カスミさんVS鷹梨

 いつぞや、カスミさんがおとずれた喫茶店を覚えていますか? あそこは開発が進んだ東の都市まちのなかでも数少ない個人経営のお店です。来年で喜寿齢77を迎えられる店主の女性は、酒場官バーテンダー装束スーツを愛用し、西洋料理や堂菓ケーキなどをたたみの上でいただくというとてもぜいたくでみやびな趣味をお持ちの方だったのですが、残念なことに現在は店先の黒板かんばんとかずらの彫刻レリーフの美しいとびらが、すっかり古びて、一種の穴場のようになってしまっています。その原因は、店内てんない流音ビー・ジー・エムとしての心安らぐ倶楽詞クラシックからして、彼女が人気店ひとごみのように秩序ちつじょなくさわがしい場所をいとも毛嫌いしていることにあると考えたのですが、こればかりはしかたがありませんでした。何せ喫茶店に大事なのは「雰囲気フンイキ」「生意気ナマイキ」だと、言われましたから。年長者にはかてませんね。

 あと、これは余談ですが、彼女には20代後半のお孫さんがいて。そのお孫さんには昔仲のいい女の子の幼なじみがいたのですが、しばらく離ればなれになっていました。ところが半年前、婚齢こんれいの二人は思いがけずこの喫茶店で再会したのです。さすがにそのときには、とも因縁いんねんめいたものを感じたはずでしょう。お孫さんはその気がないと言っていたらしいですが、本日のつい先ごろ、女性おばあさまのもとに大学の講義が終わりしだい(女の子に)会いに行くという連絡が入ってきたみたいなのです。彼女はもいわれぬ笑顔を浮かべていました。しかし一方で、何かを案じるというようなかげを目元に落としていたことは、きっと自覚していらっしゃらなかったでしょう。わたしは左腕ひだりての時計を確認したあと、支払いをしてお店から出て行きました。


        ◆


「おまたせー」

 と、久闊きゅうかつじょし(久しぶりのあいさつをして)、仏頂面ぶっちょうづら(ふきげんにも見えるくらい慣れた顔つき)で手を振るカスミさんの目線の先には、青色の夏季仕様ワイシャツ礼式穿物トラウザーズを合わせ、足元は革靴、髪型を中央センター分けにととのえた、どことなくあの喫茶店の女性店主を思わせる綺麗で気のよさそうな青年が座っていました。

「大丈夫。10分しか遅刻してないよ」

 と、懐中かいちゅう時計を見てから、ほがらかな声でカスミさんを迎えます。

「ちなみにぼくは5分の遅刻だったから、厳重げんじゅう注意ちゅういくらいで済むよね」

「わたしはどうなるの……」

「うーん、罰金刑?」

「そんな理屈あるかっ!」

「ははは、冗談だよ。もう注文メニューはたのんでおいたから」

 そこはいわゆる屋外喫茶カフェ・テラスの一角でした。また今日は夏本番という気候のもとではありました、しかし、日よけ・風よけの洋丸傘パラソルに二人用の小さな食卓テーブル、黒と金茶のとうで編まれた、ひじかけが無くすこしった背凭せもたれの、風合いのよい椅子などのおかげで気分爽快、暑さなど気にもなりません。むしろこのような微妙ムーディーな場所で、男性と待ち合わせをしているという事実がなおさらにカスミさんのなかから熱をなくしていったのです。

 そんな彼女は青年の横に立ちつくしたままで、言いました。

「……ところで、なんなのこの店?」

 その声は嫌悪感けんおかんそのもののようでした。ちなみに英語で微妙ムーディーというと「ふきげんな」とか「斑気むらぎな」というあまりよくない語意になるそうです。外国人の恋人相手にもしくは恋愛小説などの場面にもちいるときなどには重々注意しましょう。

