、なんでかほかの子と遊びたがらないのよ。人見知りしてるのかな。あたし……あの子とはうまく付き合えなくてさ、雑にあつかってごまかしてる。もうわかんなくてさ。あんたにこんなこと愚痴ってもしかたないよ。しかたないけど、こっちだってしかたないのよ。……あの子、いつまでたこ焼き探し行ってんのかね」たしかに、会ってまだ2日とちょっとの女の子に対して相談するべき内容ではないように思われます。実際女の子のもつ不快刀なまくらでは二人のもつれた関係を断つことなどできないと、輪ちゃんが一番よく知っていたでしょう。

 いや、そうではないのです。

 姉からは神経質で閉鎖的に見えている弟。本当は明るくて、人に好かれたくて。

 弟にとって八方美人・感情的な性格の姉。それは洞察的だからこその社交性で。

 ひじょうに近くにいて、お互いに想いあっていても、二人は理解することができない。人がみんな違った形・言葉をもっていることを知っているし肯定しているから、

 女の子はそうした情景描写――今日の花火大会がまさにそうでした――のなかに、その一部として埋没するみたいに、だんまりを決め込もうとしていました。

「そういえば、全然興味ないけど、あの人って日記書くの趣味だったっけ?」

 唐突とうとつに輪ちゃんが声を上げました。

「や、こっちの学級クラスって20人もいなくて、課題わすれるとかなり悪目立ちするのよね。小学校はそれでもよかったんだけどさすがに中学は……そういうわけだから、あと1日はあたしの読書感想文に付き合えって、あの人に言っといて?」

 カスミさんのことなら、「宿題は自分でやらなきゃ意味がない」だなんて正論を言うことはしないと思いますけれど、「まずは自分で書け。そのうえで見てやる」とか、輪ちゃんによく似てお高くとまった返事をして避けようとする可能性が高いです。彼女も見た目はそれなりにちゃんとしている一方で、整理整頓や家事をほとんどしない生活感のない人ですから。世が群雄割拠の戦国時代なら、ここいらの町で威張えばれるほどの不精です。

「ああーっ!」

 と、いうのは真珠くんの叫び声でした。おそらく彼も読書感想文の始末に頭をかかえていた一人でしょう。

「ああーっ!」

 と、いうのはわたしと輪ちゃんの叫び声でした。真珠くんがおどろいて手の袋をいきおいよく落としたからです。そして、しっかりとわたしたちも頭をかかえていました。

 その日は、めずらしくいい思い出になったとおもいます。


         ◆


 もとの町へ帰ってきてから、ふとその思い出を追憶したいと考えついた女の子は、書斎の自由帖ノート置き場からてきとうなものを探してきて、自分なりに書き始めることにしたのです。

「お! ユキちゃんも、日記書き始めたの!」

「おにい……」

「なに遠慮してんのよっ、どれどれー」

 カスミさんは女の子が暗い部屋で作業していたことには特に頓着とんちゃくせず、代わりに付箋ふせん型の手帖を女の子の手元からうばい取りました。

 それを薄々うすうすと眼のなかに留めると、カスミさんはぱったり手を止めて、こう言い放ったのです。

「こりゃあ、小説だね」

「おにいっ!」

 なんともばかにしたような言いぐさでしたから、さすがに女の子も腹を立てたのです。では、どんなものならば日記なのかと、流れで聞きました。カスミさんはさも知り尽くしているように鼻を高くして答えました。

「いいかね、ユキちゃん、わたしに言わせれば日記は叙情文なんだよ、叙情文。その日あったことをつらつら書くもんじゃなくて、その日自分が何を得たのか、明日以降にはたして何をもっていくのか、そういうことを略式的に書くもんさ。ユキちゃんは叙景的になりすぎ。もっと思いのたけをぶちまけるように、自分が書きたいことめいっぱい書けばいいのさ」

 ――この日から女の子もカスミさんに対抗して、日常のことを記録にまとめるようになりました。それも、彼女の言う日記とはとおくかけ離れた「叙景的な便せん」として。自分にとって書きたいものを書くということはそういうことで、それしかないんだと、カスミさんに伝えたかったからです。

 

 8月21日。めぐりちゃんとしんじゅくんと、お祭りに行きました。……





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