「お店がどうかした?」

「あいかわらず性格悪いな……あと察しも悪い」

「だから何? どうしたの?」

「……もういい」

 むくれ顔のままカスミさんは席についてしまいました。あたりは見渡すばかり、若齢恋仲カップルかあるいは洒落じゃれた女子がむつまやかに談笑するという桃色景色だったので、カスミさんにしてみれば「交際してもいない男性」と二人で卓を囲むようなまねをしたくなかったのです。やがて店員のお姉さんが鉛丹えんたん真朱しんしゅそれぞれの色の入った硝子容器タンブラーを持って、カスミさんたちの席へやって来ました。「恋仲用カップルよう吸上ストローはご入用いりようですか?」と、一切悪意のなさそうな笑顔でたずねるお姉さんに対して、カスミさんは「ああ、あのくるくるしたやつ? もし必要ならはじめっから飲み物一つしか注文しませんよね」と皮肉を返します。お姉さんはしゅんとしてもどっていきました。

「流行をくんで珍珠タピオカ奶茶ミルクティーにしてみたんだけど。どう、おいしい?」

 太い吸上で容器の中味をあじわうカスミさんを、青年は見つめています。その目元は微笑ほほえんでいるみたいでした。

 ……みたい、というのも、彼は笑うと口角よりさきに下のまぶたが上がるので、いつもよそから見ただけではばかにしている顔としか思われないのです。ですから「ほんとに、その悪癖くせ治したほうがいいよ?」「これはぼくの好癖チャームポイントですっ」というやりとりが半分、二人にとっての恒例こうれい挨拶あいさつとなっていました。

「うんまあ、確かにおいしいけど。でも珍珠タピオカと飲み物のほうが分離してて、なんだか果物フルーツ仏完味パフェでも食べてるみたいな……」

「そういう飲み物だからね」

「今のたとえはつうじたの?」

「なんとなく、」青年は薄笑うすわらいをこらえつつ。「果物くだものかん味と酸味の一手間ひとてまが、かえって完味パフェ全体を大味おおあじにみせてしまうように、珍珠の歯ごたえの食物感と奶茶の飲料感がたがいに主張し合って、言い知れない不調和を生んでしまっている……そういうことだね?」

「まあそんな感じ」

 カスミさんはわざと、ちゅうずといって音を立てながら中味を吸い上げました。

「あのさ、鷹梨たかなし

「うん」

「介護福祉士には、いつなれそう?」

「うーん、もうちょい」

「そっか……」

「あーでも、これ以上経済面ではめいわくかけないよ! 最近、講義の合間々々に、自主労働バイトはじめたんだ。これで生活費はともかく交際費とか研修費用とかは自分でやりくりできるから」

「生活費の面倒見られてる時点でかんぺきヒモだよね、」

 カスミさんは今年の2月ごろから、鷹梨という青年のお金の世話を見ています。きっかけは彼女が今の一戸建てに住み始めたばかり、ある日の夕方。

 あの喫茶店でふたたび顔を合わせた当時、両親の勘気かんきをこうむった青年は実家をはなれて、者として祖母にされていました。無理をとおして専門大学校に入学した後遺症でした。幼少期から彼らにえんのあるカスミさんは青年への同情半分、祖母おばあさまの負担を軽減したい気持ち半分で、後援者パトロンになることを決意したのです。

 しかし、今になり考えてみると、カスミさんは自分自身が母親・父親から経済的に自立できていないことを知っていたから、あのとき彼のことを否定できなかったのかもしれません。

 今も昔も、彼の生活のしつに反映されるお金が、カスミさんがご両親から借り受けたお金の規模と比例している事実に変わりはありませんでした。ですから彼女は、あたかも自分に課せられた借金とそれへの責任を、鷹梨くんに転嫁てんかするかのように、毎月きまった日に彼と待ち合わせをしてお金の相談をしているのです。

「でも、あんたって、実はあんまり紐っぽくないよね」

 この言葉のうらがわには、前述いままでのようなカスミさんの感情がありました。

「そうなの?」

「そうよ。わたし以外に女の子だましたりしてない時点で、鷹梨はただのろくでなしってだけさ」

「あれ、カスミってぼくのこと好きじゃないの?」

「あんたというか、男全般が好きじゃない。だって男って女のこと何も知ろうとしないじゃん」

「ぐさっと来るなあ、その一言ひとこと!」

 彼も男の子ですから、自分にやさしくしてくれる女性はみんな好意を持っているに違いないと考えてしまうことはしかたありません。けれど、たとえそこに好意があろうともなかろうとも、向かい合い笑って話し合える二人の関係は、周囲の若い恋仲アベックたちのものと一線をかくしていました。

「今日だってさ、いちおう身だしなみ考えて来てるんだよ? ……相手に気があるかどうかってのは関係なしに、女は着飾りたいし、気づかれたい生きものなのよ」

「あ、ああ。えっと……わ、一繋ワンピースってていいね……」

「おい。四一行前さっき語彙ごいりょくはどこ行った!」

 カスミさんはふたたびふきげんな顔つきになります。

「ははは。ごめん……」

 鷹梨くんはつかれきった目元で苦笑し、注文した珈琲アイスコーヒーの入った容器をやっと口元に運びました。――彼の気持ちを知るために、みなさんにも一考していただきたいのです。今日こんにち待ち合わせをした30歳手前の女性が、みかんの花のこまかな刺繍をした黒い一繋(膝丈で、腰物スカート末端まったん煙布シースルーになっている)に、遊靴スニーカーという恰好であらわれました。決してやぼったいことはありませんでしたが、ぶっちゃけ色気とはあまりに稀薄きはくです。あらかじめ会う約束をした彼女の着ている服それ自体が、果たしてどういう魅力をもっているのかということよりも、風姿そこに果たしてどういう意図があるのかということを知りたくなってしまうのは、こういうとき男性のいたって自然な心理だと思いませんか。つまりカスミさんの身なりは、服装をほめてほしい気持ちとうらはらに、鷹梨くんのなかに「カスミはなぜそんな動きやすい服装をえらんだのだろう」といううたがいの心をまねいていたのです。

 さておき、月に一度きりのおしゃべり会を世辞せじ世論せろんにかまけてしまって棒に振るわけにもいきませんので、これから二人は変速板クラッチをだんだん接続つないでいくように急速な会話を展開していきました。料理のこと、番組テレビのこと、進路方面のことも当然ながら、しかし二人の話題でもっとも盛り上がったのはカスミさんの間取りについてでした。

「いちおうさ、あの家って深慮バリアフリー建築になってるよね。玄関げんかん安寧傾斜スロープとか、平坦へいたんな階段なんてまさにそうでしょ」

「だからって、使える部屋ばかりなわけじゃないわ。昔のなごりで四畳半くらいの子供部屋があるんだけど、二段にだん寝台ベッドが場所取ってるから、衣装部屋にするくらいがせきやまだし、書斎しょさいもほとんど絵本で埋め尽くされててさ、ほんとさんざん。二階で使えてるのは寝室と便所トイレだけねー」

「便所といえば、一階のやつは本当に百貨店モールとかの化粧けしょう室って感じするよな」

「あー、わかる。洗面器もりっぱでね。あの叔父おじさんは、どこに金かけてるんだか……」

 カスミさんは呆れた目をしていました。こちらとしても彼女たちの話す内容が瀟洒しょうしゃな喫茶店にはとても似つかわしくないように思えてしまい、もはや呆れるしかありません。

「そういえばカスミ、今日、家に行ってもいいかな?」

 と、鷹梨くんははずんだ声で聞きます。

「実は昨日、後輩の農林(高校)生から大量の野菜をもらっちゃってさー! 一緒に焼肉バーベキューしようよ!」

 あとからカスミさんがのぞいてみると、彼の足元には緑や茶色があふれ出そうになった不燃ビニールぶくろが置かれていました。また彼は左脚で隠すようにして、おそらく焼肉用の牛肉の包装パックいくつか入っているとおもわれる嚢も置いていました。

「このへんの農林って畜産ちくさん無いよね……」

「あ、」

「ほうほう、それに国産和牛とは……4パックも……あらあら、バラロースタンに鶏肉までついちゃっていますわ! 鷹梨くんったら、よっぽどいい『県外の農林生』をお持ちなんですねー?」

「そ、そうなんだー……! あっ、別に鷹梨たかりとかそういうんじゃないよ。ぼくたちは、とてもきよいお付き合いをさせてもらっていてね、」

「もし10代相手にきよい付き合いじゃなかったら、そく通報だわっ!」

 カスミさんは叫びました。まったく――素朴なことばでしたが、その響きはそ知らぬ若齢者カップルたちを戦々恐々とした気持ちにさせ、空模様もあやうくし、そばにいつのまにか集まって来ていたからすが異変におどろきいっせいに鳴くと、それをかき消さんばかりの音量で午後5時を知らせる鐘放送チャイムが直後、空高くに鳴り響いたのです。

「……もう帰ろう。撤収てっしゅう

 二人のどちらかがげました。自分たちの足元にころがった荷物を、あまねく拾い上げて。


         ◆


「あれ……ユキちゃんは?」

「さあ、車椅子無いし、一人で出かけたんでしょ。先に始めちゃおう」

「二人って実はかなり扉外アウトドア派?」

「うーん、そこまではって感じだけど、間違ってないかも。歩くの好きだから」

 カスミさん宅へとかえって来た二人は、南側にある日当たりの悪い小庭に出ると、まもなく少人焼肉大会バーベキューの準備を始めました。あらかじめ近隣住民には告知済みです。どの家も今日の夜は熱帯夜だというのに窓を閉め切り、外食をしに行っているもようでした。なかには車で外出しているところもありました。それらこそが関係良好な居住者たちにとって、カスミさんに対するささやかな気配りだったのです。

「焼肉なんて、何年ぶりかなあ……」

 たいへん静かな場所で、カスミさんはぽつりと言いました。まだ18時台なので頭のうえの紺色の空にあかい雲がただよいます。

「先月は堂菓遊餐スイーツバイキングだったし、先々月はすしだった」

「本当よく覚えてるなー」と、中腰の態勢たいせいで肉や野菜をあみ焼きにしながら感心する鷹梨くん。

「だって、おいしかったんだもん」

「……そういえば、ぼくが来てないときって、カスミたちはメシどうしてるの?」

「あんた、わたしのことばかにしすぎじゃない? ほんとに、風呂はどうしてるのだの、飯はどうしてるのだの、男ってよけいなことしか言わないよねー」

「カスミ、ぼくの知らないあいだに、本当に性格ねじ曲がったね……」

 鷹梨くんはにが笑い交じりにためいきをきました。

「あのころは純粋じゅんすい無垢むく可愛かわいかったのに……」

「それは、わたしが大人おとなになったってことでしょ?」

「そうかな、」

「たとえ鷹梨なんかに知られなくても、時間は流れてくものなんだよ」と、カスミさんは伸びをしてみせます。「どこかの一場面タイミングを切り取ってその人を語ろうとすることは、ばからしいわ」

「そうだね……」

「現に、わたしは久しぶりに会った幼なじみが、今みたいな鷹梨になってて幻滅ゲンメツしたし」

「いやはやお見苦しいものをお見せしてしまって、申し開きのしようも……」

 そんな社交辞令を口にして、肝心の料理にほとんど目もくれなかった二人のもとに――きこきこ、きこきこと、古びたはと時計どけいのような音をまとって車椅子の女の子が帰ったのは、実に午後8時を過ぎようとする夜中のことでした。

「ユキちゃん、おかえりー」

 すると彼女は車椅子のままで真っ先にカスミさんへと近づき、「おにい。お」そう言って、カスミさんが普段身につけているはずの腕時計を返却しました。

「これ、ユキちゃんが持ってってたの?」

「……にお、にい」

「え? 『せっかくの焼肉大会バーベキューを、げか生焼けの肉と野菜を皿に積み上げるだけで終わってもいいのか。今にも頭にきのこが生えてしまいそうな湿しめっぽい話ばかりしていてもいいのか』って?」

「そこまで言ってないよね、きっと」と、ふくみ笑いする鷹梨くん。

「あー、鷹梨おまえ、しいたけとしめじ買い忘れてただろー。どうりで味気ないと思ったわー」

 カスミさんは焼網台グリルの前に立っている鷹梨くんにむかって、ふきげんそうに言いました。

「別段ぼくから注文したわけじゃないからね……というか、しいたけは分かるんだけど、普通どこの焼肉屋に行ってもしめじは出てこないと思うよ」

「食べきれなかった分は回鍋肉ホイコーローにしてもらおうかなーっと。へへ、」

「はいはい、あとで買いに行くよ。まったくけちくさいやつだなあ……」

 そこで一旦火を止め、ようやく三人は庭に広げた防護青敷ブルーシートのうえで食事を始めました。ごく一般的な焼肉では、当番の人が定期的に食材と火のめんどうをみるやり方(鍋物なべものたとえると鍋奉行なべぶぎょう式)か、全員が交互に好きな食材を焼いていくやり方(はしき鍋式)のどちらかが作法として正しいはずなのですが、カスミさんたちはある食材をあるだけ調理して食べられるときに食べるというやり方(ぶちこみ鍋式)を日ごろ採用していたために、こうして山野行楽ピクニック的・花見的な食事風景をくりひろげていたのです。

「ユキちゃんさ、正午過ぎまでいえたよね? あっこの牛さんおいし! すき焼きしたーい!」

「へえ、そうなの? ……そういえば、今日はやけにおしゃれな耳飾ピアスしてるね」

「おにいっ!」

 鷹梨くんにめられると女の子は往復おうふく殴頬ビンタを食わされたかのようにすばやい動きで首を振りました。それを見たあと、カスミさんが理由を補足します。

「いや、これ覆留耳飾イアー・カフだから。挟耳飾イアリング。ユキちゃん、耳に穴開けらんないって言うから、こういうのおすすめだよって話してたのよ。今日はこれを買いに行ってたわけね?」

「おにーい」女の子は、満足げにうなずきました。覆留耳飾は耳翅じし(耳の外側の、蝶々ちょうちょうの羽のような部分。本来は耳殻じかく、耳の貝がらといいます)に沿う形をした3センチほどの大きさで、月桂樹げっけいじゅんで作られる矢羽根模様によく似た装飾の下に、(推測ですが仏桑花ハイビスカスの)ひときわきれいな花が咲いているのです。とかく、挟耳飾イアリングは若者の間で嵌耳飾ピアスと比べて「恰好よくない」といわれますが、これならば彼らにもこころよく受け入れられると断言できるほどに、姫装束ドレス姿の女の子とその耳飾りの相性はばつぐんでした。

 鷹梨くんは認識をあらためて、こう言いました。

「そっか。うん、よく似合ってるね」

 そして鷹梨くんは目つきを悪くして、笑いかけました。

 そのときです。鷹梨くんの頭のてっぺんに、一つぶの巨大なしずくが落ちてきました。最初ははと夜烏よがらすにふんを掛けられたものだと思って、整えた髪型を気にしていましたが、次第に周りにも同じ大きさの滴が降ってきて、閑雅かんがな住宅地はすぐにも激烈なゲリラ豪雨に包まれたのです。「あー! あー!(鷹梨くん)」「がー! がー!(カスミさん)」「くるっぽー! くるっぽー!(ユキちゃん)」三人は七転八倒しってんばっとうのおおあわてをしながらも、どうにか屋内に逃げ込むことができました。が……、

「ああーっ! 肉、置いてきたままだったあーっ!」

 そんな雨の夜の話でした。


         ◆


 翌朝、午前9時。

 カスミさんは大閨房台ダブルベッドで目ざめました。身につけているものは上衣キャミソール短穿たんパンです。からだを起こすと間髪かんぱつを入れずに、寝ぐせの少しついた水色の髪の毛をすしゃすしゃと音を立てて纏めようとします。しかし相手は強情ごうじょうで、とくに右側がひどくて手に負えませんでした。あきらめたカスミさんは部屋を出、すうメートル歩き、右に曲がって突き当たりの廊下に追いだされたままになった薄茶の戸棚キャビネット(勉強机の付属品だと思われます)のなかにあった、もこもこの上着のそでに手をとおすと、またもどって今度は階段に向かいました。

 いつか、彼女のおうちの階段は段差がなく段数の多い、障害者に配慮されたものだと記述したと思いますが、実際カスミさんにしてみればそれほど特殊性をおぼえる代物しろものでもありませんでした。降りて来たところから見て北側に位置する(いわゆる普遍的設計ユニバーサル・デザインの)お手洗てあらいさえ、車椅子を収納できる広さ、洗面所・脱衣所・浴室の順にとびらがつながっており移動しやすい作りなどを具備ぐびしていながら、結局のところは出入口が開きで、つ車椅子よりはばがせまく、便器と洗面器のみの室内は余分な空白が目立ってしまっています。ですからカスミさんはさも自然なかたちで廊下へと出てきたのです。

 また自然的な動きとして、その足は居間リビングに。

 なんとなくきなにおいがしたのでしょう。

 すべらせた引き戸の下の滑走路レールに爪先を取られそうになるよちよち歩きを用いてから、入った部屋じゅうを一目見て、カスミさんは表情をうれしさに染めあげました。食卓の上に手作りと思しき回鍋肉ホイコーローの大皿と、ごはん茶碗ぢゃわんにすまし汁のわんの一組が計三つ用意されていたからです。その一つはすでに女の子が箸をつけていたので、カスミさんは彼女と対面する席につき、美しい食事作法をながめていました。

 しばらくすると、壁をへだてた台所から、虎猫とらねこマーク洋前掛エプロンをした鷹梨くんが黒い小鉢こばちを持ってやって来たのです。

「どう? ユキちゃん、おいし?」

 鷹梨くんがたずねます。それへ女の子はぜするだけで、料理に夢中なようすでした。

「昨日のお肉?」

 と、カスミさんが鷹梨くんへ。

「そうだよ。本場ほんば四川省スーチョワンの回鍋肉といえば、じっくりゆでた肉を紙みたいに薄くして、それから野菜といっしょにみそだれにからませるんだ。もちろんぼくも日本ニッポンの野菜炒めには断固反対。こっちのほうがうまいに決まってる。するとさ、昨日の雨はまさにおあつらえ向きだったってわけよ!」

「一回焼いた肉を水洗いしてるから、手順逆じゃない……? いや、余分な油が落ちるっていう利点メリットはあるか」

「一刻も早くユキちゃんに食べてほしかったからさー、早起きしちゃったよー」

「ちょっと、なんでわたしは、起こしてくれなかったわけ?」

「食われるかなと思って……」

「お生憎あいにくさま、寝起きは小食なんですう」

 カスミさんはまゆをひしゃげて不満をしるしました。

 すると鷹梨くんも、つられて眉毛をひそめほんとうに心配するような顔つきをしたのです。

「お前って、もしかして朝は食べない?」

「まあね。だから、おとなしくユキちゃんが食べてる姿見てるよ」

「なんだよ、回鍋肉作れって言ってたくせに。……切分箱穀食パン持ってきてやるから、ちょっとくらいは食べなさいよ」

「はいはい。ありがと……」

 そして鷹梨くんは一度台所のほうへもどって行き、やがて焼箱穀トーストといちごののった半固酸乳ヨーグルトを盆の上にゆらゆらさせて来ました。「洗いものは全部自分でやってよ?」カスミさんは軽くうなずいて見せ、手ずから手にそれを受け取りました。

 またしばらくして、時計の長針短針が12の数字を指ししめそうとするころいに、鷹梨くんは玄関で革靴をいて何やら準備をしているもようでした。

「もう行くの?」と、寝間部屋着ネグリジェ姿のカスミさんが呼び止めます。

賃労バイトが入ってるんだ」

 鷹梨くんはわざわざ振り返ってから言いました。口調は、はずみをおさえつつもほがらかでした。

「じゃあ、また来月ね。こんどもまた楽しいこと考えとくからさー!」

「はあ……別に、気いつかわなくていいよ」

 カスミさんは呆れたような吐息をもれいでさせました。

「ていうか、遊べるほどお金があるんなら、わたしに借金する必要もないんじゃないの?」

「いや……。生活費は、まだカスミに負担していてほしい」

「どうして?」

「だって、これくらいしか会える口実こうじつがないだろ」

「……くだらないこと言ってんな。はやく行きなさい」

 カスミさんははだしで土間に下りると、「ほら。さっさ、さっさ」鷹梨くんの上着ワイシャツの背を押して追い出そうとします。彼は終始苦笑していました。それから名残り惜しそうに、階段手前にいた女の子を見て「ユキちゃん、頑張ってねっ」そうつぶやき、足早に去って行ってしまいました。

 ――カスミさんには、彼の言葉の意味がよくわかりませんでした。

 両開きの玄関扉を向いて、立ちつくすカスミさんに女の子はたずねます。

「おにい、おおにーい?」

「あ。うん。ごめん。ほんとっくだらないこと言われたからさ、ぼーっとしてた」

「おにい……」

 またわたしにも、カスミさんと彼がぜんたいどういう関係なのか、よくわからなかったのです。いつかわかるとも思えませんでした。


         ◆


 8月11日。わたしは、わたしのヒモで介護系の専門学校生である鷹梨と会合をした。

 鷹梨はくち達者たっしゃ才知さいち卓越たくえつ、身だしなみにも清潔感があり、なんというかとなりを歩かれて女としては純粋にほこらしいと感じる男だ。顔もどうにか。けれど、甲斐性かいしょうの無さについてだけは、いつまでたっても許容することのかなわない男でもある。甲斐性とはひとえに経済観のことだ。世のなかの大部分がかねによってまかなわれていることを知りながらも、金を大事なものだと思わないで、それどころか持て余してないがしろにする。そういうところが鷹梨にはあって、わたしは彼のそういう非打算的なところがキライだった。

 とにもかくにも、彼の頭のなかには、予想だが将来設計なんてフレーズが浮かびようもないのだろう。回鍋肉を牛肉で作っている時点で、すでにはっきりしていた。おまえは油の摂りすぎでわたしたちがどういうことになるか想像できんのか、そう叱ってやればよかったという後悔こうかいねんが今さら脳裏をよぎる。

 さて、この日記を読むことに際して、いったい何の価値があるのかわからなかったけれど、ふでるわたしにとっては確実な意味があるので、それだけ書いて終わろうと思う。

 鷹梨を見放さない限り――あるいは、鷹梨がわたしを見限らない限り――わたしは自立することができないのだ。わたしたちは偶然にも同じようなタイミングで成長に行き詰まり、今のように子供のあいだでの金の貸し借りをただそれだけのつながりとして守っている。それは実感的には親子関係に近いものがある。親は金がもどってくる保証なんて無しに子供を育てて、子供は、ある特定の時期になると勝手に親の膝下ひざもとをはなれていってしまう。でもそれは当然のこととして、親は子供を育てる間に棄損きそんした自分らしさを、子供の親ばなれをもってようやく回復することができる。裏を返せば、子供の甲斐性次第で親は永遠に自分をとりもどせなくって、二人三脚をしぬまで続けなければいけなくなるのだ。「ああ、はたしてわたしはこの心情を的確にいいあらわせているんだろうか。ただの字の羅列られつだとおもわれたらどうしよう。だから、文を書くのなんて大嫌だいきらいなのに」それで、わたしと鷹梨が半年ほどむすんでいるこの関係がじょうずに解消されるにあたり、自然的にあたりまえに「ある特定の時期」というものがおとずれるまで、どちらともただ腕を組んで待つことしかできないわけである。

 さしあたって――わたしはめんどうくさがりなうえ、理屈っぽいんだろう。自分の気持ちがわからないから、こうして言い回しは洞察どうさつ的になる。鷹梨のアレ同様、悪癖わるいくせだ。

 ユキちゃんはわたしにあいつのことを聞かなかった。どう思っているんだろう。と、気にならないわけがなかったけれど、やっぱりわたしは、聞かれないことで安心していた。

 今年中に、あいつとの付き合いに決着をつけなければいけない。長ったらしい文章を締めくくるにはあまりに私的してき幼稚ようちだけど、日記なんてそんなものだろう。「あ、けっきょく何したか書いてなかったわ。バーベキューに、お泊り会に、と……」結局、日記というかエッセイみたいになった。





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